2010年04月28日

ヨーロッパの道、日本の道――マイケル・パイ先生のつぶやき

 3年前、マイケル・パイ(Michael Pye)先生の授業に出ていたとき、先生はニヤニヤ笑いながらつぶやくようにおっしゃった。

「カトリックの巡礼は目的地があるけど、ニッポンの巡礼には目的地がアリマセンネ」

 カトリックでは、いまだ聖者やマリアの奇跡の地への巡礼が盛んで、その地を目的として巡礼者が訪れる。
「聖書のみ」のプロテスタントではさすがに巡礼はないが、しかしドイツなどではマイスターになるための遍歴の旅がある。

 その時は、なるほどヴェンダースなどのロード・ムーヴィというのはそのような伝統の上において成り立っているのか、と妙な感心の仕方をしていた。
確かに、カトリック圏のフェリーニの『道』など、マリアへの巡礼と読めなくもない。
 
 で、その後、そのパイ・ツイッターはそのままになっていたのである。
しかし、この前、手段とかプロセスそのものが、日本では目的になって「武道」とか「茶道」などという教育が発展してきた・・・というようなことを考えていたら、にわかにこのパイ先生のツブヤキを思い出したのでした。

 どこへ行くのか分からなくても、道を歩むことそのものが目的になる――これは、ヨーロッパ的知性から見ると不思議に見えるらしい。
四国の「お遍路」も、どこが終点なのか分からない、ということになるらしい。

 おもしろいなぁ、と思うわけです。
そういえば、高村光太郎の「道」も、行き先などどうでもよさそうです。
卒論を書いて卒業することよりも、「卒論を書く」ことのほうを大事にするこの大学も、そんな雰囲気があります。
おもしろいなぁ、と思うのです。
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2010年04月26日

ニッチもサッチも――あの方はトリックスターか?

 わが国の坊ちゃん宰相はいったい何を考えておられるのであうか。
普天間問題に関する盛り上がる反対集会のニュースを見て、そう思うのは私だけではなるまい。

「こんなに反対運動を盛り上がらせちゃって、いったいどうするおつもりか!」状態である。
新聞などの論調はこれである。

 ひょっとして、坊ちゃん宰相はこんなせりふをおはきあそばすのかも知れない。

「だからさ、アメリカに『みんな嫌だって言ってます。基地は要りません』と言おうと思うんだ。米軍基地ってほかにもういっぱいあるし・・・」

 ひょっとしたら、これが「腹案」なのか。だとしたらものすごい策士である。
が、やっぱりありえないか?
あの反対集会は「反政府」であって、「反アメリカ」というのとは少し違うようであるから。
本来なら、キャンベル来日反対というような集会があってもいいような気もするが・・・・

 ただこんだけ事態がぐちゃぐちゃになると、ひょっとしてそこから何か思いもかけない解決策が出てくるようなことも期待してしまう・・・坊ちゃん宰相=トリックスター説というのも魅力的であります。
posted by CKP at 19:41| Comment(1) | TrackBack(0) | 雑想・戯言 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

ノートテイカー緊急募集

大谷大学にも聴覚障害をもった数人の学生が学んでいますが、そうした学生のノートテイクに協力するノートテイカーさんが不足しており、現在、授業に対応できない状態、とのことです。これはゆゆしき問題です。

少しでも興味がある学生は、至誠館1F 教務課・学生支援課まで。一週間に1コマだけでもよいと思います。ノートテイクについても説明してもらえます。謝礼は1コマ1350円とのこと。詳しくはここ(チラシ)をクリックしてご覧ください。
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2010年04月24日

唄ってみなきゃ意味がない――徳永英明『ヴォーカリスト4』聴聞記

 久しぶりに夕食を共にした古だぬきと中古だぬきは、古だぬきの「寄り道して帰ろう」の提案でCDショップに立ち寄ったのでした。
その日は、徳永英明『VOCALIST4』の発売日だったのです。
CDショップの店頭には3種類のCDが山積みになっていました。
DVDのおまけが付いたもの。
「ラヴ・イズ・オーヴァー」がおまけに付いたもの。
そしておまけなし。
二人の狸は迷わず、「ラヴ・イズ・オーヴァー」付きをそれぞれ買いました。
そのCDをそれぞれのリュック・サックに仕舞い、二人は足早に家路を急いだのでした。

 翌朝、中古だぬきは大学の前で信号待ちする古だぬきを見つけるやいなや「時の流れに身をまかせ〜」と唄いながら近づきました。
すると「やっぱり、『ラヴ・イズ・オーヴァー』でしょう」と古だぬきはいつもどおり冷静に答えました。
中古だぬきが「涙で歌詞カードがかすんでしまったね」というと、古だぬきはポンポコと腹づつみを打ちました。
信号が変わったので、二人の狸は仲良く大学に向かいましたとさ。

 というわけで「徳永英明ヴォーカリスト普及委員会大谷大学哲学科支部」の推薦は、「ラヴ・イズ・オーヴァー」のボーナス・トラックが付いた『ヴォーカリスト4』です。

 3年ぶりになる徳永英明の『ヴォーカリスト4』。
いつもどおりのユーミンや中島みゆきの曲に今回はテレサ・テンの「時の流れに身をまかせ」などの歌謡曲も唄われている。
元唄よりもうまく唄おうなどという気負いもなく、軽やかにしかししっとりと、静かにしかし確かな説得力で唄われている。
何でこんなに、いいんだろう?

 2005年の暮れに檀家さん回りをしていたとき、カーラジオから徳永英明の唄う「時代」を聞いて、初めてこの唄のもつ意味がまっすぐに飛び込んできて、それが収録されていた最初の『ヴォーカリスト』を購入した。
それから、『ヴォーカリスト2』『ヴォーカリスト3』を「いいなあ」と思いながら聴いてきたが、改めてなぜこんなに聞き込んでしまうのだろうと考えるとよく分からない。
あの少しかすれた,ちょっとホモセクシャルな声が好きということもあるが、それだけとは思えない。

 ちょうどこのアルバムの発売に合わせて徳永さんがNHKの「ソングズ」に出演されていたので、その発言を拝聴する。
およそこんなことを言っておられた。

「アマチュア時代によく聞いた大切な楽曲を、それを作られた方々、それを唄われた方々の気持ちに問うて、どういう気持ちの歌詞か、なぜこのメロディラインなのかを議論しながらレコーディングしています」

 なるほど、だから、シンガー&ソング・ライターの唄よりも、説得力のある歌唱になるわけである。
自分で作った唄には、解釈という過程は介在しない。
だからいいなあとは思うものの、よくわからないということが起こる。
それでも、いいのは歌の力である。
いや「分からない」からこそ「唄ってみよう」という気になるのであるが・・・。

 しかし他人の唄は、実際に唄ってみて、そしてその意味を考えなければ人前では唄えない。
その分だけ、確実に説得力は増す。
今回、「時の流れに身をまかせ」や「ラヴ・イズ・オーヴァー」を徳永さんの唄で聞いたとき、
「もしもあなたに逢えずにいたら わたしは何をしていたでしょうか
 平凡だけど誰かを愛し 普通の暮らししてたでしょうか」
「わたしはあんたを忘れはしない
誰に抱かれても忘れはしない
きっと最後の恋だとおもうから」
と唄われるのを聴きながら、この唄の主人公たちがいったいどんな生活をしている人なのかをはじめて思った。

 これらの楽曲はこのように唄われてはじめて意味を持つ。
唄う前にあれこれと意味を吟味するのではなく、唄の中に身をおいて、唄を信じて意味をたどることによってはじめて、その唄の意味が一つの形をとる。
まず歌がある。そして唄うと同時に唄を信じて、そして唄の私にとっての意味が証明される。
歌→唄=信→証である。
何が言いたいのかというと、この構造は親鸞の「教行信証」という論理構造と同じだということである。
(それにカバーソング集という形式も、『教行信証』の「文類」という形式と同じである。)

 自我を先に立て、その自我にとって真と証明されたもののみを信じるという近代的自我も、唄うときには、まず自我を捨てて歌の中へ身を投じて、歌を唄って信じることができているのである。
当たり前と言えば当たり前のことである。
それが宗教とか思想となると、構えてしまってなかなか飛び込めないということなのだろう。

 デューク・エリトンが
「It don’t mean a thing if it ain’t got that swing.
It don’t mean a thing, all you got to do is to sing.」
(スウイングしなきゃ意味がない。意味がないよ、唄わなきゃ)
というのはそういうことだと思う。
唄う前に、「It don’t じゃなくdoesn’tだろう」、と言っていたのでは、永久にスウイングできないのである。
(ちなみに、私にとってのこの歌のベストヴァージョンは、サッチモが唄いエリントンがピアノを弾くるルーレット盤です。)
徳永英明と親鸞とエリトンをくっつけて、それぞれの方にはご迷惑なことでありました(これにヘーゲルもくっつけることもできるのですが・・・)。

 それにしても収録されている「あの鐘を鳴らすのはあなた」っていい曲ですね。
このアルバムにはテレサ・テンや阿久悠そして三木たかしなどすでに故人となられた方々の曲もある。
「後に生まれた者は先をとぶらえ」なんて言葉も思い出したのでした。

「あなたに逢えてよかった 愛しあう心が戻って来る
 やさしさや いたわりや 触れあう事を
 信じたい心が戻って来る・・・」(@阿久悠)
posted by CKP at 22:07| Comment(2) | TrackBack(0) | 雑想・戯言 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年04月17日

異邦人の鍵盤――西山まりえ:スカルラッティ・チェンバロ・ソナタ集『鍵盤の魔術師』

 久しぶりのオフなので、以前から気になっていた西山まりえという若いチェンバリストの弾くドメニコ・スカルラッティ(1685年〜1757年)のチェンバロ・ソナタ集の購入。
スカルラッティのソナタは、ホロヴィッツのピアノでしか聴いたことがなかった。
小鳥のさえずりをサッと音符に掬い取ったような軽やかで愛らしいピアノ小曲集。
それが本来のチェンバロだとどうなるのだろう、という興味で聴いた。

 聴いてビックリ。
これが同じ音符から出てくる音楽なのかと愕然としてしまった。
まるで、スペインのフラメンコギターにカスタネットが打ち鳴らされる、そんなイベリア半島的情念に満ちた音楽になっているのである。

 あわてて西山さん本人の書いた解説を読むと、イタリア生まれのスカルラッティがスペインで王女さまに仕えながらチェンバロ教師・作曲家をしていたという複雑な環境について丁寧に書かれている。
父に反発して異郷の地に渡り、大した地位にもつけず活動したスカルラッティのどこか暗い情念を表現しようとしたようだ。
軽やか可愛らしいだけの鍵盤曲ではないことがよく伝わってくる演奏。
録音もチェンバロの生々しさがよく伝わってくる。

 しかし、それだからと言って、ホロヴィッツの軽やかな演奏が間違いとも思えない。
思えば、ホロヴィッツにしても共産化した故国ロシアを離れアメリカに渡り、そして岳父の偉大なるトニカニーニに仕え、複雑な心境でピアノに向かったということではスカルラッティと同じである。
おそらく、そんな生い立ちから異邦人同士という共感もあったのではないか。
1964年録音のホロヴィッツのスカルラッティ・ソナタ集を聴くと、もはやトニカニーニの権威におびえることなく、しかし、もはや故郷ロシアには帰れないという諦念のもとで、同じ異邦人のスカルラッティのソナタを、淡々と弾く不思議な味わいが、よりいっそう好ましく聞こえるのである。

 西山まりえ盤もホロヴィッツ盤もともに、聴くべきスカルラッティなのでした。
つまり、『居残り佐平次』を聴くのに、古今亭志ん朝もよし、柳家小三治もよし、ということであります。
posted by CKP at 21:11| Comment(2) | TrackBack(0) | 雑想・戯言 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年04月14日

およびでない――若干な日々

 学監・文学部長というのは予想以上に忙しい。
学期初めということもあるのかも知れないが、毎日会議会議の日々である。
お昼休みも毎日会議。
今日も、私が主催ではないが、会議と聞いていたので会議室に飛び込む。
すると、皆さん、怪訝な顔でこちらを向く。
私の座る場所がない。
「あ、ブンガクブチョー、この会議、いらないです」

え?
およびでない?
およびでない!
こりゃまた失礼いたしました。
と、ほんとに言ってしまいした。

 植木等になってしまった、若干文学部長でした。
こんな私ですから、皆さんの必死のフォロー体制が構築されつつあるのであります。
ありがたや!
posted by CKP at 18:45| Comment(0) | TrackBack(0) | 雑想・戯言 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年04月12日

これが私の学ぶ「道」――学びと成果主義

 教育をめぐって政策がくるくる変わる。今度は教科書が厚くなるそうだ。おそらく、現場はまた混乱するであろう。
なぜこうなるのであろう?
おそらく、「教育」あるいは受ける側からすれば「学び」の位置がはっきりしないからであろう。

 文科省の政策は一貫して「教育」「学び」を「手段」に位置付けている。
教育・学びによって、いかに効率よく「成果」を出すか、という発想である。
「ゆとり教育」においてさえも、詰め込むよりも「ゆとり」の方が発想力・想像力がよりよく涵養されるという、教育=手段という発想であった。

 確かに、一国の教育政策ともなれば、それがどのような「成果」を目指すのかを明言せねばならいであろう。しかし、それだからと言って、教育・学びがもっぱら手段として位置づけられるということにはならない。
むしろ、教育・学びそのものが、「手段」ではなく「目的」に位置づけられるということが考えられねばならないのではないか?
「教育」という言葉は、「よき国民、市民の教育」というように「成果」を前提にした言葉であるが、学ぶ主体からすれば、「一生、これ学び」とも言える局面があるように、「学び」そのものが「目的」になることがある。

 私個人の経験から言えば、学校で学んだことは、学ぶこと自体の楽しさであると言いきることができる。ゆえに、未だに「学校」を離れることができない。おそらく、教師という職業を選ぶ人の多くは同じではないだろうか?
そのような学校に、そして教師たちに学びを手段としてそれとは別の成果を求めるという政策は、常に現場に混乱をもたらす。
むしろ、現場は「学ぶことの楽しさ」をどう伝えるかを問題にしているはずだからである。

 考えてみれば、日本的教育は、常に最初「手段」と見えたものを、いつの間にか目的にしてきた。
人を殺す手段であるはずの武が、「武道」という目的になる。
茶を飲むまでのプロセスが「茶道」になる。
悟りや救いに至る手段である修行が「仏道」になる。
つまり、手段やプロセスである「道」が、目的になるのである。

 そして、そのときの仮の目的が「方便」と言われるのである。

燃える家の中で何も知らず遊んでいる子供を、父親は「家の外におもちゃがあるよ」と誘って、火宅から脱出させた。このときおもちゃは仮の目的=方便であり、真の目的は「火宅からの脱出」である。
学びにもこのような側面があるのではないか?

 ということは、国家規模で「方便」を使わねばならないということである。
しかし、このような「方便」が通用しにくくなった時代が「近代」ということなのかもしれない。
近代は、「嘘も方便」を認めないからである。

 おそらく「労働」においても、同じ問題が起こり、「働く喜び」などという言葉が死語になりつつあるのであろう。
学校で学ぶ楽しさを知った者は、労働の中でも多くのことを学び「働く喜び」を知るからである。
posted by CKP at 19:51| Comment(1) | TrackBack(0) | 雑想・戯言 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年04月06日

「ガリ勉」――『昭和語広辞苑』(その6?)

 「ガリ勉」という言葉、ご存知ですか?
最近はほとんど耳にしないように思う。
 
 こんな言葉を思い出したのは、菅野仁『教育幻想――クールティーチャー宣言』(ちくまプリマー新書)を「なるほど、なるほど」と共感しながら読んでいたとき、次のような文章に出会ったからである。

「教育における単純化というのはよく起こりがちなことで、たとえば、学園ドラマなどでは「優等生=実はいやな奴、落ちこぼれ=実は根がいいヒーロー」というステレオタイプが定着していますよね。マスコミが主導して作られるこういう世論形成には議論の余地が大いにあると思うのですが、その問題はまたの機会に譲りましょう。」( 66ページ)

  その「またの機会」が待たれるが、「優等生=実はいやな奴」という表現に、久しぶりに「ガリ勉」という言葉を思い出してしまったのである。
しかし、「ガリ勉」には「優等生=実はいやな奴」の「実は」はつかない。
最初から、「いやな奴」なのである。

 というのは、「ガリ勉」の「ガリ」とは、本家『広辞苑』に「我利」と表記されていることから明確なように、「我利我利亡者」のごとく自分の利益のことばかり考えて勉強する者を言ったからである。
したがって、「優等生」というのでもなく、確かに成績は良いが最初から嫌われ者として登場していた。
それが戯画化されて、牛乳瓶の底のような眼鏡をかけて勉強以外には不器用な人間としてクレイジー・キャッツやドリフターズのコントなどにも登場した。

 そのような「ガリ勉」という言葉が、なぜ最近聞かれることがないのか?

 おそらく「我利」ということが、非難の対象ではなくなったということであろう。
「ガリ勉」が非難されていたのは、クラスの共同性を無視する生き方、また勉強の目的が「世のため、人のため」ではなくひたすら自己利益の追求であることが、非難されていたからであろう。
ところが、現在は、学ぶことの目的がひたすら自己利益つまり我利の追求であることが当然となりつつある。
勉強は、ひたすら自己の成功を目指す手段として、つまり我利の手段として位置づけられてしまっているのではないか?
大学での学びが、ひたすら「資格獲得」の手段に限定されて怪しまないのが現状である。

「なぜ勉強するのか」と問われて、「え?だって勉強するって楽しいから・・・」と答える人間はガラパゴス的天然記念物になりつつある。
文学部というのは、そのようなガラパゴス的人間がわんさかと棲息するところである。
ひょっとしたら「ガリ勉」という非難語には、我利我利と目的に邁進することに対しての非難とともに、勉強すること自体を、あるいはクラスでわいわい生活すること自体を楽しめないことを軽蔑するようなニュアンスが込められていたのかもしれない。

 楽しいぞぉ、文学部。
posted by CKP at 19:33| Comment(3) | TrackBack(0) | 雑想・戯言 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年04月02日

他人の関係――池上哲司先生高倉会館日曜講座ご案内

 来る4月4日の日曜日の午前9時30分より、京都の東本願寺近くの高倉会館で池上哲司先生の講演会があります。
講演タイトルは

「関わりとしての生命(いのち)」

 大谷大学哲学科の50歳以上の教員どもが、「綱道」で饂飩を一緒にズルズル食べるという関わりの中でいかなる生命を育むにいたったか、という話になることはないと思われます(たぶん)。
かといって、チャチャチャチャーと「他人の関係」をジェスチャー入りで唄われるということも考えにくい。
どんなお話になるかは、実際に聞きに行って各自でお確かめください。
 お話は11時まで。
あとは、円山公園あたりにお花見というのもよろしいのではないかと思われます。

 詳細は以下を参照してください。

http://www.tomo-net.or.jp/cere/takakura.html
posted by CKP at 16:01| Comment(4) | TrackBack(0) | お知らせ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする