2010年02月28日

難しいということ――語り得ぬものについての語り方

 26日(金)は、今計画している親鸞論集の執筆者が会しての研究会。
安冨信哉先生から「「点」的往生理解から「線」的往生理解へ」というお話を、延塚知道先生から「『歎異抄』と『教行信証』」というお話を、興味深く拝聴し、また大変エキサイトした質疑応答の時間をもつことができた。

 私はあれこれと質問させていただいたのだが、最後の方で、「たしかに『教行信証』は難しい。しかし、これをやさしく解説するよりも、いったいどこが、どのように難しいかを展開する方が、わかりやすいのではないか」と発言した。
この思いつきは宙に浮いたままになり、研究会の後、いつものように、言い過ぎた、言い足りなかったと後悔に苛まれていたのであった。

『教行信証』が難しい原因のひとつは、それが「文類」という経・論・釈のアンソロジーのような「引用集」である、ということが考えられる。
現代の思想書のように、個人の思想がオリジナルに展開されているものではないから、現代のわれわれは「文類」という書物形式の前で途方に暮れてしまうのである。
コピペばっかりじゃんと・・・・。
が、よく考えたら、親鸞自身、「難しい」ということについて、さまざまな箇所で微に入り細に入り述べているのではないか、ということに思い至った。

『教行信証』では、「ひそかにおもんみれば」という導入の言葉に続いて、いきなり「難思の弘誓」という表現が提示される。
つまり、阿弥陀仏のひろく衆生を救わんとする誓=本願は思うことが難しいという表現で始まるのである。
思うことが難しいのならば、語り伝えることはもっと難しいであろう。
しかし、親鸞は「語り得ぬものについて沈黙」するわけではない。
思うのが難しい本願について、雄弁に語り、膨大な引用を重ねていくのである。
それらは、おそらく「月を指し示す指」であって、「月」そのものではないのであろう。
「難思の弘誓」という表現にしても、それは「弘誓そのもの」を指さす表現でしかない。
けっして、「難思の」が指であり「弘誓」が「月」である、というわけではない。
「弘誓」というのも言葉でしかない。月を指示する「指」でしかないのである。

 このような事態を、たとえばレヴィナスならば次のように表現する。

「「神」という語が意味するはずの絶対性を毀損することなしに、「神」について合法的に語ることははたして可能だろうか?「神」について意識をもつことは、対象を同化吸収する知のうちに、つまりさまざまな様態における学習すること、把持することの経験のうちに「神」を包摂したことにならないであろうか?(・・・)私たちの語彙に含まれる「神」という常軌を逸した名詞が意味するものは、このような回収に――それが不可避なものであるにせよ――なじまないのではないだろうか?」(『観念に到来する神』、ただし引用は内田樹『他者と死者』132ページより)

 これについて内田樹は、次のようにレヴィナスの語り方を傍点付きでまとめる。

「だから、「神」は、「神」を記号的に指示したのちに、それに末梢記号を付けた「前言撤回」形式においてしか思惟され得ない。」(同書、133ページ)

 「難思の弘誓」は、「弘誓」と記号的に指示されたのち、「難思の」と前言撤回されるのである(形式としては先に撤回しながら指示しているけれども)。

 あるいは、いつか延塚先生がある講演で曾我量深という伝説的(?)な真宗学者のモノマネ・パフォーマンスをなさったのが思い出される。
「本願がわかりませんか?本願は、本願ですよ!」(妙に甲高い声のモノマネは、「本物」を知らない私でも、妙にリアリティがあって、なかなか感動的なパフォーマンスであった)
たしかに「本願は本願である」というのでは、何も言っていない。しかし、何も言わないことで「本願」という言葉の記号性を明らかにしつつ、「前言撤回」するのである。
つまり、「本願」は人間の言葉に同化吸収、包摂されるものでない、ということなのである。
あるいは、「本願は本願である」という表現は、「何も言っていない」のだから「語り得ぬことについては沈黙せねばならない」といヴィットゲンシュタインの命題の忠実な実践とも言えよう。

 親鸞の場合は、「難」のほかに、「不可」「叵=不可能」という表現を重ねてゆくことや「義なき義」というような表現で「前言撤回」をする。
あるいは、現前の現象を実体化せず、仮・方便または荘厳とみなすことで、真実を指し示す。

 ヘーゲルなどになると、「前言撤回」すらも大風呂敷になり、「学の体系の第一部『精神現象学』」と言いながら、いざ、学の体系の本論に入ると、「学の体系の第一部」は末梢されてしまう、ということが起こる。
学へと架けられた梯子は、梯子を登れば、外されてしまい、別の形での学の要素になるのである。
「否定の否定」という弁証法とは、そのような「前言撤回」の実践形式なのであろう。

 しかし、翻って考えてみれば、「思うことが難しいもの」「語り得ぬもの」の存在に我々はどのようにして気付いたのであろう。
言葉になりえないものの存在をどのように知ったのであろう。

 人間は、アタマの中にあらかじめ何らかの概念をもたぬものについては認識できない。
頭上に月が煌々と照らしていても、「月」という概念がなければ、月は見えない。
さらに、概念があっても、それを欲していなければ、目に入らないということが起こる。
おそらく、そこには、何か他からの力が加わらねばならぬのであろう。
そのような機会に恵まれることも、なかなか難しいことである。
「未知との遭遇」というのは、「未知」が「知」へと移行することであるが、「未知」が「知」へと展開するには、そこには何か決定的な媒介がなければならない。

 それが、おそらく月を仰ぎみている師との遭遇なのであろう。
我々はその師の視線をたどることによって、月の存在に気付くのであろう。
したがって、語り得ぬ月を語るには、月を仰ぎ見る師の姿を真似るしかない。
ゆえに、語り得ぬものを語る形式は、師の姿、つまり文をこれでもかこれでもかと提示することになるのである。
あるいは、ひたすらモノマネをすることになるのである。
そして、その師の姿の向こうに月を仰ぐのである。

 このとき、月を見ずに俺を見ろ、俺がオリジナルだ、と「師」を詐称する者が、アカハラとかセクハラという罠に陥るのである――とまたよけいなことを書いてしまった。

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2010年02月24日

人の情けが身にしみる――あだにしないように・・・

 SeeSaaNetのメンテナンスが、多少時間がかかったようですが、無事終わりました。
こんなブログでもいろんな方々のサポートがあって成り立っておるのですね。
ホント、お世話になります。

 この前、東京へ行くとき、敦賀駅からいったんトンボ返りしたときも、敦賀駅や武生駅の駅員さんにお世話になりました。
東京往復の企画切符だったから、いったん使ってしまうと変更はできない。
しかし、まだ新幹線に乗っていないということで、予約の新幹線が発車する前に、「未使用」にするため、敦賀駅の駅員さんが切符をコピーして武生駅にファックスしてくださって、武生駅に戻ったとき、無事、「未使用」扱いにしていただきました。
ありがとうございました。

 そのあと、久しぶりに会う予定だった友人のケータイに予定変更を電話。
留守電になっていたので、予定変更を吹き込んでおいたら、しばらくして「電話番号違ってますよ。大切な御用事のようだから、ご連絡します」と電話があった。
どこのどなたか存じませんが、ありがとうございます。

 あわてて、件の友人にメールすると、間違った番号をメールしていた、ごめん、ごめん。
 しかし、この友人、フォーラムのチケットをゲットしていてくれて、2時間フォーラムに付き合ってくれた。
ありがとうございます。

 現在、私、ある事情で父子家庭プラス84歳の母親家庭。
春休みのはずだが、毎日大学に通わねばならない。
おまけに中一の娘は明日から期末試験。
「試験から返ったら自分で洗濯しなさい」
と言っていたら、横からおばあちゃんが
「おばあちゃんがしておくよ」。
ありがたや。

 という訳で、人の情けが身にしみる、今日この頃なのでした。

 それにしても、カーリングというどうみてもえげつない「意地悪ゲーム」は、どのような経緯でオリンピック種目になったのでしょうか?
あれ、男子種目もあるんでしょ?
邪悪さの競い合いにあるんでしょうね。
けっこう、見入ったりして・・・・・・・
posted by CKP at 21:06| Comment(0) | TrackBack(0) | 雑想・戯言 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年02月22日

フェリーニの『道』にて――役に立つということ

 フィギアの高橋大輔選手の使っていた音楽に私の耳がピクリと動いた。
フェデリコ・フェリーニの『道』の音楽ではありませんか!
盟友ニーノ・ロータ作曲のサウンド・トラックが編曲されて使われていた。
イタリア語のもとの題名はLa Strada, イタリア人の留学生ティーモ君に聞くと、英語で言えばthe Way of Lifeというようなニュアンスも持つ言葉とか。

 メインの哀愁帯びたテーマは、ヒロインのジェルソミニーナ(ジュリエッタ・マシーナ)が、天使の格好をした綱渡りの男から教えてもらったメロディ。

 このジェルソミニーナは、力技だけの大道芸人のザンパーノ(アンソニー・クィーン)の「妻」とは名ばかりの召使。
アタマは少しゆっくりしているが、純粋なこころの持ち主。
それだけに、ザンパーノのひどい仕打ちに心を痛める。

 この映画について淀川長治先生は次のように述べておおられる(岡田喜一郎編『淀川長治映画ベスト1000』)。

「・・・ザンパーノは男の固まり。この男が他の女と一緒に寝ている間、ジェルソミニーナは外で指をくわえて待っている。このあたりから神様がこの女をこの世に与えたということがわかってきます。彼女が綱渡りの男と会ったとき、その男は小石を拾ってこの石だって役に立つんだ。お前だって役に立つんだといってラッパを教える。この綱渡りは天使です。ジェルソミニーナは神。神が天使からラッパを教えてもらったんです。最後に女が死んで男が人間愛を知るあたり。まさに名作とはこれ!」
 
 つまり、あの哀愁おびたメロディは天使から教えられたメロディなのですね。
しかし、アタマの弱いジェルソミニーナがいったい何の役に立つのでしょう?
実は、そのやり取りに、あまり触れられない大事なもうひとつのやり取りがあります。
天使姿の綱渡り男に「この石だって役に立つ」と教えられたジェルソミニーナは聞き返すのです。
「どんな役に立つの?」
すると天使は答えるのです。
「それは神様だけがご存知さ」

 つまり、この「役に立つ」は人間の尺度での「役に立つ」つまり有用性ということではないのです。

 だから、淀川先生は、まるでジェルソミニーナをイエスのように読み取ります。
ティーモ君にこの解釈を話したら、「いや、彼女はマリアだ」と言っていました。

 いずれにせよ、最後の場面のザンパーノの姿。
つまり亡くしてはじめてジェルソミニーナの愛に気付いた男の姿が、いったい彼女がどのような「役に立った」のかを語っているように思います。

 あら、あんた、まだご覧になってない。
駄目ですよ、『道』は映画芸術の宝。必ず、必ず、ご覧になってくださいね。
はい、時間になりました。
また、お会いしましょうね。
さよなら、さよなら、さよなら。
posted by CKP at 13:44| Comment(0) | TrackBack(0) | 雑想・戯言 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年02月18日

ふ、ふ、ふーっ・・・・――「第3回親鸞フォーラム」報告(その2)

 さて、親鸞フォーラムそのものであるが、何をどうしゃべったかは、忘れてしまった。
何しろ、メインは香山リカさんと宮崎哲弥さんである。
500名の聴衆の方々は、このお二人が現代に対して、仏教に関してどのような発言をなさるかを聴きに来ておられるのである。
わたしは、このお二人の発言に、真宗や宗教学の立場からコメントする役割なので、議論を追うのに精一杯であった。

 香山さんという方は、あれだけ本を書きまたテレビに出ておられる忙しい人だから、その場で最近考えておられることを話されるのかな、と思っていたら、きっちり原稿を書いて、アメリカにおける精神医学の現状を分析なさるという話から始められました。
何事にも大変まじめな方のようです。
その分析とは、アメリカの精神医学で精神分析が疎んじられるのは「死への欲望」というフロイトの説が忌避されているからだ、という分析。
なるほどと拝聴。

 宮崎さんは、口を尖がらせて仏教界の堕落を攻撃してこられるかな、と構えていたら、まったくそういう人ではありませんでした。
前の晩、こう攻められたら、こう返す…と論戦演習をやっていたら、眠られなくなってしまいしったのですが・・・・。
ところが、宮崎さんは、楽屋でもステージでも、実にフレンドリーな人で、仏教者として、これからどのように老いや死に向き合っていくのかということを、時事的な評論から退いてもっと生活に密着したところで語りたいというご自身の生き方を通して、語っておられました。

 わたしは、そのようなお二人の議論になんだかんだとコメントしていたのでしたが、その中で、私はどうゆう風の吹きまわしか「長幼の序」という言葉を発してしまったのでありました。
わたしの前半生は、ほとんど、上の者に、つまり長じた方々にことごとく逆らうということで成り立ってきた。
自分が「上の者」つまりご老体になりはじめたとたん「長幼の序」が大事と言いだすのである。
自分でもとんでもない奴だと思います。

 なぜこんな言葉が出てきたのか?

 それは最近、二つの共同体ということを考えていたからだろうと思います。

 一つは、法と貨幣の前に人間がそれぞれ平等に独立してあるような共同体。
各人が一個人として平等に扱われる社会。
赤ちゃんも青年も老人も、平等であるような共同体。それは法によって守られている。が同時に、貨幣がその平等を保障している。
そして、そこでの私利私欲の追及が全体の富を増進させると考えられた世界(アダム・スミスは、もちろんそこに「道徳感情」ということの必要も説いたが)。
つまり、ヘーゲルが、「疎外」や「外化」によって成り立つとした世界である。そこでは、各人の特殊性、現代語で言えば「個性」は考慮されない。
また、そこでは、その一個人の存在を保障するものは、つまり権利を保障するものは冨へと転化する。
つまり、お金が払えなかったら、「おひとりさま」扱いされない共同体である(こういうのは共同体とは言えないだろうが)。
これが現代のグローバル社会の基本的構成である。

 もうひとつは、子どもや老人、病人が保護され、世話される共同体。親は幼き子供をいつくしみ、また年老いた親に尊敬をもって接する共同体。
また、贈与という恩と感謝で成り立つ共同体である。
そこでは、「長幼の序」ということが成り立っている。
つまり、そこでは生老病死という時間の流れが尊重されているのである。
これは、家族とか一族、あるいは親分・子分の「一家」という「生老病死」を共にする共同体である。
そして、宗教は基本的にこの共同体を反映している。

 戦後日本では、戦前の家制度や国「家」、軍隊の家父長的弊害を排除するということで、家族・家庭つまりファミリィという制度を忌避してきた。
家族、一族あるいは一家というのは、強力なセイフティネットであったはずだが、それが否定されて、1人になってしかも「おひとりさま」扱いされない人々が大量に発生するということになりつつある。
あるいは、終身雇用制という家族主義的な経営形態が否定的に評価される。
アメリカでも、『ゴッド・ファーザー』に、家族主義的な共同体が自由な経済社会に直接出てゆくと「やくざ」になってしまうことが鮮やかに描かれているように、「家族」ということが否定的に評価されている。
大草原にまだ「小さな家」はあるのだろうか?

 ここいらで、もう一度、家族・一族・一家ということを見直すべきではないか?
そのときに、家族的共同体の時間原理の空間化としての「長幼の序」ということも見直さねばならないのではないか?

 別に戦前の家父長制に戻れというのではない。
各人が法の前に平等な市民社会と、弱きものの保護を当然とする家族的共同体をうまく統合することはできないものか、と思うのである。
おそらく、「おひとりさま」の集合体であるグループホームのようなところでも、「お姉さん」や「お母さん」などの家族的秩序ができるのだろうと思う。そのような秩序を頭から否定することは、もうやめにしてもいいのではないか。

 それは、おそらく脳の作り出す文明の時間と生老病死を生きる身体の時間=大地の時間の統合の問題だと思う。
ハイデガーが「時間」ということで考えようとしていたことは、こんなことも関係があるのかなと思うのである。

 というようなことを考えていて「長幼の序」などというアナクロな言葉を引っ張り出して来てしまったのでした。
 要するに、年長者のわたしを敬え、ということですね。
ですから、それに対して「もう前線にシャシャリ出てこないで、ゆっくり隠居してください」と言われれば、ソッコーで隠居したい私ですが、まだ下の子がやっと中一なので、もう少し大学においてやってくださいね。
 したがって、老人が「わしゃ、まだ若い」と言ってビジネスの前線にいつまでも居残るのも「長幼の序」を無視した、つまり「老人」を軽蔑した振舞なのでしょう。
「わしゃ、老人じゃないぞ、馬鹿にするな」と言っているのですから。

 うまく歳をとる、これが私のこれからの課題です。
香山さんの言い方を借りれば「現役にしがみつく」というのは、歳をとることを、つまり老人であることを忌避し否定することになるのですね。
「しがみつかない生き方」というのは、人生の後半期では「潮時の見究め」ということになるのかも知れません。
「隠居の哲学」が必要です。

 やっぱり井上陽水はすごいですね、いきなりですが。

「休むことも許されず/笑う事は止められて
はいつくばって/はいつくばって
いったい何を探しているのか
探すのをやめた時/見つかる事もよくある話で
・・・・・・
まだまだ探す気ですか?
夢の中へ 夢の中へ/行ってみたいと思いませんか?」

 で、結局、親鸞フォーラムでは何が話されたのでしょうか?
わしゃ、そんなこと、すっかり忘れてしもたわい。
ふ、ふ、ふーっ・・・・・


追記:昨日、朴先生の新著の写真入りでブログするという快挙を成し遂げましたが、もちろん、独力ではなく、pilz先生に手とり足とりご指導いただいての作業であることをご報告し、pilz先生にこの場を借りてお礼申し上げます。
また、私の記事にもまれにコメントくださる方々がおられます。ありがとうございます。コメントを返しておるのですが、どうもうまくエントリーできません。ご事情をお察しのうえご海容ください。
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2010年02月17日

朴一功の正義――『魂の正義』発刊!

park01.jpg われらが大谷大学哲学科の正義、朴一功先生のプラトン「倫理学」についての論考『魂の正義 プラトン倫理学の視座』(京都大学学術出版会)が、ついに発刊された。
ダヴィッドの「ソクラテスの死」が表紙となった重厚で美しい本に仕上がっている。

「魂の正義」というタイトルに込められた朴先生の熱い思いは、少し長めの「あとがき」に見事に表現されている。
また、サブタイトルにある「プラトン倫理学」という、未だ熟していない言い方に関しては、「序」において力強く、そして責任をもって述べられている。
 つまり、この書自体が、毒を自らあおいで死んでいったソクラテスと、それを我々に述べ伝えたプラトンへの倫理的態度に貫かれているのである。

 昨日手にしたばかりで、本文を読んでいはいないが、表紙と「序」と「あとがき」からでも、そのことは十分に伝わってくる。

 京都大学学術出版会からアリストテレスの『二コマコス倫理学』、プラトンの『饗宴/パイドン』で大変の読みやすい翻訳を明解な解説を付けて上梓されてきた朴先生の古代ギリシャ哲学研究の精華を、このよう形で手にすることができたということは、日本いや世界の哲学界において、いや、人間の生き方が混迷をきわめる現代世界において、何よりの慶事である。
posted by CKP at 12:16| Comment(1) | TrackBack(0) | | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年02月15日

脳の時間と大地の時間――第3回親鸞フォーラム報告(その1)

 14日の「第3回親鸞フォーラム」に出演(?)するため、前日の昼過ぎ、JR武生駅から特急列車に乗り込んだのであった。
夕方、東京のスタッフと打ち合わせをして、14日の午前中には20年ぶりに高校時代と友人と会うという予定であった。
特急列車が動き出して間もなく、携帯電話がぶるぶる震える。
いやな予感。
近所の檀家さんのおじいさんが亡くなったとのこと。
何で、よりによって今日なの?
とにかく一度戻らねば。
しかし、列車は次の敦賀まで止まらない。
かえせー、戻せー、の俊寛状態である。
で、敦賀で降りて、逆向きの特急列車に乗る。

 檀家さんが亡くなった、という場合、「予定がありますので、またにしてください」という訳には行かない。
当たり前である。
当たり前だけど、どうして、予定は、死によって破棄されねばならないのだろう?
身内であったならば、なおさらである。
「え?親父が死んだ。今日は予定があるから、そのうち行くわ」
というのは許されない。

 死という出来事は、人間が脳で組み立てたスケジュールを簡単に破壊する。
いや、むしろ、そのように死を捉えるのが人間なのであろう。
死をそのように重いものと捉えるからこそ、人間なのである。

 そうすると、人間には二種類の時間が流れていることになる。
主にビジネスを支配している脳が作り出している時間。
そして、そのビジネス的時間に土足で侵入し、その時間割を平気で破壊するもう一つの時間。
また死のみならず、誕生や病気、あるいは老いということもビジネス的時間を阻害する。
つまり、生・老・病・死の仏教でいう四苦という時間が、常に、ビジネス的時間の底に大地のように横たわっているのである。

 人間はこのように、二重の時間を生きている。
これは、人間が支配できる時間と支配される時間とも言い換えられる。
そして、文明は、支配できない時間を、つまり生老病死の時間を支配しようとしてきた。
バースコントロールやアンチ・エイジングである。
ドモホルンリンクルである。

 しかし、面白いことに、病気の予定や死の予定を立てるものはいない(たまに会議をサボるために、この日は病気なります、などという輩がいるが)。
「この日に病気になって、来月のこの日に死ぬことにするわ」
「え?その日はまずいな、その翌週にしてくんない?」
という会話は、ふつうしない。

 誕生も老いも病気も死も、こちらが支配できない時間であり、あちらからやってくるのである。
それは自由にならない。だから「苦」なのである。
この大地的時間のリズムに同調することが、おそらく「苦諦」という真理を生きることなのであろう。

 現代というのは、この大地的時間を邪魔とすることで、現代をやっていこうとしているんだな、としみじみ思ったのでした。
だから、この大地的時間を尊重すべき、という話を翌日することになるのだが、そのときとんでもないことを口走ってしまいました。
私のことをよく知っている人が聞いたら「どの口がそうゆうことを言うわけ?そんなことを言うと口が曲がるぞ」といわれそうなことです。
ま、それはまた今度。

 で、寺に帰り、枕経に行って、息子さんであるミキオさんと葬式の段取りを打ち合わせて、お通夜は、故人の幼なじみのお役僧さんにお願いすることにして、14日のフォーラムには出かけることができることになりました。
なくなったお父さんは、80歳。
一月前に末期の癌が見つかって、一月あまりの入院だったとか。
なくなる日の朝、「腹がへった」というお父さんにミキオさんと弟のイクオさんの二人で御飯を食べさせたら「うまい、うまい」と満足され、ほどなく静かに亡くなったとのこと。
ミキオさんは妙に晴れ晴れとして語ってくれました。
私はご遺体に平伏してご挨拶して辞去し、翌朝早く東京に向かいました。

posted by CKP at 20:57| Comment(1) | TrackBack(0) | 雑想・戯言 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年02月12日

六本木ヒルズの四門出遊――「第3回親鸞フォーラム」宵々山

 いよいよ「第3回親鸞フォーラム」の2月14日が近づいてきた。
カウンセラーのS賀枝先生から、「東京なんだから、関西風の笑いを狙わないように」とご注意を受ける。
「バレンタインデー粉砕!六本木集会に結集の同志諸君!」などというアナクロなコテコテのギャグをすべらせて、会場をしーんと凍りつかせるという悪夢のような場面が目に浮かぶ。
フォーラムでは可能な限り穏やかで知的な学者という私本来の姿で登場するために、余計なことはあらかじめここに書き付けておく。

「人間・存在の大地を求めて――現代と仏教の対話――」というテーマのシンポが六本木ヒルズの40階で開催されるという話を聞いたとき、先ず思ったのは、
「存在の大地を求めるなら、六本木ヒルズをぶっ壊して、田んぼか畑にしたらいいんでないの?
それが無理なら、文化大革命のときのように、農村へ下放して大地を相手に労働したらいい」
ということであった。
しかし、こんなことをいきなり言ったら、会場の森ビルはもちろんのこと、ご参集された東京の方々をいっきに敵にまわしてしまう。
また、真宗大谷派ならぬ「文革派」を立ち上げて分派闘争を始めたみたいで、主催の「真宗大谷派」まで敵にまわしてしまう。

 こういう過激な正論は、敵を作るだけでまわりを幸福にすることにはいささかなりとも貢献しない。

 であるからして、六本木ヒルズという現代を象徴する場所で、仏教を語るという大変ナイスな企画である、とテーマを受け取り直して考えた。

 しかし、六本木ヒルズのどこが現代的なのだろう?
行ったこともないので、森ビル社長の森稔氏の書かれた『ヒルズ 挑戦する都市』(朝日新書)を求めて拝読する。

 森氏が何に挑戦しているかといえば、これまでの平面に広がる都市という常識に挑戦しているらしい。
それを氏は「垂直の庭園都市」と呼ぶ。
これはル・コルビュジエの思想を森氏なりに継承発展させ、アークヒルズや六本木ヒルズ、そして上海ワールドフィナンシャルセンターに実現されていった思想である。
そのような思想をさまざまな住民運動や行政そしておそらく裏社会とのネゴシエイションを通じて実現していったのだから、森社長というのはなかなか胆力の備わった人物なのであろう。

 その「垂直の庭園都市」というのは、次のようにまとめられている。
この本のなかで、何度も参照を指示される箇所である。

「複合用途に適したエリアや都心部の再生を想定した都市モデルで、職、住、遊、商、学、憩、文化、交流などの都市機能を縦に重ね合わせた、徒歩で暮らせる超高層コンパクトシティである。その目的は、従来の職住分離型の都市構造を、職住近接型の都市構造に転換することによって、「都市空間の倍増」、「自由時間の倍増」、「選択肢の倍増」、「安全性の倍増」、「緑の倍増」を図ることにある。実現の手法としては、まず、広域グランドデザインを描き、細分化された土地をまとめて容積率を高める代わりに、建蔽率を最小限に抑えて建物が建て詰まることを防ぐ。これによって、地上や人口地盤上は緑と人間に開放され、マンハッタンのような摩天楼とはまったく異なる、緑に覆われた超高層都市が実現する。「垂直の庭園都市」は、都市機能を使いこなして二十四時間を自由にデザインする知識情報社会のライフスタイルを実現し、女性や高齢者の社会参加の機会も広げる。また、都心部に人口を集中させて環境効率を高めることで、周辺や郊外の自然を回復させ、全体として地球環境負荷を低減する効果もある。」(前掲書、34ページ)

 ホンと、すごいですね。 
まことに見事な理想都市で、氏も言っておられるとおり、「住」の部分がそのうち安価に提供されるようになれば、理想的な「現代」都市のように思える。

 しかし、「現代と仏教の対話」ということを意識したとき、この理想都市はにわかにその問題点を明らかにしてくる。

 この都市には、「職、住、遊、商、学、憩、文化、交流」はあるけれども、「生、老、病、死」はないからである。
「高齢者」に言及されているが、もあくまで「社会参加」において考えられている。
寝たきりの「社会参加」できない老人かつ病人は、考えられていないのである。
つまり、この都市はお釈迦さまがまだ王子であった頃、憂いに沈みがちな王子のために王様が造った、季節ごとの宮殿を備えた、若い人だけの快適な城壁都市と同じなのである。

 王子であったお釈迦さまは、あるときこの都市の外へ出て、しわだらけで腰の曲がった老人を見て「あれは何だ?自分もいずれああなるのか」と驚かれた。
(まるでウソみたいなつくり話なのだが、しかし、若人の皆さん、歳をとるというのは、歳をとってみなければわからないことなのである。)
そして、病人を見、死人を見て、驚かれ、老病死を超えるべく、出家なさったのである。
 したがって、六本木ヒルズは、まさに仏教が始まらんとする地点を指示している。
仏教は、自分の「自由」にならぬ「生まれ、老い、病んで、死んでゆく」ことを真正面から苦諦として引き受けていく生き方である。

 まずは、六本木ヒルズのような「自由」を謳う都市を出て、「老病死」に出会わなければならない。
そして、この都市の中に、老病死を引き入れねばならない。
押尾某が、目の前の女性の死に対応できなかった原因の一つには、おそらくこの都市が死者を想定していない、ということもあったと思われる。
 人が生きる場所ならば、そこには死者の場所もなければならない。
しかし、効率優先の時間のなかでは、死者と向き合う時間は無駄でしかない。

 東京というより江戸は案外寺や墓所の多い都市で、老病死に出会いやすい都市のように思えるが、都市の社会的機能の中でのみ生きていると、それは忘れ去られてしまう。
「おひとりさまの老後」が注目を集めるようになったが、その後には「病後」「死後」も問題となるであろう。現になりつつある。

 しかし、「おひとりさま」というのは、あくまでも、社会のなかの経済的主体でしかない。
代金さえ払えば誰でも「おひとりさま」扱いされるのである。
本来、生まれたての赤ちゃん、老人、病人、死人は「家族」によって、世話される存在である。その世話を女性だけに押し付けるという問題はある。
しかし、家族を解体し、個々人が経済的主体として自立することで成り立ってきた現代社会が、以前よりもより幸福な社会とも思えないのである。
「社会」には、経済の対象としての「老病死」はあっても、それを主体として生きてそして死んでゆく場所はない。
むしろ、社会の中心である都市は、働き盛りがつくりあげる永遠に生老病死とは無縁の場所なのかも知れない。
もう一つ別の次元の場所が必要なのである。

 だから、六本木ヒルズは、老・病・死を視野に入れなければ、人間が生きて死んでゆく場所にはならない。
アークヒルズだったか六本ヒルズだったか忘れたが、教会を入れるという計画はあったようだ。おそらく、森氏もそのような施設の必要を感じておられたのであろう。
長引く不況で場所が空いたら、真宗大谷派に声をかけていただければ、いの一番に寺を建てるかもしれない。
そうすると、六本木ヒルズも巣鴨みたいになるかもしれない。

 京都などでは、新しい町並みができてもお地蔵さんはしっかり残っている。
六本木ヒルズではどうなっているか、散歩しながら調べてきます。

 ところで、「現代と仏教の対話」というサブテーマは宮崎哲弥さんからの提案なのだそうです。
そして、宮崎さんご自身が、仏教者として登壇なさるそうです。
香山さんが「現代」、宮崎さんが「仏教」、私はいったい何を話したらよいのでしょうか?
「対話」の部分?
ということは、話の流れで思い付きをしゃべるいつもの調子?
C調ボーズにご用心!というようなことだけは言わないようにします。

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2010年02月11日

「みっともなさ」のカッコよさ――井上陽水の「傘がない」を勝手に読み込む

 昨年も年間の自殺者が3万人を超えた。
ここ十数年こういうニュースを毎年聞く。
このニュースに接するたびに、この瞬間、日本中のどれだけの人のアタマの中で「都会では自殺する若者が・・・・」という井上陽水の「傘がない」が鳴り響いているのだろう、と思う。

「都会では自殺する若者が増えている」と新聞が報じている。
この社会的問題に陽水は何を言おうとするのか?という予想をあっさり裏切って、
「だけども、問題は今日の雨、傘がない」とまことに情けない日常的な事柄が「問題」として提示される。
なぜ、傘がないのが、問題なのか。
「君に会いに行かなくちゃ」ならないからである。
傘がないから、雨にぬれてでも「君のそばに行かなくちゃ」ならないのである。
行かなくちゃ、行かなくちゃ、「ちゃ」「ちゃ」と雨の音がせまってくる。
そうすると「君の事以外は考えられなくなる」。
そのように追い詰められた陽水は意外な問いを発する。
「これはいいことだろう?」と。

 1972年という政治の季節の終わりに発表されたこの曲のこの倫理的な問いかけに、社会政治的な問題から個人的な問題への移行を多くの識者が読み取った。
しかし、陽水自身はそんなことは考えていなかった、という(たまたま観た今日のハイビジョンで、陽水さんご自身がそう言っておられました)。

 確かに、政治的な問題から個人的問題への移行というのでは面白くないし、それだけの唄なら今聴いたらシラケてしまうだけだろう。
しかし、この唄は発表から40年近く経った今聴いてもカッコいい。
何がそんなにカッコいいんだろう?

 自殺者の増加という深刻な問題と、傘がないときの雨降りという惨めなほど矮小な問題。
しかし、その矮小な問題が自分にとっては切実な問題であり、そのため「君のこと以外は考えられなくなる」というのが「いいことだろう?」と問いかけられるのである。

「いいことだろう?」というどこか不安げな問いかけにの裏には、やはり社会的に深刻な問題をほっぽりだして、自分の矮小な問題にかかずりあっていることへの疚しさがあるように見える。

 自分の属する社会の問題を考えないのは、倫理的によくない。
しかし、陽水は、深刻な社会問題よりも、「傘がない」ことが切実な問題になってしまう自分自身の矮小さをさらけだす。
問題はここで倫理を超える。あるいは、ずれる。
そこでは、オレは「傘がない」などというチンケなことが切実な問題となってしまうようなチンケな人間だ、しかし、そんな自分を引き受けて生きていゆくしかない、ということになる。
これって、「いいことだろう?」

 社会的に評価されるような生き方をスッパリ諦めて、つまり倫理的に正しいあり方をあきらめて、それを超えた場所で自分のみっともなさを全面的に肯定するような潔さ――それが、この唄の、そして井上陽水のカッコよさだろうと思う。

 そして、自分のみっともなさをきっぱりと引き受ける潔さが、どこかで「自殺者の増加」という問題への一つの回答にもなっているような気がする。

と、陽水ファンの皆さま、勝手な読みですみませんでした。
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2010年02月09日

唄うという人生――アニタ・オデイ:THE LIFE OF A JAZZ SINGER

唄うという人生――アニタ・オデイ:THE LIFE OF A JAZZ SINGER

 ジャズ歌手アニタ・オデイ(1919〜2006)の伝記映画THE LIFE OF A JAZZ SINGERを観た。
輸入盤の二枚組みDVDだが、アマゾンで2300円ぐらいで、しかも日本のプレイヤーでもオッケーということで購入(日本語字幕も付いておりました)。

 アニタ・オデイと言えば、1940年代から60年代かけて、ビリー・ホリデイやエラ・フィッツジェラルドの黒人女性シンガーに伍して活躍した白人女性ジャズ・シンガー。

 ビリー・ホリデイが、我々の人生の苦しみや悲しみを丸ごと引き受けてくれる菩薩さまのような歌手とすれば、エラ・フィッツジェラルドは、人生のくよくよを笑い飛ばしてくれる肝っ玉母さん。
となると、アニタ・オデイは、「いい若いもんが、ぐずぐずしてんじゃないよ」とはっぱをかけてくれる元気のよい姉(あね)さんという感じ。
キップがよくてどこか芯がかちっとしているそんな感じの歌手である。
だから、ヘレン・メリルや青江美奈のように、ボワーっとした魅力とはちょっと違う。

 恥ずかしながらこの映画で初めて知ったのだが、アニタ・オデイという人は、十数年間ヘロイン中毒で刑務所を出たり入ったりしていた50年代の典型的な破滅型のジャズ・シンガーだった。
 ビリー・ホリデイやチャーリー・パーカーは結局それで命を縮めてしまったが、しかしアニタ・オデイはそのヘロイン中毒から生還したきわめてまれなジャズ・シンガーなのだ。
そのあたりの強さが唄にも出ているのだろう。

 しかし、何でそんなに強いのか。

 映画のはじめの方に、彼女が唄い出した頃の思い出が語られている。
ある男に逢って、その男から「唄で世界を幸せにする」という使命が告げられた。
そして、気付くとその男はどこにもいなかった。
神から啓示をうけたのだ、とアニタは言う。

 そういうことって、こういう人にはあり得るんだろうな、と思う。
その男はそこいらのオッチャンだったかも知れぬ。
単なる幻覚かも知れぬ。
しかし、それを神のお告げをとして受け取り、そして「お告げ」どおり唄に人生をささげたならば、それは結果として神のお告げである。

 「唄う」という使命に彼女は一生かけて取り組んだのである。
そして、その一生そのものが一つの唄になったのが、この伝記映画のように思えた。
もちろん、一人で唄うのではない。
いろんな人の交わりの中で、つまりいろんな人の伴奏を伴い、いろんなアドリブを入れながら、LIFEという唄を唄うのである。

 彼女のカッコ良さがよく伝わってくる映画でありました。

 映画は唄うアニタにインタヴューが重なる形で進行し、歌う姿だけを堪能したいと途中から欲求不満になるのですが、二枚目のボーナスDVDに唄うアニタだけの完全版があって、欲求不満は解消されるようになっています。
あの『真夏の夜のジャズ』の伝説のパファーマンス「スウィート・ジョージア・ブラウン」も入ってます。


http://www.anitaoday.com/documentary.html

posted by CKP at 16:00| Comment(0) | TrackBack(0) | 雑想・戯言 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年02月08日

大学で学ぶこと――卒業論文を書く

 今日は、入試の2日目。
 緊張した面持ちの受験生たちが一心に鉛筆を走らせていた。

 そのように受験し、そして晴れて合格して彼らは大学で何を学ぶのだろう――などと大学教師が書くのもいささか無責任のような気がする。
そこで、私は考えた。
 抽象的にはいろいろ表現されるだろうが、ごく具体的に考えると、大学にあってカルチャーセンターにないものって、なんだろう?
そう、卒業論文である。

 知識を得るだけならば、カルチャーセンターや書籍いやインターネットでも十分であろう。
しかし、大学には卒業論文作成という難事業がある。
これが、ある意味で、大学を大学たらしめているものである。

 卒論試問の時に、学生諸君に卒論を仕上げた感想を聞くと、
「もう少し勉強しておけばよかったと思いました」
「勉強するのが、ちょっと楽しいと思いました」
「一瞬だけど、大学院へ行こうかなと思いました」
などという答えが返ってくる。

 物事を筋道立てて考え、そして同じ問題を共有する人を説得しようという試みが、ちょっとだけど楽しくなるのである。
また、それにはまだまだ勉強が足りないことが、ちょっとだけど自覚されるのである。

 自分の力不足の自覚。つまり自分の馬鹿さ加減の自覚。
そして、それを補っていくことの楽しさ。
このようなことを経験するという機会が「卒論を書け」と強制的に与えられるとというのは、人生において大きな経験、大切な経験である。

 だから、卒論を書きあげて卒業できたならば、その経験は誇ってよい。
「もっと勉強しとけばよかったなぁ」という後悔は大切なのである。それがなければ、自分の馬鹿さ加減に気づかないままなのだから。

 であるから、大学に残る教師は、論文を書くたびに「もっと勉強しとけば…」と後悔ばかりすることによって、かろうじて大学教師をやれてるのであった。
ホントです。
posted by CKP at 16:13| Comment(0) | TrackBack(0) | 雑想・戯言 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年02月05日

あと何枚 数えても数えても レポートの山――無茶

 ハイ、無茶の「そのまま俳句」のお時間です。

 レポートを数枚採点して残りを数える。
 まだまだいっぱい。
 少し採点してまた数える。
 まだまだ。
 もう少し採点して数える。
 まだまだ。
 あれ?残りが増えてんじゃねぇか?
 数え直そうーっと。
 ・・・・そんなことしてる間に採点すればいいのにね。

 季語は「レポートの山」。2月の季語です。
posted by CKP at 10:58| Comment(0) | TrackBack(0) | 雑想・戯言 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年02月01日

これが椎茸だ!

shiitake01.jpg
いつものように力強い表現に特段の意味はありません。口縄木菟さんにいただいた椎茸栽培セットにございます。いまはこんな立派にわさわさとなっております。わさわさすればするほど我が心は潤い、我が家の食生活も潤うのです。ありがとうございます。
posted by pilz at 22:39| Comment(6) | TrackBack(0) | キノコ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする