2010年01月31日

シコ踏んじゃった?――貴乃花よ、どこへ行く

 卒論試問が終わる。
力作ぞろいで、ついつい読み込んでしまう。
しかし、20篇以上も読むとさすがに疲れた。で、昨日の土曜日は久しぶりに一日ボーっとしていた。

 その卒論のなかに相撲の宗教性に触れたものがあった。
相撲の起源は諸説あるが、いずれにせよ豊穣を願う農耕儀礼と関連があるようだ。
また、塩をまくのは土俵を清め、四股を踏むのは大地の悪霊を鎮める行為であることは定説になっているようだ。

 しかし、豊穣を願う農耕儀礼と大地を清め悪霊を鎮める行為はストレートに結びつかない。
(卒論試問は、ここを何とか結びつけようね、という結び目を見つける作業となったのだが・・・)
というのは、フロイトが『トーテムとタブー』でフレイザーから引用していた報告によると、豊穣儀礼は、汚れた大地を清めるというよりも、生殖行為を大地において、あるいは大地に対して再現するものであるのが基本であるからだ。
そういう視点で四股を踏むという行為を考えると、それは悪霊を鎮めるというよりも、大地をセクシャルに喜ばす行為に思えてくる。
ほぼ素っ裸の大男が、ドーンドーンと大地を踏みつけるのである。
それに答えて母なる大地が多くの農産物を産み出す、と考えたほうが自然のような気がする。
 卒論でも、モンゴル相撲では、種馬や種らくだの舞が四股の代わりに舞われると述べてあった。

 また、塩をまくのは、大地の穢れを清めるというのも、すっきりしない。

 宮本常一の塩の研究を読むと( 著作集49『塩の民俗と生活』、未来社)、
1) 塩はエネルギーとならないから神つまり霊としては祭られない。しかし、塩はいわば潤滑油的なものとして人間に必須のものであるから、神にお供え物として供えられる。
2) 塩の衛生作用により、穢れを清めるためにまかれたりする。

 しかし、この1)と2)の塩の働きもストレートに結びつかない。
 塩が穢れを祓うものならば、神に供えられる意味が分らない。

 塩は正倉院文書などに給与として与えられていたことが記されているほど貴重なものである。
清めのために、気前よくまかれたとは考えにくい。
 むしろケガレを「気枯れ」と考える桜井説を採るとすっきりするような気がする。
つまり、葬式など「気枯れ」の状態から帰ってきた人に、元気をつけるため塩を与えたと考えるのである。
すると、大地に塩をまくのは、大地に元気を与える行為と考えられる。

 つまり、大地に塩をまいて元気を与え、四股を踏んで母なる大地に元気な作物をいっぱい産んでもらう。
相撲というのは、そういう生殖行為の再演の儀礼ではなかろうか、と貴ノ花よりも、私の思弁は暴走するのであります。

 今の大相撲はとにかく悪霊を鎮める、四股を踏んで力ずくで押さえつけるという思想に凝り固まっているように見える。
悪霊って押さえつければそれだけ、邪悪になるのではないでしょうか?
そして、国技だの伝統だの格式だのとえばっているから、次から次へと悪霊が祟っているようにしか見えない。

 もっと大地にエロティックに接して喜んでもらうようにすべきではないか。
そうすれば大地の霊も悪霊になって祟るなんてことはないだろう。
喜んでいっぱいの作物を産み出すだろう。

 卒論試問のときに「貴乃花は何を考えているのかね?」と思わず質問してしまったが、その学生も「なんだかよくわかんないッス」とアタマを抱えていた。
なんだかさらに「格式」のほうへ走ろうとしているようにも見える。

 だいたい大の男が殆んど全裸でぶつかり合う格闘技である。
カンちゃんから話だけしか聞いていないが、その昔、若秩父のポロリ事件を歌った「悲惨な戦い」という唄もあるそうな。
国技だの格式だのとそんなにエバルことはなかろう。
裸祭りとして大地に喜んでもらう趣向を考えていけば、大相撲も再生するのであるまいか、と疲れているのに余計なお世話を考えてみました。
posted by CKP at 13:36| Comment(0) | TrackBack(0) | 雑想・戯言 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年01月30日

システムメンテナンスのお知らせ及びアカウント登録情報確認のお願い

ブログ共有者各位

管理人です。
以下、Seesaaよりアカウント登録情報確認のお願いがありました。
2月7日(日)までの確認をお願いします。
http://info.seesaa.net/article/139593352.html
posted by pilz at 23:35| Comment(0) | TrackBack(0) | お知らせ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年01月27日

レ・レ・レのおじさんから――連句をしてみませんか

 いきなりですが、連句大会のお誘いです。

 五・七・五の発句に七・七、そしてまた五・七・五と付けて、数人で三十六句・一歌仙を詠むという文芸です。
たとえば

発句 菜の花や月は東に日は西に
脇   山もと遠く鷺かすみゆく
第三 渉し舟酒債貧しく春くれて
             ・・・・

 といった塩梅です。
 江戸のツィッターと言ってよろしいかと思います。
途中で思わぬ展開になって行くのが楽しい。
しかし、やはりフェイス・ツー・フェイスが基本です。

 そのような連句大会が来る2月27日(土)の午後、北野天満宮社務所で開催されます。
当日は、初心者のための座も設けられ、ご指導いただけるそうです。
高校生やお若い方も参加しておられるようです。
お誘いあって、どうぞ。

 日時:平成22年2月27日(土)午後1時から4時30分まで
 会場:北野天満宮社務所
 申込:はがき、またはファックス。
    名前、住所、電話番号を明記のこと。
 申込先:京都府連句協会事務局 河合孝俊
 〒606-8225 京都市左京区田中門前町 103−21 瑞林院
 fax:075−702-8998
 締切:2月17日(水)
 参加費:1000円

 なお当日は午前中からいろんなパフォーマンスがあるようです。
詳しくはこちら

    http://www.renku-kyokai.net/main/04.htm

 というわけで、いきなりの連句大会のご案内でした。

 どうして連句?
 それはね、ふ・ふ・ふ、秘密です。

posted by CKP at 13:29| Comment(0) | TrackBack(0) | 雑想・戯言 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年01月24日

さよならを教えて――中島みゆき・竹内まりあ・ユーミンにおける「対象喪失」の展開

 今年の3・4回生のゼミは、小此木啓吾『対象喪失』(中公新書)を読みながらあれやこれやと議論することで終わってしまった。
「終わってしまった」と言うのは、実はそこから『トーテムとタブー』の「死者への敵愾心」の問題に移ろうと思っていたからである。
が、「対象喪失」という問題だけでも、十分議論のしがいがあったし、学生諸君も自分の問題として自分のアタマをフル回転する機会を得ていたように思う。
別に「大切な人の死別」や「恋人との別れ」や「小さい頃からの夢だった職業に就けなかった」時の想定問答をしたわけではない。
そうではなくて、そのような「対象喪失」を無視したり軽く見るととんでもない目に遭う、したがってそのような場合には真剣に事態に対応すべきである、ただし一挙に解決はしなし、具体的対応はその場になって自分で考えねばならないけど――というようなことを学んだのであった。

 なぜこんなテーマを選んだのかと、今年のゼミが終わってしまった今、つらつら考えるに、どうも最近「対象喪失」をなめてかかっている世の中が気に入らない、という自分自身の気持ちに思い至った。
その気持ちをもう少し具体的に言うと、最近「別れ」をテーマにしたぐっと来る歌や映画にせっしていないなぁ、ということである(中山美穂の「サヨナライツカ」はどうなんだろう?)。

 というわけで、おじさんは一挙に昭和にワープしてしまい、中島みゆき・竹内まりあ・ユーミンにおけるサヨナラの三段活用について考察してしまうのである。

図式的に示すと次のようになる。
中島みゆき:サヨナラを受け入れない。むしろ相手を恨むか自分を必要以上に卑下する。
竹内まりあ:サヨナラを受け入れるのではあるが、心の底では吹っ切れていない。
ユーミン :サヨナラを受け入れ、そのサヨナラを「思い出」に昇華する。

 私は中島みゆきの熱心がファンではないので、どの唄がどうとは具体的に言えないが、彼女の唄には、別れを別れとして受容せず、あまりにも相手と一体化しているので別れを言う相手も、その相手を一体化している自分をも非難するという「恨み」が、その基層にあるように思う。
ほとんど丑の刻参りの呪詛的恨みが唄われるように感じるのは私だけか。
ゆえに、バブルがはじけて日本が負けに入ったときにも、その負けを負けとして受容しない層に彼女の歌は圧倒的に指示されたように思う。
そこでは、負けのシチュエーションやそこで適切に振舞えなかった自分自身が呪詛される。
そしてそこからエネルギーを得て、捲土重来を期すのである。
しかし、そこには負けた自分を受容できない「鬱」の危険性があるように思う。
負けを認めず戦い続けるのはカッコいいが、しかし、負けを負けとして受容しなければ、そこから立ち上がることができない(その点で敗戦時の「一億総懺悔」というのは、すぐさま立ち上がるのには極めて賢い対応であった)。

 先ごろなくなった浅川マキも同じく呪詛系であるが、彼女の場合は、そこからエネルギーを得て戦うということではなく、ひたすら引きこもりの呪詛であったので、けっこう聴いたものである。合掌。

という訳で、お気楽人生を主義とする私のレコード棚には、中島みゆきは初期の『ありがとう』というLPレコードしかない。CDは一枚もない。

 竹内まりあは、もうこれは「駅」で決まりですね。

「見覚えのあるレインコート/黄昏の駅で 胸が震えた/はやい足どり まぎれもなく/昔愛してた あの人なのね/懐かしさの一歩手前で こみあげる苦い思い出に/言葉がとても見つからないわ・・・・・」

このような「懐かしさの一歩手前で」うたわれる内容とフランス映画風の伴奏に、ハラホロヒレハレと身をよじりながら、もう体の芯までメロメロになる私ですが、「喪の作業」の未完成という点では辛い唄です(そこがたまらんのですが)。
したがって、もうひとつのマイ・フェイバリット・ソングは当然「シングル・アゲイン」であります。

 その点、ユーミンは見事に「懐かしさ」を歌う。
おそらく「駅」の本歌である「グッド・ラック・アンド・グッドバイ」では同じようなシチュエーションでも全く違う風景が展開される。

「懐かしいあの人に 人ごみの中で会った/微笑む顔が少しはにかむの 昔のままだわ/
傷ついた恋なのに もう跡形もないのよ/偶然あったら泣き出しちゃうと 思っていたのに・・・」
そして、彼女は遠ざかる昔の恋人に「グッド・ラック・アンド・グッドバイ」と祝福を送るのである。
もちろん、ユーミンとてこんな幸せな唄ばかりではない。
「まちぶせ」などという中島みゆきばりの恐い歌もある。

 しかし、デビューLPの最初の曲が投身自殺をした少年をうたった「ひこうき雲」であったように、彼女の歌はその基本に「喪」ということがあるように思う。
過ぎ去った過去をどのように想い出に昇華してこれからを生きてゆくかという発想があるのだと思う。
そこには「運命」という発想が歌われる。
だから、お坊さんの私は彼女のすべてのLPと殆んどのCDを持っているのであろう。

 そろそろ「卒業写真」の季節である。
キャンパスでは、いろいろな別れが繰り広げられるのであろう。それらの一つ一つを大切に生きてほしい。
大学に居残るおじさんは「グッド・ラック・アンド・グッドバイ」と祝福を送るのみである。
posted by CKP at 17:17| Comment(0) | TrackBack(0) | 雑想・戯言 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年01月22日

信じて読む(その4)――20世紀のデカルトたち

 修士論文の口頭試問が終わった。
なんだかぐったりと疲れた。
院生諸君の論文がどれも力作で、それにつられてついつい眼光紙背に徹するが如く読み込んでしまったからである。
が、どうもそれだけではない。
4編の論文が対象としていた思想家の思考が、なんだか奇妙に屈折したものであったからだ。
なぜなんだろうと、気持ちのよい疲れのなかで考えていたら、それらの思想家たちが19世紀から20世紀の変わり目から20世紀の前半にその思考の跡を世に問うていた人々であったということに気が付いた。
アンリ・ベルグソン、ウィリアム・ジェイムス、鈴木大拙、シモーヌ・ヴェイユである。

 19世紀から20世紀の転換点から20世紀前半においてまともに物を考えようとするとき、それまでのキリスト教や仏教の体系に寄りかかることはできない。
それで、新しく権威となったマルクス主義や科学に依拠すれば話は簡単だが、その道も取らない。
いわば自分の思考・感覚のリアリティと常識だけを頼りにして一歩一歩進んでゆく。

 そのリアリティを追体験するように読まないとそのような思想家の思考は、どこか破綻しているような奇妙な論理の展開に見えてしまう。
読むほうも、自分の実感を頼りに手探りで読まねばならない――そんな緊張を強いられるから疲れるのである。

 彼らはちょうどデカルトが『方法序説』で言っていたように、「一人で闇のなかを歩く人間のように、きわめてゆっくりと進み、あらゆることに周到な注意を払」いながら進む。
ゆえに、読むほうも、同じように歩まねばならない。

 思えばデカルトの時代も、中世的キリスト教権威の崩壊と新たな科学の狭間を歩まねばならない時代であった。
しかし、この言い方は正確ではないであろう。

 今、古典として読み継がれる思想家たちは、自分たちの時代をあえて依拠する権威を外にもうちにも求めず、おのれの実感と常識を頼りに一歩一歩周到な注意を払いながら歩んだ人たちなのだろう。
そんなことに思い至っただけでも、今回の試問は実り多いものであった。

 と、疲れきって実家に帰ったら、内田樹先生の新著『邪悪なものの鎮め方』(バジリコ)が届いていた。
思わず「この忙しいとき出版するとは何を考えているんだ!」と、出版時期の邪悪さを呪ってしまったが、疲れた頭を休めようと読み始めたらいきなりカミュのこんな言葉が飛び込んできた。

「私は哲学者ではありません。私は理性もシステムも十分には信じていません。私が知りたいのはどうふるまうべきかです。より厳密に言えば、神も理性も信じないでなお、どのようにふるまい得るかを知りたいのです。」(同書、20ページ)

 そう、そういうことなのですよ。
そして、そのように「知りたい」と考え抜いた人々の思索が、哲学的古典としてわれわれに届けられているのである。

「どうふるまうべきか」を切実に知ろうとする人、現在が「闇」に見えて、それでもその闇を慎重に歩もうとする人、おのれの実感を唯一の光として歩む人、そのような人が真に哲学を求めているといえるのだろう。
posted by CKP at 21:07| Comment(0) | TrackBack(0) | 雑想・戯言 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年01月18日

嗚呼さもしき我が根性――翻訳は新しければいいというものではない

 風邪に新年会、修士論文の口頭試問に雪かきといろいろあって、更新が滞ってしまいました。

とりわけ、修士論文を読むとき、フランス哲学の難解で知られる名著の翻訳と原本をとっかえひっかえ点検したので、背中がバリバリに凝ってしまった。

私とて、フランス語をスラスラ読めるなどとは程遠い語学力なので、翻訳のお世話になりながらそのフランス哲学の名著を読むのであるが、どうも意味がすっきりしない。
修士論文に引用してある箇所だけでも原著で確認しようと原書を引っ張り出して翻訳を点検する。
「翻訳が間違っているんじゃないか」とアラ探し的に原書を読むと、アラ不思議、これが読めるんですね。
普段は、四苦八苦して読むフランス語がスイスイ読めるのです。
翻訳のアラ探しをするようにして原著を読むと、よく読める――我ながらさもしいなと思うのですが、もう次から次へと奇妙な訳を見つけて、「むふふふ」とほくそ笑むのでありました。

 その翻訳は三種類ある翻訳のうちでも一番新しいもので、今までの誤訳を訂正しながら一番読みやすい正確な訳になっているだろうと手に取ったのですが、どうもおかしい。
それで、二番目の訳も引っ張り出して比べると、いちいち訳語を新しいものに変えている。
以前の訳文や訳語と同じでは「新訳」の意味がないとでも訳者は判断したのか、新しい訳語があまりはっきりしない基準で選ばれていて、よけいに読みにくくなっている。

 なぜ、こういうことになっているのかと訳者解説を読んだら、翻訳者が原著者の論理展開の不備をあげつらっていた。
おそらくこういう翻訳のスタンスが読みにくい訳文を形成してしまうのであろう。

 相手は天才的哲学者である。凡人には思いつかないような論理を展開している。ゆえに、普通の論理が通らないと思われるところは、原著の論理を克明に追って、訳すこちら側のアタマの構造を変えながら訳さねばならない――このようなことをサボると、訳者本人の論理で原著者の論理を批判することになる。

 訳者の解説で、原著批判などが述べられている場合は、その翻訳は注意したほうがよい。
むしろ、「どこそこは、訳していてよく分からなかった」と正直に書いてあるほうが信頼できる。

・ ・・などというようなことを書くと、オマエ自身の翻訳はどうなんだ!ということになり、皆様の「さもしい根性」を呼び起こすことになりかねないのでこのくらいに致しましょう。

 しかし、他人の非をあげつらうのは、どうしてあんなに一心になれるのでしょう?
「他人の非をあげつらうって、楽しいじゃないか。凡人だもの――つみを」でした。
posted by CKP at 19:46| Comment(0) | TrackBack(0) | 雑想・戯言 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年01月11日

坂の下のどぜう――哲学のとき

 正月のテレビというのは、いつもにましてつまらない。
昼はどこを回しても同じような芸人がダラダラしゃべっている。
夜はどこでも「朝生」的な文化人が、ギャーギャー叫んでいる。
どれだけカメラに写るか、芸人も文化人も、同じような魂胆でカメラの前にいるのが妙におかしい。

 そんなもの見なきゃいいのに、わざわざ見て不愉快になっている自分も腹立たしい。

 なぜ不愉快になるのか?

 そこでは、つまりカメラの前で話されているのは「うまく生きる」方法であり、カメラにより多く写ること自体も「うまく生きる」ということでしかない――というのが、どうも不快感をかもしだすのではないか?

 未曾有の経済危機の中で、日本はいかにして「(右肩上がりのまま)うまく生き延びるか」
それをうまく言い当てる私は、カメラに多く写って「うまく生き延びられる」というわけである。

 最初から「うまく生きている」訳ではない私などが、ムカッと不愉快になる所以である。

 哲学の永遠のテーマである「よく生きる」ではなく「うまく生きる」こと――これがテレビとか出版ジャーナリズムでの目下のテーマである。
そして、それがどこかで哲学的テーマと勘違いされている。

 哲学は、はっきり言って、右肩上がりに「うまく生きる」事とは縁がない(それができたのは、哲学者というより経済学者のケインズぐらいであろう)。

 大体、世の中が「負け」に入ったり、混乱情況になったりしたときに、哲学は、「負けは負けだけど、それで何か問題ある?」という感じで登場しているのではないか?
そして、負けてて平気という形で「よく生きる」を目指すのではないか?

 修士論文を読むのに忙しいので、いちいち具体例は挙げないが、要するに、未曾有の停滞期、混乱期に入った今こそ、「哲学の時」が着たのではありますまいか?と強引に我田に引水するのであった。
posted by CKP at 14:09| Comment(1) | TrackBack(0) | 雑想・戯言 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年01月05日

今年の2月14日は?――第3回親鸞フォーラム

あけましておめでとうございます。
今年も、このCKP、しこしこブログしてゆきますのでよろしくお願い申し上げます。

 さて、新年早々、2月14日のご案内です。
この日、東京は六本木のあの「六本木ヒルズ森タワー」の40階のアカデミーヒルズ40というところで、「第3回親鸞フォーラム」が開催されます。

テーマは「人間・存在の大地を求めて〜現代と仏教の対話〜」。

パネリストが
 宮崎哲弥氏、香山リカ氏、門脇健氏
コーディネーターが武田定光氏。

 パネリストの中の一名が、何を隠そうこのわたしCKP。
さてどれかな?
他の2名が「朝生」な方々なので、寡黙な私はシンポジウムの間、ただうなずいているだけかもしれません。

 どんなシンポになるか興味ある方、あるいは2月14日はヒマだという方、または私にチョコレートを是非とも届けたいとい方、是非ともご参加ください。
 時間は午後2時から4時。
 入場は無料ですが、事前申し込みによる「聴講券」が必要だそうです。
以下の申し込み先に「氏名・住所・電話番号」を添えてお申し込みください。先着500名だそうです。

〒177−0032 東京都練馬区谷原1−3−7
東本願寺 真宗会館「親鸞フォーラム」係
メール・アドレス post@prati.info
だそうです。

 自分の出るシンポの宣伝でした。
 なんだか、正月早々、集会のビラまきしているような気分です。
 
posted by CKP at 20:43| Comment(0) | TrackBack(0) | 雑想・戯言 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年01月02日

ご挨拶

bluesky01.jpg

「哲学科教員ブログ」をご愛顧いただき、ありがとうございます。
昨年はあれよあれよという間にアクセスが増え、
なにごとが起きたのかと管理人は驚いております。

今年も引き続きご愛顧いただきますよう、
お願い申し上げます。
posted by pilz at 16:12| 写真 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする