2009年10月31日

大学教員(助教)公募のお知らせ

大谷大学哲学科では、現在、宗教学ないし倫理学分野の助教の公募をおこなっています。詳細は、大谷大学哲学科HPをごらんください。

(しばらく、この記事がトップに出ます。CKPさん、申し訳なく候。)
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2009年10月30日

秋の新企画「CKPのベストはどっち!?」――M田さん、パリ留学記念「枯葉」の巻

レヴィナスを研究している大学院生のM田さんが、この10月からフランス国立高等研究院に交換留学生として留学した。
メールによれば、パリは彼女をレヴィナスの初期論考集の第一巻発売で祝福してくれたらしい(出発前に、励ましの言葉やメールをいただいた方々によろしくとのことであります)。

 彼女が留学前の挨拶に来たとき、
「パリには、黒のタートルネックにベレー帽をかぶり「枯葉」を口ずさみながら『マドマゼール、セーヌ川を散歩しませんか?』という輩がい〜っぱいいるから気をつけるよーに」
と注意をしておいた。
今頃、この教師の言葉の重さを噛み締めていることであろう。

 というわけで、この秋の新企画「CKPのベストはどっち!?」は、シャンソンの名曲「枯葉」(Les feuilles mortes)のジャズ・ヴァージョンのベストについて考察を尽くしてみたい。

 第二次世界大戦後間もなく、ジェゼフ・コスマが作曲し、ジャック・プレヴェールが作詞して、イブ・モンタンやコラ・ヴォケールの名唱で世界的にヒット。
終わった恋を枯葉に託して唄われるシャンソンである。
ジャズでもフランク・シナトラやビング・クロスビーに唄われたが、やはり英語の歌詞はちょっと・・・
というわけで、ヴォーカル抜きのジャズの「枯葉」のベストはどっち!?であります。

 私の場合、なんと言ってもビル・エヴァンスの『ポートレイト・イン・ジャズ』(エヴァンスが銀行員のように7・3に髪をぴっちり分けて、セルフレームのメガネをかけているポートレイトのアルバム)所収のヴァージョンである。
ビル・エヴァンスのピアノとスコット・ラファロのベースが、まるで風に舞う二枚の落ち葉のように軽やかに絡みあっている。
エヴァンスとラファロの叙情的だけれども乾いたプレイが気持ちよい。
この演奏の1年半後、ラファロが交通事故で死んでしまう。
それを知って聴いていると、この演奏自体が、今は枯葉となって死んでしまったけれども、楽しかった若葉のころの恋を懐かしく思い出す、そんな演奏にも聞こえてしまう。

 で、「枯葉」のジャズ・ベスト・ヴァージョンは、ビル・エヴァンスに決定!だったはずなのだが、久しぶりに、おそらく30年ぶりにキャノンボール・アダレイ『サムシング・エルス』の最初に収められた「枯葉を聴いて、む〜ん。
とりわけマイルス・デイヴィスのトランペット・ソロを聴いて、「た、たまりませんなー」と思ってしまった。

 マイルスがミュート・トラッペトで深い霧のそこから吹き上げてくるような音階は、終わってしまった恋、つまり枯れてしまった恋の孤独を、なんとも美しく静かに歌うのである。
なんだかね、お尻のほうから、ゾワゾワーっとするのである。

 こういうジャズのスタイルというのは若い頃はぜんぜん分からなかった。

 今でもそうだが、ジャズは或る曲のメロディが提示され、その後そのコード進行にそって各ミュージシャンがアイデアに満ちたアドリブをぶりぶり吹きまくるのがカッコいいと思っていた。
ところが、マイルスは或る時期からクールで耽美的ともいえるような演奏をするようになって、わたしとしてはあまり関心なかったのです。
コードに沿ってアドリブしまくるというのではなく、或る音階をどこまでも一つ一つの音を慈しむように吹くモード・ジャズと言われるスタイルをとるのである。

 モード・ジャズの古典といわれる「カインド・オブ・ブルー」が1959年3月。
今年が50周年ということで、記念盤が出ていたので、いつまでも食わず嫌いではいかんな、と思って聴いてみて、なんとなくマーラーの中・後期のアダージョ楽章を聴く感じで聴いたら、マイルスのやりたいことがなんとなく分かってきた。
音が、音の重力にそって広がっていくのである。

 その1年前の実質的にはマイルスのリーダー・アルバムである『サムシング・エルス』にもその感じが十分聞き取ることができる。
だから(?)、「た、たまらんなー」という感想になるのであります。

 また、ビル・エヴァンスもその『カインド・オブ・ブルー』で重要な役割を演じていて、そのアルバムの9ヶ月後、つまり1959年12月に録音された『ポートレイト・イン・ジャズ』のベースをメロディ楽器としてピアノと絡ませるというアイデアは『カインド・オブ・ブルー』をくぐってはじめて出てきたものであろう。

 と、いきなりジャズ史のお勉強してしまいました。
要するに、「枯葉」の場合、エヴァンス・ヴァージョンもマイルス・ヴァージョンも、どっちもベストということであります。

 この二つは、ちょうどバッハにおけるグールドの演奏、「火焔太鼓」における志ん生ヴァージョンのようなもので、これを超えるのが目標になるような演奏で、この二つを超える「枯葉」を、わたしは聴いたことがない(あんまり、最近のジャズは聴いてませんが)。
ま、この二つがあればいいんですけどね。

 しかし、いまどき、パリで「枯葉」なんか流れているのだろうか?
ナツメロ喫茶みたいなところとか、日本人向けの居酒屋みたいなところだけしか流れていないのではないだろうか?
シャンソン自体が演歌みたいなもので、もう見向きもされてないのではないか、と思ってしまいます。
M田さんに、余裕ができたら、そのあたりも調査していただくとうれしい(何の役にも立たないが)。

 あ、やっぱり、そんなところには近付かないよーに。



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2009年10月27日

ローマのヒッチコック――なぜ『ローマの休日』にヒッチコックが出てくるのか

 『ローマの休日』のラスト・シーン。
オードリー・ヘップバーン演ずる王女が記者会見に臨むシーン。
王女自ら記者たちに挨拶をするために、玉座を降りて一人一人と握手する。
その新聞記者の最初の人物が、
「シカゴ・デイリー・ニューズのヒッチコックです」
と名乗る。

 1953年の映画である。ヒッチコック全盛時代である。
なぜ、ここにヒッチコックの名前が出てくるのか?

 今日、一回生哲学科の授業でこの映画のワンシーンを訳すということをやるとき、その状況を理解するためにほぼこの映画の全体を観せてしまった。
すると、このラストシーンが、真実を述べるために、ほかの人をだますというシーンであることに気がついた。
当事者たちは、言葉の真の意味を知っているが、ほかの人は騙されといる。
あるいは、他人をだます言葉が真実を語る。
これは、ヒッチコックのサスペンス映画の定石である。

 そして、この『ローマの休日』全体が、観客は知っているが当事者たちは知らない、という状況を当事者たちが少しずつ観客と真実を共有するように進んでいく、ヒッチコック的展開であることが見えてきた。
 
 ゆえに、ワイラー監督は、ヒッチコックの名前を目立つようにこの映画のラストシーンに出したのではないか――と愚考したのである。

 突然のヒッチコックで失礼した。
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2009年10月25日

仏具磨き――誰が磨いている?

 真宗寺院の最大の年中行事「報恩講」を目前にひかえ、掃除三昧の週末である。
昨日は、近くの檀家のおばちゃんたちと仏具磨き。
真鍮の花瓶や蝋燭立てを、研磨剤入りのワックスでピカピカに磨く。
いつもはおしゃべりのおばちゃんたちも、黙々と一心に磨く。

 たしか、寺山修司に仏壇磨きの短歌があったと思うが、仏具を一心に磨いていると、その短歌にあったような、なんだか妖しい気持ちになる。
自分を磨くような気持ちになって気持ちはよいのだが、じゃ、その自分を磨いているのは誰なんだ?という気持ちが妖しいのだろうか?

 そもそも仏具は、「いろもかたちもない」阿弥陀佛の世界を荘厳(しょうごん)するものである。
「いろもかたちもない」存在するとは別の仕方の世界を、仏具で飾ることで、現出させるのである。

 阿弥陀の世界という実体があって、それを飾るのではない。
飾ることで、阿弥陀の世界に「いろとかたち」を与えるのである。
この世に、出現させるのである。

 自分を磨いて、その世界の飾りになる――そのとき、その自分を磨くのは誰なのか?

 生け花も本来はそのような仏の世界の荘厳=飾りである。
自分を活けるように花を活けるのだが、その花の隙間から「いろもかたちもない」真如の世界が、現出する。
そのとき、花を活ける欲望はどこから来るのか?

 ポリーニの弾くバッハだって(最近はこればっかし)、ピアノの音で飾ることで、そこに真如の世界を現出させるのであって、その逆ではない。
では、誰がポリーニをバッハに向かわせたのか?

 などと、考えながら、ごしごしごしごしごしごし、仏具を磨いたのであった。
どれもこれも仏具は、それぞれの顔を映してぴかぴかになった。
そして、恒例の「あぶらげ飯に大根おろし」をみんなで食べて、報恩講に備えるのでした。
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2009年10月23日

2009年度文芸奨励賞のお知らせ

今年も文芸奨励賞の対象となる作品の募集がはじまっています。
「未来のわたしへ」というテーマで、50字以内の自由表現です。
毎年、哲学科の学生が入賞者の半数を占める賞です。
哲学科の学生諸君には、自らの考えを表現する場として、
格好の機会でしょう。

四の五のと自己完結するのもよいが、
表現するのもまたよし。

応募期間は10月23日まで。
詳細は、ここを参照してください。
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2009年10月22日

デカルトはえらい――デカルトの教育論

 一回生の哲学演習のテキストは今年もデカルトの『方法序説』。
西洋哲学の古典中の古典。
それにシンプルで短い。

 しかし、毎年読んで飽きないのは、シンプルなのになんだかよく分からないからである。
そして、ときおり「デカルトって、やっぱりえらいなあ」と感動するからである。

 今朝は第一部の第5段落を読んで、感動した。

「このようにわたしの目的は、自分の理性を正しく導くために従うべき万人向けの方法をここで教えることではなく、どのように自分の理性を導こうと努力したかを見せるだけなのである。教えを授けることに携わる者は、教える相手よりも自分の知性が勝ると見るのが当然だ。どんな小さな点においても誤るところがあれば、その点で非難されることになる。けれども、この書は一つの話として、あるいは、ひとつの寓話といってもよいが、そういうものとしてだけお見せするのであり、そこには真似てよい手本とともに、従わないほうがよい例も数多くみられるだろう。そのようにお見せしてわたしが期待するのは、この書がだれにも無害で、しかも人によっては有益であり、またすべての人がわたしのこの率直さをよしとしてくれることである。(谷川多佳子訳、岩波文庫版、11ページ)」

 何を言い訳がましくゴチャゴチャと書いてるんだろう――と思って読んでいた。
しかし、その前の段落の「一枚の絵に描くように自分の生涯を再現できれば、わたしに取ってこのうえもない喜び」であり、そのような絵を見ての「世間の評判から人びとの意見を知るこては自己教育の新しい手段」という言い方と合せて考えると、なるほどな――デカルトってよーっく考えているなーと感動したのである。

 つまり、「わたしはこのように必死で考えてきました。皆さん、それをウノミにして、何も考えない、なんてことはやらないでね。もちろん、考えるも考えないのも、皆さんの自由ですけど」
というようなことを言っているのである。

 哲学書を読んで、「そうか、書いてあるとおりだ」と答えを知ってしまったような気になったら、その哲学書はろくでもないものである。
哲学書を読んで、訳わかんなくて頭をフル回転させて考えるようになったら、それが哲学の本となる。

 親鸞が『歎異抄』の第二条で、「親鸞においてはこの通りで、あとはそれぞれ考えてくださいね(面々の御はからい)」というのと同じである。

――と書いてきて、去年もこういうことで「デカルトってえらいなあ」と感動しなかったか、と不安になってきた。
ま、感動したことを忘れていると、何度でも感動出来てなかなかお得であります。
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2009年10月19日

水餃子湯気おさまりてもなおうまし――無茶

 先日、四条である方から水餃子をご馳走になった。
冷めてもうまい餃子であった。
そのあと、イノダ本店でコーヒーをご一緒する。
よく考えたら、30年ぶりのイノダ本店であった。
20年ぶりではないかと考えるのだが、やはりどう勘定しても30年ぶりであった。

 もう秋か30年ぶりかイノダ本店

 こういう下手な句を作ると、よくできた俳句の凄さがよくわかる。
その凄さを味わうために、こうして下手な俳句を披露しているようなものだ。

 同じ湯気系の食べ物の俳句の絶唱は、久保田万太郎の次の句であろう。

 湯豆腐やいのちのはてのうすあかり

 ホント凄い句ですね。
同じ記事のうちに並べて申し訳ない。

 なんでこんな句ができるのかと年譜を調べると、万太郎は14歳のとき、「たけくらべ」を全部暗誦できたそうな。
そういう修行をして、あんな句ができるのである。

 鮟鱇もわが身の業も煮ゆるなり

 これも食べ物、しかも湯気系。
凄みの句である。
万太郎先生は、湯気を見るとひねりたくなるのか?

 いずれにせよ、凄いとしかいいようがない。

 読者諸賢におかれては、わたしの駄句を見て、これよりましなものならできる、と勇気を得ていただければ、幸甚です。
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2009年10月16日

唄うポリーニ――バッハ:平均律クラヴィーア曲 集第1巻

 今日というかこの時間では昨日になってしまったが、大学からの帰りレコード屋によって、ピアノの棚を見る。
アンダドラーシュ・シフのバッハ:パルティータ全曲集を買おうかなと思っていたのである。
5000円、高いなあ――と思ってとなりを見ると、ポリーニの平均律の輸入盤が並んでいる。
ぎょっとして、思わず買ってしまった。
3,300円也(2枚組み。シフの5,000円に比べれば安いと思ってしまったのでした)。

 1942年生まれ、60年にショパンコンクール優勝、そして10年間の沈黙。あとは、圧倒的なテクニックと修行僧のような精神性で、天下無双のピアニストとして活躍。
そのマウリッツィオ・ポリーニのバッハ初録音。
誰だって「ぎょ」っとします。

 で、帰って、「不毛地帯」の後ろ半分を見てから、恐る恐る聴きました。
めちゃめちゃ立派で、深刻な演奏だったらどうしよう、とびびりながら(この前のモーツァルトの協奏曲はちょっと立派すぎたと、罰当たりな感想なんです、わたしの場合)。

 最初のプレリュードから、豊かでしかも軽やかなピアノの音が響く。
グールド以来のほかのピアニストが嵌ってしまったチェンバロ・コンプレックスが完全に吹き飛んでいる(ということはグールド・コンプレクスも吹き飛んでいる)。
全体的にはスピード感のある演奏。
しかし、遅めのフーガはたっぷりとゆっくり弾く。しかし、深刻ではない。
それに、耳を澄ますと、ポリーニの唄う声が聞こえる(たとえば、ハ長調のフーガの冒頭、かすかに聞こえる)。
グールドのレコードみたいにポリーニが歌っているのである。
なんか、もう、うれしくなってしまいました。
バッハもグールドも草葉の陰でよろこんでいるでしょう。

 いいなあ、とちょっと興奮して、ついこんな夜中にエントリーしてしまいました。
ストーンズといい、ポリーニといい、1940年代前半生まれはなかなかいい歳のとり方をしてるなあ、とひどく感激。
と同時に、60年から70年の間の沈黙の時期、ポリーニはストーンズやビートルズのロックの席捲をどんな気持ちで聴いていたのか、がちょっと気になります。
posted by CKP at 00:46| Comment(0) | TrackBack(0) | 雑想・戯言 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年10月13日

「しらず」の功徳――未来は霧の中

 この連休は「一人暮らしのおばあちゃん」シリーズであった。
 土曜日の午前中は、山村に一人暮らしするばあちゃんを訪問。
 
 一人には寺からの粗品を届けるだけ。
耳が遠いから呼んでも出てこない。
「はいるよー」と言いながら、家の中へづかづかと入る。
寒い朝だったので、ばあちゃんは布団の中でテレビを観ていた。
ほい、と品物を渡して、またね、と別れる。

 そこから、山道を1キロぐらい登って、村中で一人になってしまったばあちゃんのところで「報恩講」のお勤め。
「娘が来て台所を掃除していったのはいいが、モノの場所が変わってご飯も炊けん」などの愚痴をたっぷりお聴きする。

 夕方、街中に住む一人暮らしのばあちゃんが亡くなったと電話。
即、枕経に出向く。
翌日、お通夜。
月曜日に、ひっそりとしたお葬式。94歳、夫を亡くしたあと、芸者さんをしながら生きてきたばあちゃんであった。

月曜の夜は、寺の本堂で、毎月恒例の「お講」。
あるばあちゃんが「新聞を見ると、けなるい(うらやましい)」と話掛けて来る。
死亡欄を見て、「この人はわたしの歳で死んでいる」と確認して、うらやましがっているのである。
「ほーやの(そうですね)」とお聞きする。
しかし「こればっかりは分らんさけの」とも付け加える。

 そのとき、昼間、お骨をお迎えしたときに拝読した蓮如上人の「白骨の御文」の一節を思い出す。

「われや先、ひとや先、今日ともしらず、明日とも知らず、おくれ、先立つひとは、もとのしずく、すえのつゆよりも、しげしといえり」

 私が先立つのか、他人が先立つのか、今日とも明日とも知ることができないまま、木のもとにおちる雨のしずく、枝の先の露が落ちるよりも激しい頻度で、人は次から次へと亡くなっていく、といわれる。

 死んでいくのが「今日とも知れず、明日とも知れず」というのは、ホント、ありがたきことであるなあ、としみじみ思ったのでありました。

 何でもカンでも、分ればいい、知ればいい、というものではないですな。
こういうことって、歳をとらねばわかりませんなあ、と思ったのであります。
posted by CKP at 18:54| Comment(0) | TrackBack(0) | 雑想・戯言 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年10月08日

信じて読む(その3)――出会いは「なんとなく」

 津村記久子さんの「ひどく寒い日の光」の中で、「ほんとにそうなんだけど、でもなんでこうなるんだろう」と思いながら読み返したのは、何事も信じられないときでも、ヴェーユのことは信じる、しかし、そのヴェーユの言うことが十全に分かるわけではない、というところである。

 そんなときの「読み方」が面白い。

「そういう気分の時でも、シモーヌ・ヴェーユの言うことだけは聞く。意味がわからん、と思いながら、歯を食いしばって聞く。理解できるまで読み返す。それでもわからないことがたくさんあるけど、顔をしかめて引き続き読み続ける。そもそもそんな資格はないんじゃないのかと自分を謗りながら。」

 哲学徒でもないのに、どうして「意味がわからん」ヴェーユの文を「歯を食いしばって」「顔をしかめて」、聞く=読むのであろう?
彼女は次のように説明する。
 
「そんなにヴェーユを読むことに向いていないのに、わたしはどうして彼女の書いたものを読みたいと思うのか。それはひとえに、彼女が実感を、本当のことを書いていると考えているからだ。(中略)
 俯瞰して分析するのではなく、現場で体験した経験をもとに、言葉を発する。わたしが、わからないなりにも彼女の書いたものを読んでいくばくかの感慨を得ることができるのは、彼女の書くことがしばしば、勘の悪い読み手であるわたしのような人間にも届くほど生き生きしているからだ。雲間から突然射す光のように、精神に入ってくるのだ。頭の中で考えただけのことではなく、現場から持ち帰った実感を書くこと。それがたとえ、世界の悪辣さを言い当てるようなものであっても、胸のすく思いがする。それが成されることは、成されないことよりもはるかにましだからだ。彼女は、世界の悪辣さから隔てられようとはしなかった。安楽な場所からえらそうなことを言うという欺瞞は犯さなかった。そういう姿勢から発信される彼女の言葉は、希望のあるなしに関わらず、生きた考えであることを感じさせる。」

 だから、「歯を食いしばって」「顔をしかめて」でも、何度も何度も行ったり来たりしながら、読み続けるのだという。
「本当のこと」「生きた考え」と「感じられる」「生き生き」した「ことば」が、「雲間から突然射す光のように、精神に入ってくる」からだという。
そして、それだから、ヴェーユは、津村さんにとって「信ずるに足る」本当に少ない人のうちの一人だという。

 しかし、この「信ずる足る」ヴェーユとの津村さんとの出会いはひどくぼんやりとしたものだ。

「シモーヌ・ヴェーユのことをはじめて知ったのは、ネットの人名辞典を閲覧していたときのことだった。著名人を享年ごとに整理しているそのサイトに載っていたヴェーユの写真は、よく見かける、帽子をかぶって長いコートをきているぼやけたものだった。間抜けな所感かもしれないが、わたしはその写真を見て、今の人みたいだ、という感想を持ったのだった。この人はかわいいし、いいコートだなあとも思った。それでなんとなく本を買いに行った。そこから今に至る。なんら思想的な所からの導きはなかった。そのヴェーユの読むことは、今のわたしの中で、大きな部分を占めている。」

 私が津村さんのこの文章の中でで、今、一番好きな箇所である。
ネットで偶然見つけて、写真を見て「今の人みたいだ」という「間抜けな感想」をもって、「この人はかわいいし、いいコートだなあ」と思って、「なんとなく本を買」って、哲学的な勉強は別にせずに、「信ずる」というところにまで至っている。
劇的なところがない。
間抜けな感想をもって、なんとなく本を買いにゆく。
そして、その本が人生の糧、人生の根本となる。

 偶然の出会いが、後から考えると必然であった、ということになる。
そういうことって、ありますよね。

 その出会いは確かに「なんとなく」なのだけれども、しかし、その「なんとなく」の中には何かとても豊かなものが含まれている。
おそらくヴェーユを読むことは、その豊かさを確認するような作業なのだろうけれど、しかし、「なんとなく」の瞬間にはそんな豊かさは見えない。
しかし、津村さんのセンサーの何かが、「この人の言葉は私に宛てて語られている」と判断したのであろう。
その判断が、「なんとなく本を買いに行った」という行動に駆り立てた。

 しかし、これは大変幸せな出会いではあるけれども、見方を変えれば、けっこう危険な出会い方であるとも言えないこともない。
「なんとなく」出会って、よくわかないけど、信じてしまうのだから。

「あんた、だまされてるんちがうの!?」

 そんな声は聞こえなかったのだろうか?

 ここのところをどう考えたらいいのかと、せっかくの津村さんの気持ちのいい文章をいじくりまわして、無粋でおせっかいな大阪のおばちゃんのような私なのでした。(つづく)

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2009年10月07日

『岩波哲学講座第12巻 性/愛の哲学』やっと発売!――「愛の化石」にならなくてよかったね

 浅丘ルリ子が唄うというか語るというか「愛の化石」という唄に、
「愛するって、愛するって、耐えることなの」
という名ぜりふがありました。

『岩波講座哲学第12巻 性/愛』の発売も、耐えて耐えて、もう発売は無しかとあきらめかけたところで、ようやく発売となりました。
我らが池上タヌキ哲司教授の論文も「愛の化石」となることなく、読めることになったことを共に寿ぎたいと思います。

 予約出版ですが、大きな書店やアマゾンなどでは購入できます。
ちなみに、目次をご紹介。

展望 女性、家族、そして性愛の探究へ・・・・・川本隆史
T 思想史の在庫点検
 1フィリア・エロース・アガペー・・・・・・・神崎 繁
 2非西洋圏における性愛、性/愛・・・・・・・坂元ひろ子
 3近代思想における「愛」の虚偽・・・・・・・岡野八代
 4ダーゥイン、フロイト・・・・・・・・・・・槫沼範久
U性/愛の問題圏
 1性・生殖・次世代育成力・・・・・・・・・・小泉義之
 2家族・親密圏・根拠地・・・・・・・・・・・金井淑子
 3性の商品化・・・・・・・・・・・・・・・・田村公江
 4老いと介護の倫理・・・・・・・・・・・・・池上哲司
探究 性/愛はいかにして可能か・・・・・・・・後藤浩子
概念と方法・・・・・・・・・・・・・・・・・・加藤秀一
テクストからの展望・・・・・・・・・・・・・・水溜真由美

と、なかなか充実のラインナップであります。
が、池上先生の論文の位置が、なんとも味わい深いところであります。

 尚、大谷大学横の大垣書店は建物は小さいが、心の大きい書店でありますから、この予約出版の巻も一般向けに販売しております。
シュープリームスは「愛はあせらず」と唄っておりますが、ここはあせって書店にレッツ・ゴー!
(ひょっとしてレッツ・ゴーって昭和語?)
posted by CKP at 13:11| Comment(1) | TrackBack(0) | 雑想・戯言 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年10月05日

信じて読む(その2)――遠く宿縁をよろこべ

 津村記久子さんの「ひどく寒い朝の光」を書き写し、読み返し、こっそり写し間違いを直しながら、どうしてこんなに気持ちのよい文章なのだろうか、と考える。

 哲学者シモーヌ・ヴェーユについての文章というのは、ヴェーユ自身の文章と同じく難しくなりがちだが、この文章はそうではない。

 音読しても、すらすらと気持ちいい響きを感じ取ることができる。
おそらくというよりも当たり前だが、津村さんは哲学研究者がヴェーユの文章に向き合うように、ヴェーユに向き合っていない。
ただ、授業に出て後ろの席に坐っている感覚はあるみたいだ。
でも、そこで授業している「好きな先生」を研究しようなんてさもしい根性は微塵もない。

 ひたすら教えを請う。
わからなくても、その先生の話を聞けば、「終わりがなんなんだ」と絶望を超えてゆける。

 ヴェーユは、津村さんにとって、身体が食物を必要とするような、心の糧、いのちの糧になっている。
そういう意味で『重力と恩寵』という書物が「本」となっている。
つまり、人生の「根本」となっている。

 そういう「本」との幸福な出会いが、「ひどく寒い朝の光」に描かれていて、それがうらやましくも気持ちがいいのだ。

 しかし、そのような「本」との出会いというのが、なんだか脱力するような「間抜け」な感じなのも面白い。

 といういう訳で、ついつい、「出会い」の現象学に突入しようとして、こんな気持ちのいいエッセイすらも「研究」の対象にしようとするさもしい根性のわたしなのでした。
posted by CKP at 13:28| Comment(0) | TrackBack(0) | 雑想・戯言 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年10月02日

この時期ゆえの‥‥

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posted by pilz at 19:01| キノコ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする