私たちはどうやって未知の作者の本を買うのだろう。
信頼する人の薦めによって。
講義のときの指定によって。
新聞や雑誌の書評によって。
しかし、ときに何かの拍子に誰の薦めにもよらず、装丁や作家の顔写真に何かを感じてふらふらと買ってしまうことがある。
ひどい時には「私を読め」という声が聞こえたりして買ってしまう。
津村記久子さんの場合。
「シモーヌ・ヴェーユのことを初めて知ったのは、ネットの人名辞典を閲覧していた時のことだった。著名人を享年ごとに整理しているそのサイトに載っていたヴェーユの写真は、よく見かける、帽子をかぶって長いコートをきているぼやけたものだった。間抜けな所感かもしれないが、わたしはその写真を見て、今の人みたいだ、という感想をもったのだった。この人はかわいいし、いいコートだなあとも思った。それでなんとなく本を買いに行った。そこから今に至る。なんら思想的な所からの導きはなかった。そのヴェーユを読むことは、今のわたしの中で、大きな部分を占めている。」
(2009年『春秋』8・9号、「ひどく寒い日の光」。以前のこの文章の全文を写したのをアップしている。
http://tetsugakuka.seesaa.net/article/129040695.html)
「今の人みたいだ」「かわいいし、いいコートだなあ」というのは確かに「間抜けな所感」である。
メガネの奥の目には深い英知がたたえられていた…とかいうのではない。
なんだかぼんやりと「いいなあ」と惹かれた、ということであろう。
そして、すぐに「なんとなく本を買いに行」という行動がある。
そして、いつも手元に持っている。
「読むわけではないのだが、ヴェーユの考えたことが鞄に入っているというだけで、いくらか安心した。これでいつでも失望できると思っていた。・・・自由になるのだ。幸福か不幸かも、強いか弱いかも一切問わない、本当の自由が自分の中を通って行く。」
「本当の自由が自分の中を通って行く」
よい表現ですね。
私という主体があって、その主体がヴェーユを読んで自由にふるまう、というのではない。
ヴェーユを読むことで、自由がやってくるのだ。
それはふつうの「自由な主体」というイメージからすると、ヴェーユに縛られているだけで自由でもなんでもない、ということになるかもしれない。
そもそも、「いいなあ」と思って、「なんとなく」本を買う、というところから、主体性が放棄されている、とも言えるのである。
自分で内容をある程度検証し、読むに値するという判断のもとで購入に及ぶべきである。
そうゆうのが、望まれる「主体的な人間」であるし、今の社会では「賢い消費者」である。
しかし、そのような「自由な主体」に、本当に本が読めるのだろうか?
購入に値するという自分の判断は正しかったか、この著者の書いていることは正しいか、そんなことばかりを考えながら、本は読めるのだろうか?
読めたとしても、自分の判断基準は変化するのだろうか?
成長はあるのだろうか?
もちろんいつも読者はいつも成長せねばならい、ということはない。
自分の判断基準を寿ぐ読書というのもあっていい。
しかし、自分の判断基準の固まる以前、あるいはそれを差し置いて、本を読もうというのはどういうことなのだろう。
それは、「呼び掛けられる」としか言いようがない事態なのだろう。
顔を通じて声が聞こえるとしか言いようがない事態。
いきなりの「仏説無量寿経」で恐縮であるが、阿難が説法を聞く前に立ち上がり「世に尊いかたよ!今日のあなたのお顔はキラキラと輝いておいでです」というようなものである。
説法の内容を聞く前に大絶賛しているのである。
いきなりのレヴィナスで恐縮であるが、
「真理との直接的関係は、真理の内容、真理の理念に関する先行的検証を排除するものであり――つまりこれが啓示の迎え入れということなのだが――それゆえ一個の人格、すなわち他者との関係以外の何ものでもありえない。トーラーは一つの顔の「輝き」のうちに与えられます。他者との公現とはただちに他者に対する私の有責性へと通じます。」
(『タルムード四講話』内田樹訳、国文社、1987年、116ページ、Quatre lectures talmudiques,Les Edition de Minuit,1968,p.103f.)
「有責性」というとなんだかしんどそうだが、元の言葉は「responsabilité」つまり応答する能力である。
呼びかけに「ハイ」と応じること、そしてそのような呼びかけとして顔が出現すること、それは「自由な主体性」が形成されるはるか昔の出来事である。
その呼びかけは、母の顔から発せられたか、父だったか、おばあちゃんであったか、兄ちゃんであった・・・・
あるいはモーセであったか、法然であったか・・・・
その呼びかけに応じ、その教えに聞き従うことで、「わたし」になってきた私は、大人になっても、ときにその物語を反復するのである。
しかし、ヴェーユとかレヴィナスとか、ちょっと読んだだけではさっぱり分からないものから呼び掛けられるというのは、不思議と言えば不思議。
当然と言えば当然。
しかし、「タルムード講話」なんていうのを訳そうなどという「応答可能性」というのは、やっぱり異常です。
ふつう少し訳して、「わ、わ、わからん」って放りだしますもの。
つまり、内田先生は、レヴィナスに応答しながら、その応答のよって来たる所以をカリカリと訳しておられたことになるわけです。
ヴェーユにしても、「なんとなく」『重力と恩寵』買ってきても、2,3行読んだら「わ、わからん」と放り出します、ふつう。
しかし、心の糧を求めるようにヴェーユを読むことで、津村さんも心の糧が何なのかを読み取っておられるように思います。
と、こうゆうことを書いてきて、なんだけど、わたくし、このあいだ58歳になったお祝いに、つい諏訪内晶子さんのCD(ブルーレイ付き!)というのを衝動買いしまいました。
そしたら、諏訪内さんのお写真が印刷されたクリア・ファイルもおまけで貰いました。
うれしはずかしオジサン買いです。
これも「顔に対する応答」でしょうか?
それともCKP58カドワキは、単に美人に弱いということなのでしょうか?