2019年11月21日

教育に横文字は要らない――「大人の事情」で教育をいじるな

 昨日、これからの大学教育に関する講演を聞きました。
PBLだのALだのポートフォリオだの英語の略称やカタカナが乱舞する話でさっぱり頭に入ってきませんでした。
問題解決とか課題設定の授業が大事ということらしいのだけれども、そんなこと昔の子どもは自分で真剣にやっていました。
ただし、授業の外で。

 まずは、学校で知識をどう身に着けるかという課題。
そして、学校の勉強が嫌いな子どもにとっては、進学せず、自分の適性を真剣に考え、どのような職業をなりわいにして生きてゆくかという課題。
戦後から1970年代前半くらいまでの15歳前後の子どもたちは、そんな課題に真剣に取り組み、試行錯誤しながら自分の解を見つけていましたよ。
そうやって、「大人」になっていったのでした。

 しかし、その後、「詰め込み教育」批判、「落ちこぼれをなくそう」教育がやかましくなり、子どもたちは、知識を得ることはいけなくてかつ落ちこぼれは敗者という訳の分からない状況に置かれたのでした。
学校で何をしたらいいの?
そうしたら、学校は生徒の全人格を陶冶する場所のように謳われるようになったのでした。

 そして、それを推進するためにいろんな機関が出来て、文部省のお役人の天下り先となっていったのでした。
いや、話が逆かもしれない。
いろんな機関を作るために全人教育が必要になったのかもしれない。
そうやって、教育をいじり倒し、今のぐちゃぐちゃの状態が出来上がっているわけです。

 ホント、そうゆうの、やめてください。

 学校は、系統立てて知識を授ける場。
その知識をどのように生きる力に変えてゆくかは、それぞれの子どもがホントに真剣に必死に考える・・・それでいいんじゃないですか。
posted by CKP at 12:11| Comment(0) | 雑想・戯言 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2019年10月30日

「ドリアン騒動」のそれから――小三治師匠『あの人とっても困るのよ』

 我が寺の報恩講も無事お勤めした翌日、予約しておいた小三治師匠の『あの人とっても困るよ』が届きました。
あの「ドリアン騒動」や「卵かけご飯」「駐車場物語」の系列に属するマクラ系の噺です。

 はっきり申し上げましょう。
この作品は、あの傑作「ドリアン騒動」を越えています。
何があの作品を越えさせているのでしょうか・・・などと書いても「ドリアン騒動」を知らない人には何のことやら・・・ですね。

 なんだかとっても幸せな気持ちになりましたよ。
師匠の初恋のお話が・・・

「あの人とっても困るのよ」というタイトルから、いろんな困った人の噺かな、と思っていましたが、そういうことではありませんでした。
聴きながら寝ようと思って、聴きながら床に入ったのですが、面白くてすっかり聴き入ってしまいました。
2枚組CDで少々値が張りましたが、良い買い物でした。

という訳で「このCDとっても困るのよ」でした。
posted by CKP at 17:37| Comment(0) | 雑想・戯言 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2019年10月24日

世界が回る、私が回るーー我が愛しの三半規管

 昨日、昼頃から世界が回り出した。
なんだかふわふわしている。
なんとか授業を始めたが吐き気がしてきたので、授業は早じまい。

 研究室に戻って少し吐くと楽になったが、どうも世界のふわふわは収まらない。
タクシーで下宿に戻って横になっていたら次第に収まっていった。

 昨年93歳で亡くなった母親もよく目が回ると言っていたのを思い出した。
病院で診てもらっても原因は分からなかった。
どうもその「目が回る」DNAを引き継いでいるらしい。

 で、収まってから考えたのだが、「めまい」と「吐き気」というのは、ちょうど乗り物酔いみたいなことかと思う。
何かの拍子で三半規管が乱れて、乗り物に乗っていないのに揺れてしまうと感じる、それで吐き気をもよおす。

 目を回してわかったことは、確固たる世界を確固たる私が認識するというのではなくて、私と世界の関係においてある認識が成立しているということでありました。
ということは、この確固たる世界もこのように確固たる世界かどうかわかったものではない、ということです。

 そういえば、一昨日、即位の礼の日にもかかわらず、お坊さんのお仕事をいくつかお勤めしていたとき、自分の読経の声がやたらとうるさく耳鳴りがしていました。
三半規管が読経の声に悲鳴を上げていたのかも。
posted by CKP at 15:59| Comment(0) | 雑想・戯言 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2019年10月22日

大根おろしの搾りかすは捨てていい――オイオイの言葉

 えーっと、本日の「折々のことば」は角田光代さんの「大根おろしの水分は捨てなくていい」とかいうものでした。
私には、その「ことば」に対するわっしーの「ことば」も含めて、なんだかよくわかりません。

 というのは、大根おろしは水分があってこそ大根おろしなので、その水分を捨てるなどということは考えられないからです。
ここ越前では、「おろし蕎麦」が有名ですが、その食べ方として、大根おろしを布きんでよおーく搾って、その水分とお出汁を混ぜてお蕎麦にかけるというのが、本格的な食べ方なのです。

 大根おろしの搾りかすはすてていい、のです。

 大根おろしの「おろし」部分を蕎麦の上にのっけて「おろし蕎麦」と名乗っているのを見ると、いつも「ちがう・・・」と思っているのは私です。

 なもので、角田さんの文章も、わっしーの文章も、なんだかよくわからないなぁ・・・と思うカドワキでした。
posted by CKP at 19:00| Comment(0) | 雑想・戯言 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2019年10月16日

自らを、法を島とせよーー洪水のあとで

 千曲川や阿武隈川の洪水の映像に震え上がりました。
 言葉もありません。

 同時に、もう20年ほど前に見た雨季の終わりの頃のインドの風景を思い出しました。
確かバスから眺めた風景でしたが、広大に広がる一面の泥水に木の生えた島が点在する風景でした。
毎年のことなのか、人々はのんびりとその島で水が引くのを待っているようでした。
洪水の始まり死者が出ていたかどうかは分かりませんが、人々は洪水を勘定に入れて生活しているようでした。

 そのとき、お釈迦様が「自らを島(拠り所)とせよ、法を島とせよ」と遺言された意味が分かりました。
洪水において、いつもの丘が島となって生活を支えてくれることほどありがたいことはありません。
インドにおいて、「島(洲)」は生きる上で大切な場所なのでした。

 また、もう30年くらい前に読んだ高取正男先生の本に「産屋は村で洪水にあわない場所に建てられていた」と書かれていたことを思い出しました(昨日から探しているのですが、その本がみつかりません)。
産屋はふつう産褥を穢れとして差別する建物と考えられるのですが、高取先生はそれが極めて安全な場所に建てられていることを指摘されていました(もちろん、全ての産屋がそうだというわけではありません)。
穢れはもともと気枯れだった、という説がありますが、そのような時代に定められた産屋の場所なのかもしれません。
人々は洪水を前提にして生活していたということでしょう。

 治水技術の発達で洪水を忘れて暮らしていましたが、温暖化の今の日本では、大昔の日本のように、あるいは猛烈な雨季のあるインドのように、洪水を勘定に入れて生活せねばならなくなったのかもしれません。
posted by CKP at 13:19| Comment(0) | 雑想・戯言 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2019年10月10日

鬼を笑わせる男――鷲田清一先生ご講演延期!

 12日に予定されていた大谷大学開学記念式典は台風の影響を考慮して延期になりました。
 ということで、その式典に予定されていた大谷大学客員教授の鷲田清一先生のご講演も延期ということです。
 いくら鷲田先生でも今度の大型台風には勝てない。
 台風に「勝ち/負け」もありませんが・・・

 来年の2月1日に延期ということですので、来年のことを思って鬼を笑わせましょう。
 わっしっし、てね。
posted by CKP at 16:09| Comment(0) | 雑想・戯言 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2019年10月09日

嵐を呼ぶ男――鷲田清一先生ご講演(延期になりました)

 来る10月12日(土)午後1時より大谷大学開学記念式典があって、そこで実はずうーっと大谷大学客員教授であった鷲田清一先生のご講演「哲学:デモクラシーのレッスン(Philosophy to the people」がある予定なのですが・・・・
大谷大学での「最終講義」ということでわっしーは準備万端とお聞きしています。

 しかし、ご案内の通り12日ごろに台風が最接近しそうです。
が、紀伊半島沖で関東のほうへ向きを変えそうな気配も・・・

 式典中止、講演延期もありうる状態で、どうなりますことやら・・・・

 というわけで、参加希望の方は大谷大学ホームページをこまめにチェックしてください。⇒延期決定!

 かく言うカドワキも、当日は越前からのサンダーバードの指定席をがっちり確保しているのですが、どうなりますことやら・・・
posted by CKP at 11:16| Comment(0) | 雑想・戯言 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2019年10月02日

せこさの経済学――「税金に取られるくらいなら・・・」

 あるテレビ番組で、「消費税を下げて法人税をもっと取れ!」という主張に対して、「それでは消費税が法人税に変化して、その法人税分が商品価格に上乗せされるのだから同じことである」、とある経済記者クールに分析しておりました。
私は、少しだけ「なるほど」と思ってしまいました。
しかし、100円+消費税10円と商品価格110円が全く同じとは思えない。
やはり、消費税で10円余計に取られるのか…という感覚は購買意欲に何らかの影響はある。
・・・・・・・・ となんだか片づかない気分でおりました。

 そこに、「法人税がガッポリ取られるとなると、企業は税金で取られるくらいなら労働賃金を上げて企業利益を少なくし法人税をけちる、そうなると労働意欲が増してよい商品が出来て物が売れるという循環が生ずる」、という主張が目に入ってきました。
これに私は激しくガッテンいたしましたよ。

 なるほど。
現在、労働賃金も上がらず、物価もインフレ率2%を達成できないのは、法人税を安くして大儲けしてひたすら内部留保にお励みなさいと大企業を甘やかしているからなのですね。

「税金にとられるくらいなら・・・」という人間の負の欲望は、国家経済においてはけっこう重要なファクターと改めて気づきました。

 今のコンピュータ経済学は金持ちが損をしないようなクールな計算で成り立っているようだが、「税金を取られ損するくらいなら・・・」という仮定法は理解していないのではないか。
コンピュータはそんな人間の「せこさ」は理解できないのではありますまいか?

 我がヘーゲル先生の「欲望の体系」には、この人間の「せこさ」は入っていたかな?
posted by CKP at 18:34| Comment(0) | 雑想・戯言 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2019年09月30日

「ご心配」?――いや、誰も心配していない怒っているだけ

 3億円余りが関電→原発工事→関電幹部とキックバックされていたというニュースが流れた初期の頃(金曜日の正午)、関電の社長か誰かが「ご心配をおかけして申し訳ない」と発言したと、ラジオのニュースで言っておりました。

「ご心配・・・?いや、誰も心配してないって・・・。あきれて、そして怒っているだけ」と思います、ふつう。
いったい何をわたくしのような人間が「ご心配」せねばならぬのか?
「こんなめちゃくちゃな金の流れで作った原発はいい加減な危険なもの、とさぞかしご心配でしょうね」ということなのか?
それだったら、余計に腹が立つが、このようなときに関電が、原発の心配をしている一般人の心を考慮しているとは思えない。

 となると、「この金の流れで、関電幹部あるいはその周辺に捜査が入って罪が問われるのでないか、とご心配の皆様、スミマセン」ということしか思いつかない。

 要するに、原発村、金持ち村の住民の心配ということなのでしょう?
 
電気は大事です。
だから電力会社は、電気を使っている人間の方に顔を向けてください。
ほんと、お願いします。
posted by CKP at 12:24| Comment(0) | 雑想・戯言 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2019年09月19日

彼岸へと散り急ぐのか百日紅――無茶

 この八月いっぱいで大谷大学の正門隣りの至誠堂書店が閉店しました。
文学哲学関係の学術洋書の専門店で、京都のみならず関西のその筋のひとが大変お世話になった書店でした。

 学生時代、自転車でこの書店に来て、二階のドイツ哲学コーナーをうろうろするだけで、何となく「研究者」になれたような気がしました。
そこで買ったヘーゲルは書き込みだらけでもはや読めないボロボロな本となりましたが、大切に本棚に置いています。

 しかし、ネットの力、また学生の書物離れの波には抗しきれなかったということでしょう。
かく言うわたしも、ネットの方が速くて安いからついつい至誠堂さんに不義理をはたらき、こうして閉店の片棒を担いでしまったわけでした。

 いろいろとお世話になりありがとうございました。

 としんみりしていたら、今度は大谷大学北門隣りの大垣書店が10月12日で閉店するのだそうです。
池上タヌキ之介殿!どうしましょう?

 こちらは事情がちょっと違って、京都の要所要所に展開する大型店舗に力を入れていく流れで、今のような「街の本屋」は閉店するということのようです。
でも、「街の本屋」というの、好きですけどね。
しかし、今の時代、ネットに対抗するには、大型書店でないとダメなのでしょうね。

 こちらも長い間お世話になりありがとうございました。

 みんな、姿を消してゆきます・・・・
posted by CKP at 14:06| Comment(0) | 雑想・戯言 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2019年09月04日

隣りの芝生――あおいと許せん!!!!!

 テレビヲ見ると、ワイドショーは隣国の悪口一色です。
我が国にも話題にせねばならない政治的課題がいっぱいあるのに、政治についてはひたすら隣国の話題です。

 いったいどうして?

 ロシア、中国、アメリカとも課題山積みで、批判することがいっぱいあるのに、そんな話題は一切出ません。
ほとんどマウンティング感覚で、自分より弱いとみる相手を徹底的にたたいて自分の優位性を確認するいじめっ子のようです。
だから、自分より強いものにはヘーコラする。

 そのうえ、自分たちができないことを、その「弱い」はずの相手がやっているのをみせられると、悔しくて余計にいじめる。

この前、Gナントカの破棄の時に、ワイドショーのコメンテイターが「アメリカに怒られるぞー」とはしゃいでいたのを見て、なんだかぞーっとしました。

 自分はトランプの言いなりになっているのに、あいつらはけっこう対等にやっている。くやしい!
 うちの民はお国の言うことに従順なのに、あいつらはそんなの無視してやりたいことをやる。くやしい!
 うちの検察は権力者には手を出さないのに、あいつらの検察は権力者でも容赦ない。くやしい!
 こっちの賃金は下がっているのに、あいつらの賃金は上がっている。くやしい!

 この「くやしい」がひっくり返って、「嫌い」ということになってるのでしょうか。
自分が生きられなかった、自分にとっては影になっている生き方を目の前に見せられて、それを嫌悪してしまう・・・

 ならば、そのような生き方も取り入れればよい、というだけの話ですね。
posted by CKP at 14:20| Comment(0) | 雑想・戯言 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2019年08月28日

Where have all the flowers gone?――日本が、地球が壊れてく〜〜

 お盆疲れからなんとか回復して、テレビや新聞、ネットなどを眺めてみると、なんだか世界がメチャメチャになっています。

 アマゾンの森は燃えているわ、日韓関係は最悪になっているわ、トランプは好き勝手に暴れているわ、アメリカの余ったトウモロコシをアベは爆買いするわ、・・・・・・・・・

 いったい日本は、地球はどうなってゆくのでしょう?
 なぜこうなってゆくのでしょう?

 金、金、金ということでしょうか。
 それとも、となりの悪口を言って留飲を下げるという人間の悲しいサガのせいでしょうか?


 が、ここで諦めてはいけんと思います。
 また、同じ悪口でも、お隣よりも権力を振りかざす者への正確な根拠に基づいた悪口、つまり批判を口にすべきだと思います。
 が、その「正確な根拠」というのがどんどん見えなくなっているところが怖いです。
posted by CKP at 14:25| Comment(0) | 雑想・戯言 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2019年08月17日

盆参りの読経に負けじと蝉しぐれ――無茶

 今年のお盆はきつかった!
あの酷暑の中でも、いつも通り何組もの家族が本堂に参ってこられる。
それぞれに読経するので、お盆の三日間、何十巻の阿弥陀経を拝読いたしました。

 で、こちらが声を張り上げると、セミたちもそれに負けまいと声を張り上げるようなのです。

 が、ともかく今年のお盆も無事おわりました。
posted by CKP at 17:33| Comment(0) | 雑想・戯言 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2019年07月22日

「そう。いやなことばっかり・・・」(『東京物語』より)――オイオイの言葉

 小津安二郎監督の『東京物語』の終わり近く。

 急死した母の葬式のあと、形見分けの話だけしてさっさと東京へ帰っていった姉(杉村春子)や兄(山村聡)を「自分勝手」となじる末娘・京子(香川京子)に、そのあとも残っていた、戦死した兄の嫁の紀子(原節子)は、「誰だってみんな自分の生活がいちばん大事になってくるのよ」となだめる。
それに対して京子は、
「いやァねえ、世の中って……。」
と、真面目な顔で応ずる。
それに対し紀子は、
「そう。いやなことばっかり……」
と微笑み返すのでした。

 親子の関係から「世の中」の話に広がってしまっているのに、ちょっと違和感があります(こうやって文字化すると違和感があるのですが、画面ではそんなことは思わない。若き日の香川京子と原節子の会話ですから、それを見ているわたくしはガッテンガッテンガッテンのガッテンかどわきです)。

 いやなことばっかりの今日この頃、「そう。いやなことばっかり……」と微笑む原節子の表情と声が、しきりに思い出されるのでした。

 「いやなこと」は、「自分の生活がいちばん大事」という自己保身から来るということが、改めて確認される昨今の出来事です。

 逆に、「自己保身」よりも事柄そのものにわが身を棄てて向き合う姿が爽快さをもたらすということも確認されます。

 もちろん、「自分の生活がいちばん大事」ということは非難されることではありませんが、その生活が他人を犠牲にして成り立ち、そのことに無自覚になって「自分さえよければいい」となると、それはやはりまずいです。

 なんかまずいことばかりが目につきます。
でもって、「いやなことばっかり」という原節子のせりふがおもいだされるのだなぁ…ということに思い至ったのでした。
posted by CKP at 19:41| Comment(0) | 雑想・戯言 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2019年07月16日

「死者は今や、生きていたときよりも強くなったのである。」――フロイト『トーテムとタブー』より

 7月14日の釈徹宗先生との講演会、無事終了いたしました。
釈先生のご講演を、わたくしカドワキが引き取る形が偶然にも成立し、カドワキとしては機嫌よくお話することができました。
聴いてくださった方々も、釈先生も、そのあとの懇親会でゴキゲンだったので、カドワキの話もそれなりに聴いていただけたのではないかとちょっと安心いたしました。

 「安心した」というのは、話す前に、心のどこかで「上田先生に叱られないようにちゃんとした話をしよう」と思っていたからです。

 わが師である上田閑照先生はこの6月の末に亡くなられました。
なくなる前の2,3年は、研究成果をご報告しても反応がなくなりなんとなく張り合いがなくなっておりました。
しかし、亡くなられた途端、先生の厳しい目に常にさらされているような気がしてきたのです。
「それを言うためには、そのような手続きで十分ですか」
先生はいつも「手続き」ということをおっしゃいました。
わたくしカドワキが大学院のころ、徹夜明けの夜明けに思いついたことをゼミで発表したら「それはヘーゲルがどこで言っていることですか」と質されました。
カドワキは半泣きでした。

「死者は今や、生きていたときよりも強くなったのである。これらすべては、今日でもなお人間の運命に見られることである。以前は父がその現実の存在で妨げていたことを、今や息子たちは「事後的服従」という精神分析では周知の心的情況においてみずから禁止したのである。」(岩波版『フロイト全集』第12巻、184頁)

 そういえば、この翻訳を先生にお届けしたとき「君がフロイトを訳すとはおもいがけないことでした」とビックリされておられました。

 ところで、釈先生のご講演の後、どーっと聴衆がいなくなるということはなかったのですが、でも、やっぱりかなりの人が帰ってしまわれました。
ちょっとしょげますね、やっぱり。
posted by CKP at 13:29| Comment(0) | 雑想・戯言 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2019年07月12日

釈徹宗先生ご講演「現代における老いと真宗」――ガッテン門脇もそのあと話します

 来る巴里祭の7月14日、京都は洛北北大路の大谷大学で釈徹宗先生のご講演があります。
講演タイトルは「現代における老いと真宗――宗教の救いについて考える」

 これは、第26回真宗大谷派教学学会の記念講演としてお話しいただく企画です。
 一般の方々にも無料公開されていますので、どうぞおいでくださいませませ。

 時間は、午後1時15分より2時15分。
 場所は大谷大学の教室棟の大教室(図書館の向いあたり)。

 なお、そのお話のあとにワタクシ門脇も一時間ほど「物語の功徳」というタイトルで一席うかがう予定です。
なんでゲストが先に話し、ホスト側があとなのでしょう?
釈先生のお話が終ったら、聴衆がまるで潮が引くようにサーっといなくなるという光景が浮かんできます。
釈先生を聴きに来られた皆様も、お時間のゆるす限り、わたくしめの話を聴いてやってくださいませ。
posted by CKP at 15:37| Comment(0) | 雑想・戯言 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2019年07月10日

今ごろ告知しても遅いけど――池上哲司先生講演会

 去る6月9日日曜日、京都は東本願寺横のしんらん交流館で池上タヌキ之介哲司先生の講演会がありました。
今ごろお知らせしても遅いのですが、その講演タイトルが興味深いので、遅かりし由良之助カドワキがお知らせします。

 その講演タイトルとはこれ!
「倫理が歩みを止めるところ」

 倫理がその歩みを止めるとはいったいどうゆうことなのでしょう?
良いとか悪いとかもうどうでもいいんだ、バーローっと、池上タヌキ之介はやけを起こしたのでしょうか?
「おうおうおう、ガタガタ言ってんじゃねぇ」とかもろ肌抜いて、タヌキ之介が啖呵をきる!
イヨッ、池上屋!

 しかし、それだったら「倫理が歩みを止めるとき」となりそうなものです。
「歩みを止めるところ」・・・この「ところ」というのは何なのでしょう?
倫理がその意味を消失する特定の場所があるのでしょうか?
あるんでしょうね。
だから、このようなタイトルになっている。
さあ、それはどこでしょう。

 どなたか、その講演を拝聴した方、教えてください。
タヌキ之介本人はきっと教えてくれないでしょうから・・・
posted by CKP at 14:24| Comment(0) | 雑想・戯言 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2019年07月03日

『原爆の子』――最近のいちばんの衝撃


 最近いちばんじぇじぇじぇとびっくりしたは、片山杜秀氏の『線量計と機関銃』(アルテスパブリッシング)の「緊急地震速報と『原爆の子』」というエッセイ(とは言いながら実はラジオ番組を活字化したもの。ちなみにこれは2011年4月29日収録、5月7日放送)。

 まず、緊急地震速報の作曲者が伊福部達(いふくべとおる)、福祉工学という分野の東大の先生だった人物でした、という話から始まります。
で、その伊福部達氏は実は伊福部昭、あの「ゴジラ」の作曲者の伊福部昭の甥御さんであることが述べられて、ここで軽くじぇじぇと驚きます。

 この「ゴジラ音楽」で著名な伊福部昭は、戦時中、作曲家でありつつ、一方で総木製飛行機の研究に従事し多量の放射線を浴び、一年間栄養をとって寝るだけの生活をして奇跡的に回復し、しかし技術者に意欲をなくし、作曲に専念するようになったのでした。
そして、そのような被爆体験が原水爆怪獣ゴジラの音楽を作曲するときに原動力になったというのは、私でも知っていた話ですが、当時、伊福部昭は反原爆三部作とも言うべき映画の音楽を作曲していたのには、じぇじぇじぇとかなり驚きましたよ。

次の三作品。
『原爆の子』1952年、監督:新藤兼人
『ひろしま』1953年、日教組制作、監督:関川秀雄
そして『ゴジラ』1954年、監督:本多猪四郎

このうち前の2作品は、1951年に岩波書店が被ばくした児童・生徒たちの作文を編集して出版した「原爆許すまじ」的な本『原爆の子』を原作としているのだそうです。
そこには、こんな作文が収録されています(小学5年生の若狭育子さんの作文より)。

「半年前(昭和26年1月)に、十になる女の子が急に原子病にかかって、頭のかみの毛がすっかりぬけて、ぼうずあたまになってしまい、日赤の先生がひっ死になって手当てをしましたが、血をはいて二十日ほどでとうとう死んでしまいました。戦争がすんでからもう六年目だというのに、まだこうして、あの日のことを思わせるような死にかたをするのかと思うと、私はぞっとします。」(41〜42)

 原爆投下から5年以上もたっての出来事です。
内部被ばくの恐ろしさ!

 しかし、じぇじぇじぇじぇじぇと驚き衝撃を受けたのはこの事実ではありません。
この『原爆の子』の序文の次の文章です。

「原子力の平和産業への応用は、平和的な意味における、所謂、「原子力時代」を実現して、人類文化の一段と飛躍的な発展をもたらすことは疑う余地がない」(42)

 ホントにぎょっとしました。
ぎょっとして、なんともつらくなりました。

 これは何も、この序文を書いた人が原子力に対して甘い認識をしていたということではないようです。

 原爆で兄と弟を亡くした高校生二年生、原爆が落ちた当時は小学5年生だった伊藤久人さんの作文の結論部分。灯台守の一家の次男。

「私は終りに結論と致しまして、二度と原子爆弾を戦争というものに使わないで、早く朝鮮の戦争を止めていただいて、世界の各国の人々が、平和な笑いに満ち溢れるようにして下さい。そうして原子爆弾を作らず、それを作る元となるものを産業に使ったら、どれだけ産業が進むかということも聞いて知っています。だから、それを産業の方面に使っていただいて、産業を進めていただきたいのです。
 最後に申し遅れましたが、あの元気だった兄さんは、8月6日宿で別れたまま今だに帰ってきません。そして、灯台の若い人は、今までやったすべての病気が出てきて、9月の始めに奇妙なしにかたをされました。」(45~46)

 なんだかとってもつらい気持ちになりました。
が、少し冷静になってみれば、1950年代初頭というのはこのような時代だったのでしょう。
鉄腕アトムが生まれたころです。

 ホントに、なんとも言えない気持ちです。
 私にしても、アトム、ウラン、コバルトという三兄弟の名前になんとなく胸をときめかせた「ららら科学の子」だったのですから。
posted by CKP at 17:16| Comment(0) | 雑想・戯言 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2019年06月26日

ガッテンかどわきと呼んどくれ――ご無沙汰でした

 ブログを長いこと休んでいると、深い感慨とか鋭い洞察を披歴せねば、と思ってしまう。
そう思うってしまうと、そんなものはないから、ますます書きにくくなる。
というわけで、だいぶお休みしてしまいました。
が、誰も深い感慨だの鋭い洞察などをわたくしに期待していないということに気づきましたので、つまんないことですが、書きます。

 あれは2か月前の4月のことじゃった。
新三回生を迎えたゼミの2回目か3回目。
あるワードについて縷々るんるんるん説明して、4回生のアツシ君に
「ガッテンしていただけましたでしょうか?」
と尋ねたのであります。
するとアツシ君は、
「ガッテンは押せません」
と答えたのです。
カドワキのゼミに一年まじめに出席していると、
「ガッテンしていただけたでしょうか?」
に対して
「ガッテンは押せません」
と答えられるようになるのです。

なんという教育効果でありましょうか。

 したがって、新三回生が手を上げて質問するのでした。
「『ガッテンを押せない』とはどういう意味でしょうか?」

 そうか、先生が悪かった。君ら若者はテレビみないもんね。
NHKの「ためしてガッテン」という番組ではね、・・・・

 というわけで、小生のことを「ガッテンかどわき」と呼んでおくれ。
posted by CKP at 16:58| Comment(0) | 雑想・戯言 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2019年04月10日

ボチボチ頑張ります――最後の一年

 わたくしカドワキの大谷大学教員生活の最後の一年が始まりました。

 もはやレームダックではありますが、そこを「死んだ気で頑張る」と、我ながらうまいこと言うなぁ、死んだつもりで最後の一年の授業に臨まねばとは思っておったのです。

 しかし、60も半ばとなると、寒くなると血液の循環が悪くなるのか、「救心」を手放すことができず、四月に入ってからの寒暖の差の激しい気候では、耳がぼーっとして、ついでにアタマもぼーっとして、ここで無理をするとホントに死んでしまいそう。
なので、あんまり頑張らずテキトーに頑張って、ボチボチと最後の一年を過ごそうと思います。

 ブログもボチボチです、たぶん。
posted by CKP at 17:06| Comment(0) | 雑想・戯言 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする