2009年07月09日

それは「しょーもない疑問」から始まった――津村記久子拝聴記

 昨日、津村記久子さんの「講演会」改め「全部トークセッション」を拝聴した。
最初の方だけでも聴こうと後ろに座ったのだが、面白くて結局最後まで拝聴した。

 先ごろ大阪のある高校で「講演」をなさったらしいのだが、帰りの電車のホームで高校生が思いっきり
「しょーもない講演」
と言っているのを聞いて、ペラペラとしゃべって講演するのはやめようと決意されたそうである。

 確かに発声の仕方などは講演向きではない。
腹筋を使わず口だけでぺてぺたしゃべる大阪のオネエチャンである。
K越先生や学生たちが的確なツッコミを入れ津村さんが見事なボケをかますというトークセッションが展開された。

 小説を書きはじめた時の話やとか登場人物の名前の付け方の話など、興味深い話がいろいろ聴けたのだが、印象に残ったのは、どのようにして小説のプロットを作り上げるのか、という話。

「しょーもない疑問から始まります」
ということなのだそうだ。

 たとえば芥川賞受賞作品は、
「なんでピースボートのポスターと神経症についての啓発ポスターがいつも並んでいるん?」
という「しょーもない疑問」から始まったそうだ。
そこから、およそ一年かけて話を練り上げる。
そして100枚をおよそ一か月で書きあげるのそうだ。

 私としては、「しょーもない疑問」から始まるといのは、私と同じだなといたく共感した訳である。
だから、日々の「しょーもない疑問」を大切にしようと決意したのでした。
「始まり」は同じなのに、どうしてこう違うんでしょうね。

 そして、最後に学生さんから「若い私たちにメーッセージを」という要請にこたえて、次のような不思議な論理を展開された。

「忍耐が大事です。忍耐すれば楽になります」。

 これは若乃花(初代)の「人間、辛抱が大事」というのとは違う。
また、アントニオ猪木の「元気があれば何でもできる」というのとも違う。
確かに、全然違う。
つまり、辛抱すれば、あるいは元気があれば、目的が達成できる、ということではないようなのだ。
つまり、原因としての「忍耐」、結果のとして「楽になる」という因果論的展開ではないのだ。

「世の中は、いやなことつらいことばっかりです。働くことはしんどいです」
ということを盛んに強調されていた。
それを「忍耐」すれば「楽になる」という。
つまり「忍耐」即「楽になる」という般若的論理なのである。

 どうも、「働くことで自己実現なんてノーテンキなことを考えるな」、「働くことは忍耐することだ」というエラク現実的な諦めの境地らしいのである。
そうすれば、「誰も私を理解しない」「職場が楽しくない」といういらん悩みを悩まなくてすむ=楽になる、ということらしい。

 なんか、とことん「大阪の娘やなあ」と思いました。
これも、私の「死ぬ気になれば何でも買える!」というのと同じだなあ、といたく共感したのでした。

 しかし、どこが違ううんでしょうね。
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2009年07月08日

学校のステークホルダー?――「関係者」でいいんでないの?

 ある会議で「大学のスーテクホルダーへの情報開示」という言葉が出た。
  「大学のステークホルダー?いつから大学は株式会社になったんだ?」とカッと頭に血が上ったのは私です。
 が、日々成長を続ける大器晩成の私は、成長の跡も著しくその場は受け流し、会議の後にある方に「ステークホルダーって言葉、大学関係でよく使われるの?」とお聞きしたのである。
 そしたら、「ステークホルダーへの情報開示」という言葉は、いろんな学校で、最近では小学校でも使われる、ということであった。
 
 いいんだろうか?学校で「ステークホルダー」なんて言葉を使って・・・

 この「ステークホルダー」という言葉を、私のような経済オンチが初めて聞いたのは、確かホリエモンのニッポン放送買収の時だったと思う。
「大株主」という意味合いで使われていたと思う。

 ちなみに、英語の辞書を引くとこうある。

「stake-holder
名詞:
1. 賭け金の保管人
2. 〔法律〕係争物保管人[弁護士]
3. (事業の)出資者、大株主、利害関係者。
形容詞:利害関係にかかわる(方針)の。」

 どうも、「お金」あるいは「利害」に関わる言葉のようである。

 このような言葉を教育に持ち込んで、はたしていいのだろうか?
確かに「出資者」つまり授業料を払った人たちに財政の情報開示は必要であろう。
しかし、何よりの「情報開示」は授業であり研究成果の公開である。
そのような教育・研究を「利害」つまり損得で語っていいのだろうか?
得になる、つまり金になることしか勉強しないということになってしまう。
そのような場では「学恩」などという言葉は死語となってしまうであろう。
教育は投資なのか?などと疑念を抱かせる言葉がなぜ広がっているのだろう?
そのうち、授業料に消費税を付け、学校からも税金を取ろうというコンセンサスを作ろうとしているのか?
「関係者」でいいんでないの?
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2009年07月07日

サイン会――津村記久子さんの場合、私の場合

 明日、午後4時10分から大谷大学講堂で津村記久子さんの講演会とトーク・セッションが開催されます。

 それに先立ち、午後2時45分から大谷大学北門横(地下鉄北大路駅6番出口すぐ左)で津村さんのサイン会が開催されるそうです。

 先着50名だそうです。

 なお、大谷大学の門脇研究室では、先着50名などとセコイことを言わず、随時、『揺れ動く死と生』か『フロイト全集第12巻トーテムとタブー』をどこでもいいから買って持参された方にサインいたします。
 「握手」もして差し上げます。

 手ぐすね引いて待ってます。
 どうか、遠慮なさらずに。
 ぜひ!
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2009年07月06日

『へいせい徒然草』――虫愛づる法師

 京の洛北なる大谷大学に教授せる狐狸庵の法師、この夏前の煩いごと、冬に日延べとなり、いたく喜びぬ。

それを見し西賀茂に仮住まいする越前の法師、曰く、
「あな、愚かなことかな。
来たる冬の煩いごと忘れ、この夏を無為に過ごさんとするとは。
汝は、「アリとキリギリス」てふ西洋の寓話を知らずや。
無為に夏を過ごしたキリギリスが、夏に精進したアリに助けを請う物語なり。
我は、アリの如く、この夏を過ごさん」。

これを聞きたる狐狸庵の法師、いたく冷たく言い放ちたり、
「アリにせよ、キリギリスにせよ、いずれにしても、汝の脳は虫の脳なりや。
悲しきことかな」。


この言葉に返す言葉を知らぬ越前の法師、
「あな口惜し、あな口惜し」
と地団駄踏みにけり。

これを傍らにて聞きし、カサヌマなる廷吏、
「かくなる法師どもで、この大学は立ち行くべきや」
と頭を抱え、詠める歌一首、

「秋風や すすきたなびく大谷は
    虫の声のみ みちみちにけり」
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2009年07月02日

安藤泰至「先生」のこと――第28回「大拙忌」公開講演会

 今年で28回を数える大谷大学宗教学会主催の「大拙忌」記念公開講演会は、以下のように開催される。

講師:鳥取大学医学部 安藤泰至先生
講題:「私たちは生と死を取り戻せるのか?――医療化社会における死生学――」
日時;2009年7月9日(木)
   午後4時10分より6時ごろまで
場所:大谷大学響流館(図書館棟)3階メディアホール

 ということですので、多くのみなさま方ご来聴をお待ちしています。

 というわけで鳥取大学の医学部の安藤先生をお招きするのであるが、先生はお医者さんではない。京都大学の哲学科宗教学専攻で研鑽をつまれた方である。
それが何故に医学部の保健学科(看護学専攻)の先生をなさるようになったのか。

 安藤先生は、年齢では私の7歳下であるが(1961年生まれ)、学年的には、私が途中あちこち寄り道をしていたので、確か2学年だけ下のはずである。
いちおう後輩であるので、偉そうに「安藤君」と読んでもバチは当たらないのだが、私にとっては「先生」なのである。

 安藤君は、大学院の頃、フロイトの研究をしていた。私はその頃はフロイトだのユングだのの「無意識」ってよく分からないから、なんだか不思議な後輩だなあと思っていた。
そうこうするうちに彼はさっさと米子高専に就職していった。
確か米子高専時代に書いた論文だったと思うが、フロイトの「喪の作業」を扱った論文が、ある人々の間で熱心に読まれているという噂を聞いて、直接、安藤君からその論文を送ってもらったことがある。

 それまでさほど関心のなかったフロイトに関する論文だから、一度読んだのではよく分からない。
何度も赤線を引っ張りながら読んだ。
そして私自身もフロイトの「喪の作業」に関心をもつようになり、今年のゼミで小此木敬吾『対象喪失』を扱ったり、『同朋新聞』で葬儀を「喪の作業」として語ったりしているのである。

 つまり、私の現在の問題関心は、安藤君ならぬ安藤「先生」に導かれたものなのである。

 しかし、なぜあの論文を何度も何度も分からないながらも読んだのだろう。
その論文には、何度も読み返させる力があった。
おそらく先生のブログと思われる「空庵(からあん)」(http://ameblo.jp/kara-an/)を見ればその秘密が解けるかもしれない。

 とにかくそのような人間の死生に関する向き合い方を大変説得的に述べることにより、現在の職場に落ち着かれたものと思われる。
 近々(年内?)新潮新書から『いのちはいかに語られてきたか――私版・生命倫理小史――』を刊行される予定とお聞きしている。

 大谷大学の宗教学コースを「宗教学・死生学コース」に改名し再出発した年の大拙忌にもっともふさわしい方をお招きできたと喜んでいる。
多くの方々のご来場をお待ちしています。

オマケ
 それならば、今回の「トーテムとタブー」はカドワキなんかより安藤先生が訳すべきではなかったか、と思う方がおられるであろう。
私もそう思う。
だから、私に編集委員から声がかかったとき、安藤先生を推薦したのである。
しかし、編集委員つまり全集12巻の責任編集者は首を縦に振らない。
「カドワキさんでいい」(「あなたしかいない」とは言わなかったな、あの責任編集者は)。

 なんでだろうと思っていたが、じっさい翻訳をやってよく分かった。
責任編集者と翻訳者の間にそれなりの人間関係がないと、あのような全集として統一が必要な翻訳というのはできないんですね。
既に決定された訳語しか使えない。文体もそれなりに統一しなければならない。無生物主語の訳し方が違ってくる・・・
訳稿が真赤になって帰ってくる。
私と責任編集の須藤先生とは、それぞれの職場からの帰り道でよく一緒になることがあって、直接話ができたからよかったが、あれがメールのやり取りだけだと、ひょっとしたら人間関係に破綻をきたしていたかもしれない。
夫婦でさえ(だから)、共同で翻訳すると離婚の危機に直面することがあるらしい。
そうゆう目で「監訳」とか「共同訳」などを見ると、なかなか味わい深いものがありますです、ハイ。
posted by CKP at 13:52| Comment(0) | TrackBack(0) | 雑想・戯言 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年07月01日

米朝のソクラテス――感情の方向

 アメリカ対北朝鮮の対立のあいだにソクラテス的人物が入って、感情的もつれを整理しながら平和裏に問題を解決すべき――という話ではない。

 まるで米朝の落語のような語り口のソクラテスが登場した、という話である。
プラトン著・北口裕康訳『ソクラテスの弁明・関西弁訳』(PARCO出版)がそれである。

「アテナイ人のみなさん、わたしを訴えてる連中の話を、みなさんがどういうふうに受け取りはったんかわかれしまへんが、わたしは、上手いこと言うなぁ……と我を忘れて聞いとりました。」
と始まる。

 米朝風の上品な船場言葉で訳された「ソクラテスの弁明」そして「クリトン」は、ともかくも読みやすい。
学術的な標準語の翻訳だと、なんだか大理石の彫像のなでているような冷たい感じで、なかなか感情移入して読むことができない。
まるで、スタートレックのスッポクと会話している感じなのである。
しかし、関西弁訳になると、あら不思議。
すらすらと読めてしまうのである。

 それぞれの文章の感情の方向が、関西に長く生活している私のような人間にはすっと入ってくる。だから、ソクラテスが、そこいらのおっさんのように身近に感じられて大変読みやすい。
論理というのは感情も含んでいるということであろう。

 だから、関東在住の方々に読みやすいかどうかは分からない。また、別の感情を読み込むというのは難しい。このあたりが、翻訳の難しいところ。

 訳された方は、別にギリシア哲学の専門の方ではなく、大阪は船場で一八八という会社を経営する身長188cmの方である。
しかし、折にふれて何度も何度もプラトンを読み、日本語訳や英訳を参考にして「関西弁訳」を作られたらしい。
朴先生の『饗宴/パイドン』も参考文献に挙がっている。
内容は、ギリシアの専門でない私などが見ると、確かものと思う(専門の方がどういわはるかは、わかりませんが・・・)。

 一度読んでみても損はなく、おつりがくると思います。

 『ハムレット』なんかも、新劇の赤毛モノ風の訳でなく、こんな船場言葉で訳すとどうなるのだろう。
「このままでええのんか、あかんのか、そこが悩みの思案橋」なんてね。
なんか、しっとりとした悲劇になるような気がしますのやけど・・・・
posted by CKP at 16:40| Comment(0) | TrackBack(0) | 雑想・戯言 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年06月30日

「新聞紙(しんぶんがみ)」――昭和語広辞苑(その5)

 『同朋新聞』という東本願寺のご門徒向けの新聞の7月号に、2面と3面の見開きいっぱいに私のインタビュー記事が載っている。
内容は葬儀に関するもので、ブログにときどき書いているものである。
が、編集部の方は大変面白がって下さり、今月号と来月号の二回にわたる記事となった。
大学では響流館の教育研究支援課の窓口に置いてあるので、興味ある方はお読みください。
私の写真入りで読むことができます。

 がしかし、なんで新聞などに出る私の顔というのは、あんな間の抜けた顔なのであろうか?
常日頃の理知的で深い憂いを眉間にたたえた私の姿をなぜ写真は写さないのだろう、と思っていたら社会学のS枝先生が「よく撮れているね」とおっしゃっておられた。
・・・・・・・
・・・・・・・・・

 それはともかく、新聞に自分の発言が載るというのはどこか切ないものがある。
というのは、新聞というのは基本的に「読み捨て」られるものであるからである。
一旦読まれれば、新聞というのは「インクで汚れた紙」となる。
今日でも、濡れたゴミなどを新聞紙に包んで捨てる、ということはある。
そのような運命を免れた新聞紙は、ちり紙交換に出されるのである。

 しかし、新聞紙(しんぶんし)という言い方もこの頃あまりしないが、新聞紙を「しんぶんがみ」と発音していたころは、新聞紙は読まれたあと、「汚してもよい紙」として大活躍をしていた。

 詳しい描写は避けるが、ぼっとん便所の頃の「検便」には新聞紙が大活躍をしていた。
雨漏りの時はバケツの下に新聞紙をしいていた。
毛筆習字なども新聞紙で練習していた。
新聞紙で洟をかむと、鼻が真っ黒になった。
近所の養鶏農家で玉子を買うと10個を器用に新聞紙で包んでくれた。
弁当の包み紙はいつも新聞紙であった。
ゴムのパッキングのゆるんだ「おかず入れ」からこぼれた汁跡を避けながら、そこに印刷されてある活字を追いつつ弁当を食べたものである。

 新聞購読とは情報と紙の購入のことであった。

 時代を遡れば、紙はますます貴重なものとなる。

 私の写真の載っている新聞も、読まれ捨てられる時は、ただ捨てられるのでなく、「インクで汚れた紙」の正しい用途に使われれば本望である。
それを「切ない」などと言っていたらバチが当たるというようなものである。

 ただし、読まずに捨てるということのないよーに。
posted by CKP at 13:49| Comment(0) | TrackBack(0) | 雑想・戯言 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年06月29日

平穏な日々(『同朋』1996年6月号)

 やむをえぬ事情で、四月に滋賀県から千葉県柏市に引っ越しました。と言うと、大谷大学をやめて関東の大学に勤めることになったと早合点して、君の後任に僕をと言い出す厚かましい輩が多いのには驚いた。そんな連中には、授業時間が週の真ん中に固まっているので、そのときだけ京都に出てくるのさ、お生憎さまと言ってやることにしている。
 東京・京都間の往復が、いくら新幹線を用いるにせよ、大変ではないか、疲れるのではないかと心配してくれる心やさしい人々もいる。確かに疲れるとは思うが、多くても一週間に一度のことであり、そのうちそういった生活のリズムにも慣れるはずである。今回の転居にあたって問題となったのは、もっと別のことである。
 第一は、子供たちの学校の問題。上の娘がこの四月から高校三年生、下の娘が高校一年生。次女に関しては、私立の高校への推薦入学で早目に見通しが立った。それに比べて長女の場合は、三月中旬まで四月以降の身の振り方が決まらず往生した。高校三年への転入ということになるのだが、そもそも転入生を受け入れてくれる高校がなくては話にならない。受入れ可能な高校のリストが発表されたのが三月初旬、試験が三月一五日。このときばかりは、なんとか合格してくれと祈るような気持ちで結果を知らせる電話を待ったものである。
 第二は、犬をどうやって運ぶかという問題。体重一三キロまでの犬であれば手荷物扱いで鉄道に乗せられるが、我が家の犬は一五キロ。二キロぐらい分りはすまい、ごまかしてしまえ、ごまかしてしまえ。ということで、犬を入れて運ぶ容器を思案する。これが最大の難関。手頃な段ボール箱に押込もうとしても、入らない。餌でつっても、食べ終わると箱から飛び出してしまう。日頃ちゃんと躾をしておけばよかったと悔やまれた。
 また、ペットショップで犬の運搬容器を発見したものの、あんな大きな容器を手で提げて駅の階段を上り下りすることなど到底不可能である。その問題を解決したとしても、新幹線の中でどこに犬を置いたらよいのだろう。他の人の迷惑にならないように、グリーン個室にしなくてはいけないのではないか。さらに、東京駅から柏駅まで、あの混雑した中をどうやって運ぶというのか。
 結局、鉄道を利用することは諦め、知人に頼んで自動車で犬を運ぶことにした。引っ越しの朝、新幹線を利用する子供たちを送り出してから、犬と犬が一番懐いている妻と私、一匹と二人は知人の運転してくれる車で柏へと出発した。そして、およそ八時間後われわれは無事新居に到着した。かくして今回の引っ越し騒動も一件落着かと思えたが、それは甘い判断であった。いざ生活するとなると問題が続出した。
 台所と風呂、便所、それに四畳半と六畳の部屋。半年ほどの仮の住居ということで家財の大半は元の家に置いてきたとはいえ、手狭であることは否めない。たとえば、風呂に入るとき台所で脱衣しなくてはならない。それから、部屋についているコンセントの数が足りない。台所に冷蔵庫と電子レンジを置くと、電気炊飯器や電気ポットのための電源が確保できない。また、水漏れのする蛇口を直そうと思っても、そのための工具がないし、パッキングのゴムがない。
 子供の学校のことにしろ、犬のことにしろ、コンセントや水道の蛇口のことにしろ、平穏な日々というものは、小さな事柄をも含めて、なんと多くのものによって支えられていることだろう。それらが失われたとき、初めてその重要さにわれわれは気づくのである。
posted by ガラタたぬき at 12:29| Comment(0) | TrackBack(0) | 「不可思議な日常」 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年06月28日

『トーテムとタブー』出ちゃいました――「愛」より先に

 『フロイト全集』第12巻「トーテムとタブー」が遂に発刊されました。
この巻の責任編集の須藤訓任先生や編集のN澤さんなど多くの方々のお世話になり、また先学の邦訳や英語・フランス語訳などが参照でき、それなりに読みやすい翻訳になったと思います。

 大きな本屋には26日から並んでいるようです。

 池上先生の論文が掲載されている『岩波講座哲学第12巻 性/愛の哲学』は発刊が7月末に延期になったようです。
ですので、この時点ではマズ『トーテムとタブー』を見つけたら即購入し、それから少し節約につとめ、7月末に『講座哲学12巻』を購入するようにいたしませう。

 お金は計画的に使いませう。
posted by CKP at 20:54| Comment(0) | TrackBack(0) | 雑想・戯言 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年06月26日

学恩浴――『佐竹昭広集』第一巻を開いて

 『佐竹昭広集』〔岩波書店、全五巻)の第一巻が届いた。
本屋から研究室までの距離ももどかしく、目次を眺める。
先生のご著作はすべてそろえ赤線を引きながら拝読したつもりではあるが、はじめて目にする論文やエッセーが見える。
まだ私の知らない先生がおられる、とうれしくなる・・・

 と言っても佐竹昭広先生は哲学の人ではない。
第一巻は「萬葉集訓詁」と題せられているように国文学の人である。
昨年に死去されたのだが、うかつにも全く知らなかった。
たまたま手に取った『月刊百科』という平凡社のPR誌の谷川恵一君の美しい追悼文でその死を知った。
不思議なことに、佐竹先生の凄さを教えてもらい、佐竹先生の萬葉集の講義に出ることができたのもこの谷川君のおかげであった。

 4年も遠回りして大学院博士課程の学生となったものの、将来の研究職の見通しは全く立たない、私はそんな学生であった。
そこで教員免許を取ろうと思い、国語の教免を目指した。
しかし、どの講義を聴講したらいいのか分らない。で、国文学の友人である谷川君に相談したのであった。
彼は「佐竹先生はすごい」を繰り返すだけで、どう凄いのかサッパリわからなかったが、谷川が言うなら間違いなかろう、と講義に出た。

 というのは、谷川君には以前「ライ・クーダーは凄い!コンサート行こうなぁ」と一晩中同じ言葉を繰り返され、ライ・クーダーのコンサートに行ったら、ホントに凄かったということがあったからである。
 
 谷川恵一はウソつかない。

 それで先生の講義に出た。
いきなり川端康成の『たまゆら』の朗読からはじまった。
そして川端が「たまゆら」と訓んでいる「玉響」を別の訓み方で訓んでみましょう、と訓詁を始められたのである。
その展開に、腰を浮かすほど驚いた。
このように古典は訓むものなのか(「玉響」については第2巻に収録)。

 自分もこんな学問をやりたい、と先生の爪の垢を煎じるつもりで先生の著作を分からないながらも拝読し、自分の研究になんとか応用できないかと、苦心してきたつもりである。

 しかし、この第一巻の大谷雅夫氏の解説を拝読すると、佐竹昭広という人はとんでもない早熟の天才であったことが否が応でも明らかになって、いくら先生の爪の垢を頂いても私なんぞは駄目だなあ、と絶望的な気分になる。

 が、せめてこういう先生の学恩を他の人に伝えることだけでもさせていただくのが、講義の片隅に座らせていただいた者の義務だとも思う。
私にできる御恩報謝である。

 今回初めて拝読した文章に『宮崎市定全集』の月報の文章がある。そこに宮崎先生の「学恩」について次のような一節があった。

「第四巻の月報21に近藤光男氏が「学恩」という語について書いて居られた。私もガクオンという言葉を使って電報を打った時、後から「大きな辞書に二つ当たってみましたが、そういう熟語は載って居りません。電文は楽音の意味でしょうか」と照会を受けて苦笑したことがある。「載せてない字引が悪いのです」と答えて置いたが、それほどに使われていない言葉なのだろうか。現代という時代は、もはや「学恩」を与える師も、「学恩」に浴する弟子・後進たちも不要ということなのか。」(179ページ)

 薄ぐらい講義室の片隅で先生の「学恩」に浴したはずであるが、いかんせん浅学非才でおまけに分野が違うのでそれをうまく生かせずに今にいたっていることを恥じるばかりであるが、こういう凄い先生がおられたことを若い人たちに伝えるのが、私のせめてもの先生への弔いの行為である。

 が、この『佐竹昭広集』、それぞれは8000円以上するので、なかなか若い人には勧められない。まずは岩波現代文庫の『萬葉集抜書』や『古語雑談』あたりから読まれることをお勧めします。
 
 その昔、私は谷川君に「すごい、すごい」と勧められたライ・クーダーと佐竹先生を一緒に論じて「訓詁の楽」というエッセーをある美術雑誌に書いた。
それを佐竹先生はたいそう喜んでくださった、ということを谷川君から聞いたことがある。
私の人生、数少ない自慢の一つである。

 谷川恵一君はこの『佐竹昭広集』の編者の一人である。
posted by CKP at 14:20| Comment(0) | TrackBack(0) | 雑想・戯言 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年06月24日

いよいよ明日開催!

 西洋哲学倫理学会春季公開講演会が、明日6月25日(木)午後4時30分より、本学メディアホール(響流館3F)にて開催されます。
 
 講師は、品川哲彦氏(関西大学文学部教授)

 講題は、アウシュヴィッツのあとで、神を考えうるか
     ---哲学者ハンス・ヨナスの思索

です。

 「次世紀を目前にして、今世紀の哲学を皆さんに語りたい」と、死の前年に行なわれた講演『哲学、世紀末における回顧と展望』(尾形敬次訳、東信堂)冒頭で述べていたハンス・ヨナス(1903-1993)。
  
 奮ってご参加ください!
posted by pada at 16:03| Comment(0) | TrackBack(0) | お知らせ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年06月23日

セブンイレブンの根本問題――闇を取り戻せ

 セブンイレブンに公正取引委員会から弁当の「見切り価格」について勧告が下った。
それはそうとして、「何でセブンイレブンなんだ?」というツッコミはどのニュースでもやっていなかった。

 「セブンイレブンいい気分」というCMはいつ頃流れたのだろうか?
午前7時から午後11時まで開いていて便利で「いい気分」という意味だったはずだ。
それが四六時中開いている。
「改名すべし」あるいは「午前7時から午後11時の営業時間に戻すべし」という勧告はないのか?

 コンビニの発生は日本では1970年代だが、それが24時間年中無休営業になったのはいつ頃からだろう?
都会だけでなく、郊外からそして田舎から闇が消えていく。
これでは人間が不安定になってしまうのは当然だろう。

 どこかで闇を抱えることで、人間は人間である。

 私がセブンイレブンという名前を知ったは、ブルース・スプリングスティーンの「闇に吠える街(Darkness on the Edge of Town)」というアルバムの「レーシング・イン・ザ・ストリート」という曲だった。
1978年のことである。

すごいクルマを手に入れた。
そいつがセブンイレブンの駐車場に止めてある。
今夜はレースに絶好の夏の夜。
闇の中へ、ホット・ロッド・エンジェルとして車を飛ばす。
三年前、彼女と一緒になった。
でも、今は彼女はとしをとり、生活は苦しい。
彼女は泣いた。
生まれてきたのを呪うように闇を見つめる
今夜、その罪を洗い流しに海に行こう。
今夜はレースに絶好の夏の夜。

という夜の闇の底から流れてくるような静かな曲だった。

 その頃はまだ闇があった。
いろんなものを飲み込む闇があった。

 闇は人間にとってコンビニエントなものではない。
が、なくてはならない時空だと思うのである。
posted by CKP at 12:46| Comment(1) | TrackBack(0) | 雑想・戯言 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年06月22日

17世紀の平等観――ホッブズとデカルト

 先々週の大学院のゼミでK君のホッブズに関する発表を聞きながら、その精神的な平等を展開する文章で「あれ?」と思った。
誰かの文章と似ていると思ったのである。
まずは、そのホッブズの文章。
『リヴァイアサン』の第13章「人間の自然状態、その至福と悲惨について」(ここでの訳は中公バックス版を使用)。

「たとえば深慮にしても、それは経験にほかならず、等しい時間ある仕事に等しく専念したことについてはすべての人に等しく与えられる。この平等性を信じがたいものとするのは、おそらくは人が自己の知恵についていだく自惚れである。大部分の人間は、自分を自分以外のほんの少数の、名声があるとか自分と意見が一致するとかによって是認している人々を除く他の一般大衆に比べて、自分ははるかに知恵をいだいていると考えている。
 つまり多くの人が自分より知力に富み、雄弁で知識があることを認めながらも、しかもなお、自分と同じ程度に賢明な人間がおおぜいいると信じようとしないのが人間の本性である。自分の知力は手近に、しかし他人のそれは遠くに見る。しかし、これは人間がその点において不平等であるよりは平等であることをむしろ証明している。すべての人がその分け前に満足しているということほど、平等な配分を示す大きなしるしはふつうはない。」

 この『リヴァイアサン』の発表は1651年ではあるが、そのもとになる「市民論」は1642年。
ホッブズがメルセンヌを介してデカルトに「第三論駁」を書いてデカルトに軽くあしらわれたのは1641年刊行の『省察』。
そのデカルトの『方法序説』は1637年で第一部は次のように始まる(これも中公バックス版)。

「良識はこの世でこの世で最も公平に配分されているものである。というのは、だれもかれもそれを十分に与えられていると思っていて、他のすべてのことでは満足させることのはなはだむずかしい人々さえも、良識については、自分がもっている以上を望まぬのが常だからである。そしてこの点において、まさかすべての人が誤っているとは思われない。むしろそれは次のことを証拠だてているのである。すなわち、よく判断し、真なるものを偽なるものから分かつところの能力、これが本来良識または理性と名づけられるものだが、これはすべての人において相等しいこと。・・・・・」

ね?
この「平等」の導出の仕方、似てるでしょ?
哲学的立場は、ホッブズの唯物論的一元論とデカルトの心身二元論で正反対ではあるけれど、精神的能力の「平等」を導き出す論理はよく似ている。

 両者とも一見すると、量的な平等を言っているようであるが、そうではなく各人がそれぞれ「自分は正しい」と主張することにおいて平等である、と「各人の自己肯定」を媒介にして「平等」を導き出す。
つまり、A≠BをAもBも主張することにおいてA=Bが成り立つというすこしひねった論理なのである。

 そこから、ホッブズは、人間の「自然状態」を導き出すし、デカルトは「良識」の正しい使い方つまり「方法」の導出に向かう。

 その違いはそれぞれの関心の所在による差異であろうけれども、両者ともこの「平等」の根拠をいきなり神に求めなかったことが、17世紀であるなあ、と思ったので、書いてみました。

 しかし、デカルトやホッブズに精神的能力は平等です、と言われても、あんな頭のいい人たちと一緒とはとても思えない・・・などといえば、「ほらね、その意見を君は正しいと思っているだろ?その点において平等なんだよ」と切り返されるのはあるが・・・・
 そうはいうけれどもはやり・・・・


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2009年06月19日

品川哲彦先生講演会(西哲・倫理学会講演会)のご案内――と安藤泰至先生講演会(大拙忌)の予告

 来たる6月25日(木曜日)に開催される大谷大学西哲・倫理学会講演会のご案内です。

 今年は関西大学の品川哲彦先生をお迎えします。
講演題目は
「アウシュヴィッツのあとで、神を考えうるか――哲学者ハンス・ヨナスの思索」
 
ユダヤ人哲学者ハンス・ヨナスの思索を具体的な場面で問いかける御講演になると期待されます。
 時間は午後4時30分から6時まで
 場所は大谷大学メディアホール(響流館=図書館棟3階)

 多くの皆様のご参集をお持ちしています。

 また、そのちょうど2週間あとの7月9日(木曜日)には宗教学会主催の大拙忌記念講演会が開催されます。
今年は鳥取大学医学部の安藤泰至先生に「私たちは生と死を取り戻せるのか?――医療化社会における死生学」というお話をしていただきます。
時間は午後4時10分より、同じ場所。
詳細はまた来月にお知らせします。
posted by CKP at 17:30| Comment(0) | TrackBack(0) | お知らせ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

「愛」はもう既に――岩波講座『哲学』第12巻

 もう既に『愛』は、やってきたのであった。

 というのは、ほかでもない池上哲司先生が論文を執筆しておられる『岩波講座 哲学』の「第12巻 性/愛の哲学」が今月16日に発売になっておったのでありました(予定通りならば――まだ私の手元にはないが)。
予約出版ですが、大きな本屋ならば店頭に並びます。
見つけたら、ラッキーと即座に購入いたしましょう。
あの池上先生が、ひょっとしたら「性」について書いておられるかもしれません。
おそらく「愛」の方だとは思いますが・・・。

 ただし、3360円とちょっとお値段がはります。
しかし、26日発売のフロイト全集第12巻「トーテムとタブー」の4620円に比べればお安いものです。

 もちろん、余裕のある方は、この私が翻訳した「トーテムとタブー」の方も死んだ気になって購入いただければ嬉しいです。

死ぬ気になれば何でも買える!

これも予約出版ですから、なかなか入手しにくいので、店頭で見つけたら即座に購入しましょう。
宝くじが当たってから、というのでは遅いと思います。
posted by CKP at 13:39| Comment(0) | TrackBack(0) | 雑想・戯言 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年06月18日

恐怖の「も」――『アンティゴネー』を読みながら

 ソフォクレスの『アンティゴネー』を一回生のゼミで学生諸君と読んでいる。
 ハイ、●●君、アンティゴネー役、■■さん、イスメーネーの台詞を読んでください――という具合である。

 オイディプスの娘アンティゴネーの悲劇である。
 彼女の二人の兄のうち一人は国を守って、もう一人は反逆して互いに戦い、両方とも戦死してしまったところから始まる。
 支配者クレオン王は、反逆者の埋葬は許さない。
しかし、アンティゴネーは兄弟を埋葬することは「いつでも、いつまでも、生きているもので、いつできたのか知っている人さえない」掟であるとして、国の法律を犯してまでも実行しようとする。
そして、国法を犯した罪で死んでゆくという悲劇である。

 今日は、その最初の場面の演出ノートを各人に作成してもらった。
その作成に先立ち、もう一度、最初の場面の読み合わせをする。
兄の埋葬に突き進もうとするアンティゴネーと、国法に従おうとする妹イスメーネーの対話である。

 あくまでも国法に従い兄の埋葬には参加しようとしない妹にアンティゴネーは言う。
「そんなこというと、私からも憎まれるわよ、その上に、死んだ人にも、当然憎く思われようし。・・・・」(岩波文庫版、13ページ)

 何度も読み合わせをした箇所であったが、「私からも憎まれる」の「も」という言葉に引っ掛かった。
何で「も」なんだろう?
今まで読み過ごしていた。

 しかし、ふだんの会話においては、「も」は絶大の威力を発揮する。

「わたしのこと、好き?」
「うん、君のことも好きだよ」
などと不用意に「も」を使うと、
「も?『きみのことも』って、どういう意味よ!」
と血の雨が降るのは衆人の知るところである(私は知らないけど)。

 ところが、古典などを読むとき、そのコンテクストをうまく把握することなくテクストを読んでいると、ともすればこういう「も」は見逃しがちである。
少なくとも私は今まで気がつかずにいた。

 苦し紛れに、おそらくその少し前のイスメーネーの台詞にヒントがあるのでないか、ということを話してみた。

「どうしましょう。よく考えて、お姉さま、父さまは人から嫌われ、不名誉のままおなくなりでした。・・・・・今となってはもう私たち二人だけが取り残されて、それがこんどはどんなみじめな終わりを遂げるか、考えてみて、もし掟にも強いてそむいて、王さまのお布令を破り、王権を蔑しましたら」(10〜11ページ)

 彼女たちは、オイディプスの近親相姦、つまりオイディプスとその母との間に生まれた子どもなのである。
そして、兄二人は死に、二人の姉妹「だけ」が、近親相姦の子どもとして忌み嫌われながら残っている。
そのような文脈で「私からも憎まれる」という発言があるのではないか。

 そこから、この二人が王家の片隅でひっそりと身を寄せ合いながら生きている様子がうかがえる。
しかし、それゆえにこそ、兄の葬送をめぐっての二人の対立は、よけい悲劇的なことになってしまう――ということではないか。

 と、こんな読みを呈示したのであるが、これとて正解ではない。古典というのはいろんな読みを促すものであるから、学生諸君がどう読んでどんな演出をするのか、楽しみである。

 ところでしかし、この悲劇は、人間の行動には「も」はないというところに成り立っているように解釈できるところもまた興味深い。

 つまり、アンティゴネーは反逆者の兄の埋葬へと一直線に突っ走るし、国王クレオンは、あくまでも反逆者の埋葬は禁ずる。
「国葬はしないが、勝手に埋葬するのは関知しない」と、あちらもこちらも立てるということにはならない。
それぞれがそれぞれの課題を一直線に遂行する。
アンティゴネーの自由は二者択一の自由ではなく、自らの欲望をその果てまで生き抜く自由である。
それは美しい行為であるが、切ない行為でもある。

 ヘーゲルは、この『アンティゴネー』を高く評価した人だが、その『精神現象学』の「知覚」の章で、知覚の対象が「一でも多でもある」という「もauch」にこだわるのは、おそらくアンティゴネーの分析がその根っこにあるからだろう。
「一か多か」のどちらか一つに固執する時、その認識は「没落するzugrunde gehen」という妙な表現は、そのあたりから出ているにちがいない。

 ヘーゲルからおよそ一世紀のち、やはりアンティゴネーを高く評価したヴェイユは、二元論とその二元の間の「も」の問題に苦しんでいたように「も」見える。
もしヴェイユが「To be or not to be」と問いつつ、その問いを超えていったハムレットを読んでいたら、どのように評価していたのかが、興味あるところである。


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2009年06月16日

昭和語広辞苑(その4?)「シスターボーイ」――美輪さんに禁煙を説教されてもなー

 「シスターボーイ」

 最近は聞きませんね。
 若かりし頃の美輪明宏さん(当時は丸山明宏)のような絶世の美少年(?)をこう呼びました。
美輪さんは、現在の「オネエ」たちの魁で、当時はほとんど孤軍奮闘でした。
近著『愛と美の法則』(パルコ)などを読むと、あらゆる偏見と闘い、歌って演じてきた美輪さんの迫力に感動します。

 ときどき三島由紀夫や寺山修司に支持されたという話がくどいと思われるところもあります。
しかし、40年ほど前の日本をシスターボーイとして生き抜くとき、それらの励ましを糧とせねば潰れそうになってしまう、ということを考えれば当然のことと思われます。

 「シスターボーイ」という語は、本家『広辞苑』には出ていません。


 さて、その美輪明宏さんも、現在は怖いものなしの説教ババアであります。

 で、今年の禁煙キャンペーンのポスターは美輪さんが「煙草を吸っている自分を、鏡でごらんなさい」というものです。
黄色の髪、紫の衣装の美輪さんに「鏡を見ろ」と言われてもなぁ――というのが正直なところです。

 美輪さん、少しは「怖いもの」があってもいいんでないか?

 確かにギョッとするけど、禁煙する気にはならんぞ、やっぱり。
 「お肌に大敵」とも言ってるので、あれはひょっとして「喫煙女子向け」?
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2009年06月15日

志賀直哉の「フランス語公用語論」と『教行信証』への留保――橋本治『大不況には本を読む』に触発されて

 橋本治『大不況には本を読む』(中公新書ラクレ)は、面白いのだが、「で、何が言いたいの?」という本である。
で、その本の不況の分析の中にいきなり「和魂洋才」という話が出てくる。
そして、そこに志賀直哉の「フランス語公用語論」が出てくる。
 
 戦後、志賀直哉が「公用語をフランス語にせよ」と提案したという、日本文学史上、訳がわからないといえば、一番訳の分らない話である。

「小説の神様」、もちろん日本語の小説の神様が、何が悲しくてこんな提案をしたのだろう、志賀直哉の小説をカリカリと鉛筆で原稿用紙に写経した高校生であった私は思うのである。

 これを橋本治はこうまとめる。

「今からすれば「なんというメチャクチャな発想だ」ということにもなりましょうが、しかしあきれたことに、この「日本語を捨ててしまえ」は、日本の伝統的なあり方からすれば、メチャクチャでもなんでもないんですね。だって、それ以前の日本は、中国語である漢文で書かれたものを「正式」「公式」の文書にしていて、そのことを当然の前提とした上で、「和魂漢才」などと言っていたわけですから。日本語の文字がアルファベットになって、英語やフランス語が公用語になったって、別にどうということもないでしょう。後は、「そうなったから勉強しなさい」があって、勉強好きな日本人は頑張るでしょう。」(100ページ)

 なるほど、それで親鸞の『教行信証』は評判がいまひとつなのか?と私は、思ってしまったわけです。

 「フランス語公用語論」をそんなメチャクチャなと思う日本語観は、『教行信証』という「和魂漢才」も「メチャクチャ」と観ます。
日本語で書いてこそ、和魂の底からの表白である、と発想しています。

 『最後の親鸞』の吉本隆明のこのような発言にも同じ発想が見られます。
「わたしには親鸞の主著『教行信証』に、親鸞の思想が体系的にこめられているという考え方は、なかなか信じ難い。」(ちくま学芸文庫版14ページ)
吉本自身は気が付いていないけれども、その底に「日本的思想は日本語で」というアイデンティティの発想があるのではないか?

 少なくとも、私にはそういう発想がありました。だから、志賀直哉の「フランス語公共語論」に「????」だったのであります。

『日本的霊性』の大拙にも同じ発想があるように思う。
つまり、鎌倉になって仏教が和文で書かれてこそ、そこに「日本的霊性」が発揮された。仏教を欠いた平安の和文ではなく、鎌倉に仏教の和漢混交文にこそ日本的霊性が宿る。
だから、『教行信証』よりも親鸞の和文のほうがよい、となる。

 しかし、最晩年の大拙は『教行信証』の英語訳に取りくむ。
「和魂漢才」の親鸞の『教行信証』の漢文を、おそらく最高の「和魂洋才」人・鈴木大拙が英語訳をするのである。

 『大不況には本を読む』では、先の引用に続いて「アイデンティティーなんかどうでもいいのかもしれない」という節が続く。

 おそらく「和魂」と親鸞の「愚か」と、そしてこの「アイデンティティーなんかどうでもいい」はどこかで繋がっているような気がする。
posted by CKP at 15:31| Comment(0) | TrackBack(0) | 雑想・戯言 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年06月11日

You really got me――「あなた」の登場

 哲学の問題で、独我論とか他者問題とか言われるものがある。
「我」を主体あるいは主観として先に立ててしまった場合、「我」に認識されるものは、すべて「我」という主観に認識されたものでしかない。
その「我の認識」の世界に閉じ込められている限り、「他者」に到達できないという問題である。

 この問題にぶち当たるとき、いつも私はミダス王のことを思い出す。
無限の黄金を願い、触るものすべてが黄金になるという能力を手に入れたミダス王のことである。
しかし、それは触るものすべてが黄金になる能力であった。
パンもワインも食べようとすれば、黄金になる。
王妃を抱こうとすれば、王妃も黄金になる。
ミダス王の不幸は独我論の不幸である。

 これとおなじような話が「トーテムとタブー」にある。
タブーである人物に触れてしまうと、そのタブーが触れた人に感染するという話である。
しかし、そのタブーである人物から触られた場合はタブーは感染しない。
つまり、能動的に触った場合、タブーは感染するのだが、受動的に触られた場合、タブーは感染しないのである。

 ここから考えると、独我論の牢獄を突破するカギは「受動性」にあるのではないか、ということが予想される。
認識を「能動的」と考える限り、その認識は主観にしか過ぎない。
しかし、その認識が「受動的」である場合、その受動をもたらした能動的他者との関係が開かれる。
しかし、そのような「受動的認識」とはなんだろう?

 そこで、You really got meである。
ブリティッシュ・ロック史上、燦然と輝くキンクスの名曲である。

ガ、ガ、ガ、ガ、ガッ、ガ、ガ、ガ、ガ、ガッ、ガ、ガ、ガ、ガ、ガッという印象的なイントロに続いて
「おまえは俺を虜にしてしまった。
俺はどうしていいかわからない。
夜も眠れないんだ・・・」
と狂おしく歌われる。

 ここでは「俺」の能動性は奪われている。
「お前」が、「俺」を支配しているのである。

 私たちは、毎日毎日、無数の他人とすれ違っている。
それらの全てが、「他者」であるわけではない。
それらはアンドロイドでもかまわない。
しかし、ある日ある時、そのなかの誰かが、突然、「あなた」になることが起こる。
「あなた」という不可解によって、私は夜も眠れないということが起こる。

You really got meである。

 その後はどうなるかはさまざまである。
おそらくお互いが、相手の「不可解」を大切にするところに「愛」がはぐくまれるように思う。
なぜならば、その関係の終わり方ははっきりしているからである。
「あなたという人が、よーく分かったわ!」
で終わるからである。

 相手を完全に理解することは、独我的世界に帰りゆくことである。
他者への開けを閉じることである。

 独我論の問題が大きくなったのは、「神」とい最大の不可解の消滅とおそらく関係があるのであろう。
しかし、逆に考えれば、神の独我論だってある。
孤独な神である。すべてが「私の世界」となってしまう神である。
そのような問題を考えていた人物もいたのである。
世の中は広い。

 そんなことをYou really got meを聴きながら、思うのであった。
キンクス、いいっス。
posted by CKP at 13:13| Comment(0) | TrackBack(0) | 雑想・戯言 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年06月10日

元唄――こつこつカレー

 先日こつこつのカレーのCMソングをエノケンの「渡辺のジュースの素」のCMソングを元に作った。
 そしたら「こつこつ」の店主が喜んで、その元唄をYOUTUBEではりつけたブログをエントリーしてくださった。

 正確な元唄を知りたい方は下のURLにすぐにアクセス!

 http://www.kotsu2.com/

 なお、カレーにはキャベツの西洋風?の漬物が付きます(ときどき失敗してでないと気があるけど・・・)
posted by CKP at 09:54| Comment(0) | TrackBack(0) | 雑想・戯言 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする