2020年12月26日

え?これで終わりなの?「こころ旅」――それは突然やってきた?

 昨日、火野正平さんが自転車で全国を駆け巡る『こころ旅』を観ていた。
BSで午後7時から。
ニュースで不愉快な嘘つき野郎のツラなど見たくないというのもあるが、火野さんがひょうひょうといろんな人のいろんな思い出の地を辿るのが、どうゆう訳かたまらなく惹きつけられて朝も夜も観ている。

 だがしかし、昨日の夜は、番組の最後に妙にセンチメンタルな空気が流れてきて、「1000回までやりたかった」とか火野さんが残念そうにつぶいやいて、画面に、
「10年間のご視聴ありがとうございました」
というよな文字が出て、まるで最終回の雰囲気なのである。

 そんなこと何も言ってなかったのに〜。

 喫茶店で突然に女の子から「私たち、もう会わない方がいいと思うの」と切り出された男子の気分である。

 いったいどうなってるんだ?とパニックになり、一夜明けて、番組のホームページで確かめるという知恵が思い浮かんだのであった。

しかし、そこには最終回的な表示はない。
が、視聴者からは「最終回、残念!」というコメントがある。その一方で「え?これで終わり?」というコメントもある。


 う〜ん、どうなっているんでしょうか?
ここはしばらく様子を見るということなのでしょうか?
火野さんの体力、コロナの感染状況・・・番組を続けるには問題が山積みではあります。
しかし、これが最終回でしたという公式な告知はない(と思う)。

私は「あなたはとってもいい人です。でも私たちお友達でいたほうがいいと思うの」という女子の言葉を読みそこなっている男子なのだろうか?


posted by CKP at 10:44| Comment(0) | 雑想・戯言 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2020年12月22日

9か月のご無沙汰でした――門脇です

 こんにちは、お久しぶりの門脇です。
そう、今年の3月に無事に退職した門脇です。
はい、まだ元気に生きていたんですね。

 あれ以来、わたくしは越前の人になってしまいました。
予定では、週一回、非常勤で京都へ出てきて、大学で講義する予定でしたが、リモート講義ということで京都は遠い地の果てということになってしまったのでした。

 リモート講義といっても、動画を使うハイカラなものではなく、講義ノートを公開するというアナログなスタイルです。
おかげで立派な講義ノートが出来つつあります。
が、これがけっこうキツイ。
これは今まで適当なことを喋り散らしていたわたくしの自業自得でありますね。

 このノートづくりでへとへとで、ほかのことは何もできなかったのですが・・・
夏休みにはひょんなことから、イリーナ・メジューエワさんのベートーヴェン・ピアノソナタ全集の「前説」を書くというお鉢が回ってきたため、その全集を聴くという「お仕事」をしていました。
あの暑い熱い夏に、ベートーヴェンのピアノソナタというのはけっこうキツウございましたよ。
が、なんとかまとめて、12月16日発売のCD9枚の全集のブックレットに無事収録されました。
興味のある方は・・・・本みたいに立ち読みできないのですね、これが。

 全集はきついが、あの曲なら聴いてみたいという方にはダウンロードということもできるそうです(それに「前説」がくっついているかは分かりません)。ここからどうぞ!
http://bijin-classical.com/

 というわけで、新型コロナ感染者の数に毎日一喜一憂することで一年が過ぎてしまいました。
あ、それから、小さい真空管アンプキットを一個作りました。
なかなか良い音がしております。
このアンプでメジューエワさんのベートーヴェンを聴いたのでした。
1922年製のニューヨーク・スタインウェイの重厚な響きがよき聴き取れました。
メジューエワさんは、けっこう、重低音好きと見ましたよ。
では、また、忘れた頃に!
posted by CKP at 17:32| Comment(0) | 雑想・戯言 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2020年03月18日

卒業おめでとう――大谷大学卒業式

 2020年3月18日、京都は北大路の大谷大学では卒業式を挙行しました!
従来からいくつかの学科ごとに分散してご本尊が安置されている講堂で挙行していましたから、なんとかできました。
それでも、式は簡略化され、教室にわかれての学科ごとの証書授与もアッという間に終わってしまいました。

 しかし、そのあと屋外でゼミごとに記念撮影できました。
卒業生の皆さんはきちんとハレの服装です。
わたしも今日ばかりはスーツにネクタイ!
卒業生の皆さん、おめでとうございます。
これからがいよいよ大変ですが、泣いたり笑ったり落ち込んだりしながら、充実した人生を送ってください。

 という訳で、こんな歌を贈ります。

 もう60年くらい前に流行った「さらばジャマイカ Jamaica Farewell」という曲です。
唄ったのはアメリカのハリー・ベラフォンテ、「褐色のアポロ」(@三島由紀夫)と言われた歌手。
旅を続ける青年がジャマイカで出会った女の子に後ろ髪ひかれる、という曲です。
はい、これです。



こちらは、レゲエ風味が加わったヴァージョン。



 リフレインされる歌詞。

But I'm sad to say on my way
won't be back for many a day
My heart is down, My head is turning around
And I had to leave a Little girl in Kingston

こんなふうに大学のことを想いながら前に進んでくれるとうれしいです。
posted by CKP at 13:02| Comment(0) | 雑想・戯言 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2020年02月28日

頑張れ岡田晴恵先生――マールブルク経由でエールを送ります

 今朝の羽鳥モーニングショーで、感染症研究者の岡田晴恵先生が感染検査数の少ないカラクリを声を震わせて告発されたという。
最近テレビに出ずっぱりで、何とか検査を増やして初期の段階で対応すべきことを主張されているが、その検査の少ないのは研究者の縄張り争いに原因があるという。
データを独占して論文を発表する――岡田さんは声を震わせて怒っておられということです。

 岡田さんはマールブルク大学のウィルス研究所に留学した方で、初期の著作『人類VS感染症』(岩波ジュニア新書)は確かマールブルク駅前にある聖エリザベート教会に祀られているエリザベートの話から始まっていたはずです(今引っ越しの準備でその本を段ボール箱に詰めてしまった)。
エリザベートはお妃さまでしたが、ハンセン病者の救済に身を捧げ若くして亡くなり、カトリックの聖人とされた人でした。

 そういう人をご自分の(たぶん)最初の一般的な著作の最初に持ってきたのは、感染症の研究は一人でも多くの人を感染から守りたいとご自分の研究のよって立つ根本を確認するためであったと思います。
データを独占して論文を書くためではないということですね。

 表紙もハンセン病者を抱きかかえるエリザベートの石像だったはずです。

 どうしてこういうことを宗教学のワタクシ・カドワキが知っているかというと、マールブルク大学で「仏教とキリスト教の対話」の研究会をやった時に、この岡田先生のエリザベート紹介を紹介しながら発表したからです(その記録も現在段ボールのなか)。
その発表を活字化したものができたとき岡田先生にお送りしようかなと思いましたが、突然、宗教学の論文が送られてきてもお困りであろうと、よしたのでした。

 というわけで、その論文は送りませんが、マールブルク経由で京都からエールを送るというわけなのでした。
posted by CKP at 19:58| Comment(0) | 雑想・戯言 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2020年02月24日

ありがとうございました――我が「最終講義」、ともかく終わる

 去る22日のカドワキの「最終講義」は、いろんな方々のおかげをもちまして、とにもかくにもナントカ終えることができました。
あらためて御礼申し上げます。

 コロナ禍の中での集まりでしたが、三人掛けの机に両端に二人座って教室全体が埋まるという絶妙の人数で開催できました。
あれ以上多いと感染を気にしなければならず、またあれより少ないとちょっと悲しい・・・そうならない絶妙の人数でした。
話の方は、少し固有名詞が多すぎるとのお叱りを受けましたが、皆さまをぐっすり眠らせるということはなかったようで、ま、カドワキとしては上出来ということにしたいと思います。
が、メモを忘れたおかげで、あとで言い忘れたことをあれこれと思い出し、悶えながら眠れぬ夜を過ごさねばなりませんでした。

 藤枝先生をはじめ準備てくださった方々、参加してくださった方々、そしてコロナやその他の事情できなかった方々、ありがとうございました。
また、どこかでお会いしましょう。
その時まで、ごきげんよう、さようなら。

といいつつ、pilz先生からお許しを得ているので、このブログは退職しても書きますけど・・・
posted by CKP at 20:43| Comment(0) | 雑想・戯言 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2020年02月22日

門脇健教授 謝恩会について(お知らせ)

門脇ゼミの卒業生や大学院の指導学生には郵便ですでにお知らせしておりますが、郵便での案内状が「転居先不明」で戻ってきているものがあります。「ゼミ卒生だけど案内が届いていない!」という方はご連絡下さい。
もちろん、ゼミ卒生のかた以外でも、門脇先生にご縁のあるかた全てが謝恩会にご参加頂けますので、奮ってお申し込み下さい。ぜひ一緒に門脇先生を囲んで語らいましょう。

謝恩会
日 時:2020年2月22日(土)17時から19時 (会費は郵便振替での事前払い込みになっております。予約の人数を確定させる都合がございますので、どうかご了承ください。)

詳細は添付ファイルをご覧下さい。沢山の方々のご参加をお待ちしております。
(WEB版)門脇健教授のご退任にともなう最終講義および謝恩会のご案内.pdf

連絡先:
藤枝真 (哲学科宗教学・死生学コース 教員)
〒603-8143 京都市北区小山上総町 大谷大学
fujieda[アットマーク]res.otani.ac.jp
posted by (藤) at 00:00| Comment(0) | 雑想・戯言 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

門脇健教授 退任講演について(お知らせ)

ブログをお読みいただいているみなさまに、お知らせです。長く大谷大学哲学科の教員として哲学科を支えてきてくださった、また、このブログもひとりで支えてきてくださった(これからもよろしくお願いします)CKPこと門脇健先生が、3月末をもって定年退職されます。つきましては以下のとおり、門脇先生の退任講演を大谷大学にて実施する予定です。みなさまのご来聴をお待ちしております。


日時: 2020年2月22日(土) 14:00-15:30

講演題目:
「想えば遠くに来たもんだ――ヘーゲル、ハムレットそれに親鸞が出会うところ」

会場: 慶聞館 K204教室

※ご退任謝恩会については、追って告知します。
posted by pilz at 00:00| お知らせ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2020年02月20日

不要不急ではありますが・・・カドワキ最終講義やります

 日本全体、コロナでえらいことになっています。
テレビを見ているとこりゃ最終講義は中止か?と思ってしまいます。
が、京都は人もまばらでかえって動きやすいです。

 お上からは不要不急の集まりは避けるようにお達しが出ております。
が、それほど人が密集することのないであろうということで、カドワキの最終講義やそのあとの懇親会は予定通り開催するようです。

 ひょっとして中止を期待していたので、話がさっぱりまとまっていません。

 話にはあんまり期待しないで、懐かしい同窓生との再会を楽しんでいただければ、不要不急のカドワキとしてはうれしいです。
が、道中くれくれも気を付けて!
posted by CKP at 13:59| Comment(0) | 雑想・戯言 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2020年02月07日

グダグダ――最後の卒論試問も終わりました

 先週、最後の卒論試問が終りました。
「ああ、これで卒論試問も、もうやらなくていいんだ〜」と思いながらサンダーバードに乗ったら、力がぬけて、翌日からぐだぐだぐずぐずになってしまいました。
鷲田先生の講演会には何とか出かけましたが、翌日からまたもやぐだぐだぐずぐず。
よほど緊張して卒論試問をやっていたのでしょうか?
もう少し事前に指導しておれば、今年ももっといい卒論になったと後悔しつつ試問をするから疲れるのでしょうか?
しかし、事前指導をするとどうしてはワタクシの解釈を押し付けてしまうし・・・ということで放任主義をとってきたことの後ろめたさが、緊張をもたらしたのでしょうか?
が、いずれにしてもこれでおわり・・・・

 なのですが、まだレポート採点が残っていました。
退任記念の全員合格!の太っ腹で臨んだのですが、どう読んでも「単位は要りません」としてしか読めないレポートがありまして…退任記念全員合格!の夢はむなしく崩れましたとさ。
posted by CKP at 19:23| Comment(0) | 雑想・戯言 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2020年01月31日

明日(2月1日)鷲田清一先生のご講演――今ごろ言っても遅かりし由良助なのですが

 明日2月1日、大谷大学の開学記念式典で鷲田清一先生の「大谷大学最終講義」があります。
鷲田先生、大谷大学の客員教授だったんですね, ご存知でしたか?

午後一時からの記念式典(勤行です)のあと記念講演。
タイトルは「哲学:デモクラシーのレッスン(Philosophy To The People)」
この( )については、『語りきれないこと』(角川新書)にこんなことを書かれています。

「(哲学とは)市民一人ひとりがまさに『教養』としてもつべき哲学の思考とその問いのまなざしのことです。ジョン・レノンの歌、Power To The Peopleのタイトルをもじって、Philosophy To The Peopleをめざす活動、それが臨床哲学の名でやろうとしていることです。」(174頁)

 聴講自由ですから、暖かくして、どうぞ。
posted by CKP at 18:05| Comment(0) | 雑想・戯言 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2020年01月23日

私の耳は後ろ向き――想えば遠くに来たもんだ

 わたくしカドワキの最終講義のご案内が告知されてしまいました。
「最終講義」って言うのは、その人の学問の集大成というのがふつうですけど、そんな立派なお話はできそうもありません。
「想えば」の部分がほとんどの与太話になりそうな気がします。
そうなっても怒らないでくださいね。

 でも、ゼミであんまりきちんと指導しなかったから、どれだけの卒業生が来てくれるのか心配です。
閑古鳥が激しく泣いている教室が思い浮かびます。
卒業生でなくても、ちょっと覗いてみてくださいね。
鷲田清一先生も「その日だったら行くよ」と言ってくださっていますので、わっしーのご尊顔を拝見するというのでもいいから来てください。

 しかし、Pilz先生が特殊技術で書き込んでくださった上の告知、来月の22日までは追い抜けないみたいです。
なんだか亀を追いかけるアキレスのような気分ですな。

 という訳で、去年聴いたCD案内ですが・・・
この頃はもう新譜を聴くことがほとんどなくなりました。
その新譜も、お年寄りばかり。

まずは『105歳の現役ピアニスト、コレット・マズ』というCD。
一瞬キワモノかと思いましたが、評判が良いので聴いてみました。
ドビッシーやサティをゆったりと、しかし確かなテンポで弾いています。
決して「味わいで勝負」という弾き方ではありません。
妙に情緒過多になることなく、さらっと弾いているのですが、なんとも心地よい。
サティなんかは、今まで聴いたどのピアニストよりもしっくりきました。
サティやドビッシーと同時代人とまで言えないようですが、そのころの雰囲気を幾分か伝えてくれているような気がします。

次は、たしか70歳を越えたブルース・スプリングスティーンの『ウェスタン・スターズ』というアルバム。
Eストリート・バンド抜きの、それもウェスタンを唄うスプリングスティーンというのでちょっと躊躇しましたが、ジャケットがかっこいいのでLPレコードで買いました。
これが、淡々としていて年相応というのはこういうことか、というアルバム。
どこかNHKの「72時間」を思わせるような、いろんな人生が唄われていて、ちょっとしんみりしながら聴いています。

そして、柳家小三治師匠の朝日名人会ライブシリーズ。
『あのひととっても困るのよ』は以前ご紹介しましたが、落語では『青菜/鰻の幇間』をよく聴いています。
これを、この間「折々のことば」で紹介されていた『どこからお話しましょうか 柳家小三治自伝』を合わせて聴くと、面白さが一段とアップましたよ。

後は、もうほとんど古レコード。
昨年は、懐かしい懐かしいボレンボイムが弾くモーツァルトの17番のピアノ協奏曲のオリジナル盤を、京都は四条烏丸のラ・ヴォーチェで手に入れることが出来ました。
中学生か高校生の時、吉田秀和さんのラジオ番組で聴いたレコード。
何故17番の協奏曲が好きだったのかすっかり忘れていましたが、このレコードをお店で手にしたとき吉田さんの「では、ダニエル・バーレンボイムの演奏で・・・」という声を思い出しました。

 というわけで、「私の私の耳わー、後ろ向き」なのでした(もちろん「わたしのわたしの彼わー、チャッチャッ、左利き」を踏まえています)。

posted by CKP at 14:59| Comment(0) | 雑想・戯言 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2020年01月20日

26の瞳――カドワキ、最後のゼミコンパ

 先週の木曜日、ゼミのコンパを開催しました。
いつもの年なら4回生の「追い出しコンパ」なのですが、今年は、私が来年からゼミを担当することはないので、「ゼミ解散コンパ」ということになりました。

 わたしの「定年退職」という都合でゼミを解散するので、私自身がコンパの幹事をいたしました。
欠席は急用の一名と急病の一名。
で26の瞳が22の瞳になりました。

 そしたら、この22の瞳たちが、「先生、お世話になりました」と小さな花束(サンダーバードに持ち込みやすいように)と記念品(ステンレス製?の魔法瓶みたいなカップ)を帰り際に渡してくれました。
そんな素振りなど一切なかったので、ビックリの大感激。

 こんなええ加減な教師でごめんね。
が、それだけに皆さん十分に独り立ちできました!

 改めて、ありがとう!!!
posted by CKP at 13:52| Comment(0) | 雑想・戯言 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2020年01月11日

遅ればせながら――2020年の年頭のご挨拶

 皆さま、2020年、あけましておめでとうございます。
ゴーンは逃亡するは、イランとアメリカは一触即発状態になるは、波乱の幕開けでございます。
ホント、世界はどうなるのでしょう?

その世界を考えるために、去年に読んだ本のベスト3は?!
と言っても、あんまり読んでいないのですが・・・

1. 金子夏樹『リベラルを潰せ 世界を覆う保守ネットワークの正体』(新潮新書、2019年1月)。
この「保守ネットワーク」というのは「世界家族会議」という組織。家族を大事にしましょう、ということで問題ないように思われるのでありますが、これがトンデモナイ反動団体でトランプともプーチンともつながっている。つまり、「LGBTなんかを認めることによって、正しい家族制度を破壊するリベラル」をぶっ潰せ!と強力なネットワークを世界中に張り巡らせている組織なんだそうです。
「家族は大切」という、ある意味当たり前なことを看板にしているから、じわじわと世界中に広がっている様子が描かれていてぞーっとしましたよ。
この本も、この組織のことも、あまり話題になっていないのは何故でしょう?

2、鹿島茂『〔新版〕吉本隆明1968』(平凡社ライブラリー版)
 もとは平凡社新書で、そのとき買ったのですが、もひとつノレなかったのでどこかに行ってしまった。ところがいつのまにかライブラリー版になっていて、その表紙の赤と黒に縁取りされた吉本のポートレートがかっこいいのでまた買ってしまって読みだしたら、一気に読み通してしまいました。
なんか、うまくリズムがあったんでしょうね。

基本的に「転向論」を読み解いているのですが、それが家族・生い立ち・出身階層という観点から丁寧に読み込まれているので、上に紹介した本と読むと大変面白い。
つまり、世界家族会議がじわじわと力を持ってきたのは、西洋近代の個人主義が封建的家族制度に屈伏したという形の「転向」と読めるわけです。今更に、そのような家族制度にどのように向き合うかという問題を吉本的なまなざしで考えることをせにゃいかんなーと考えた次第。
『リベラルを潰せ!』を読んでいたから、うまくリズムがあったのかもしれません。

2. 片山杜秀『線量計と機関銃』(アルテスパブリッシング)
これもずいぶん前に出た本ですが、ことし読んで圧倒された本です。
内容は、5月にこのブログで紹介していますのでそちらを見てくださいね。
もちろんタイトルは「セーラー服と機関銃」を意識しています。

posted by CKP at 16:54| Comment(0) | 雑想・戯言 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2019年12月24日

記憶が捏造されそー――『いだてん』効果?

 『いだてん』とうとう終わっちゃいました。
実は、わりと本気で見ていました。
とりわけ関東大震災のあたりからグイグイ面白くなってきて、戦中の東京オリンピック返上あたりが最高かな、と思っていたら1964の東京オリンピックへ向かうあたりもクドカンらしくしっかり描いておりました。
非大河的大河ドラマとしてよくできていたと思います。

 が、最終回に聖火リレーの話が出てきたのですが、それを見ているうちに、なんだか私も聖火リレーに参加したような記憶がよみがえってくるのです。
年代的に調べると、小学生の私は聖火リレーに出ているはずはありません。
しかし、その3年後の福井国体の旗リレーに出ているのは確実です。
ところが、それがどうしても聖火リレーと重なってしまい、聖火リレーに参加したのは真実ではないだろうか・・・と思い始めているのです。

 記憶というのは、ええ加減なものです。

 内田樹×平川克己の『沈黙する知性』という対談本などでは、内田先生の性格を表す小学生の時のエピソードを内田先生本人は忘れているが平川氏は覚えている。
その逆もあるのですが、果たしてその記憶は事実なのでしょうか?

 個人史の記憶というのはけっこういい加減なのかもしれませぬ。
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2019年12月12日

ヤマザキマリさんの人生相談――ひとつだけの目標にしがみついて生きることの危うさ

 2019年11月12日火曜日の毎日新聞朝刊の人生相談。
担当は、ヤマザキマリさん。
なかなか読みごたえがあったので、このブログでもご紹介します。

まずは相談文。

「大学のゼミの面接で落ちました。地方出身で、高校時代から商品開発に携わりたい夢があり、進学か就職かの岐路に立った時、夢をかなえるため東京の大学を選びました。決め手は「この教授のゼミを受講したい」という強い希望でした。目標達成への道が閉ざされ、何のために大学に通っているのか分からなくなりました。親に申し訳ない気持ちと自分への情けなさでいっぱいです。残りの大学生活で何を学べばよいのでしょうか。(20代・女性)」

 新聞の人生相談に応募しなければならない心境というのはどういうものでしょうか?
よほど切羽詰まっての行為と思われます。
単に希望したゼミに入れなくて落胆しているというようなレベルではないのでしょう。
そのゼミに入れた他の学生に対しての嫉妬などで、いてもたってもいられない状況なのかもしれません。

 この人生相談は回答者を指定する形式の相談で、この相談者はヤマザキマリさんを指定したことになります。
目標を達成した「成功者」にその秘訣を聞きたい、そんな思いでしょうか。
しかし、ヤマザキマリさんの回答はけっこう厳しいものです。
このような回答です。

「目標があるというと、いかにも人として正当な道を進んでいるように捉えられますし、特に日本では一つのことを目指し、いちずに頑張る人間が称賛されます。だからあなたも、目標を達成させようと頑張った自分を正当化していますし、周りの人もそんなあなたを励ましてくれたはず。なのに、なぜまっとうな思いを掲げていたはずの自分の頑張りが認められなかったのか。目標を達成できず、親をがっかりさせた世の中と自分に対して、あなたは失意と憤りを感じているでしょう。
 目標は信念に似ています。何事も信じていたようにならないと、人は「裏切り」と捉えて自分を気の毒がったり、哀れんだりします。しかし、私は長い間、目標や信念がさほど美徳ではない国に暮らしてきたため、安直に人間や情報を信じることや、一つだけの目標にしがみついて生きる危うさを知りました。信念や目標を持つことはあくまでも自分勝手な行為であり、思い通りにならなかったことの責任は、その他の可能性と向き合おうとしなかったあなたにあるのです。
 あなたはそのいちずな目標のためだけに突き進んできた道を閉ざされ、上京して大学に通う意味すら見失っている。でも、そのおかげであなたは、右や左、後ろを振り返り、そこにどれだけ広い空間があるのか知るチャンスをもらえたのです。大学だけではなく、さまざまなところに目を向けてみれば、世の中は学ぶべきことが満載です。頑張って下さい。(漫画家)」

 どうでしょうか?
「成功」にむけて前のめりになっている今の日本の若者、というか日本全体に冷や水を浴びせるような文章です。
ヤマザキマリさんの暮らしたイタリアの生活から見ると、「目標があるというと、いかにも人として正当な道を進んでいるように捉えられる」ということになるそうです。
「信念や目標がそれほど美徳ではない」というのがすごいです。
信念や目標にしがみつかず、ある意味「いい加減」に生きる、そうすればいろんな可能性が見えてくる、いろんな楽しみ、豊かさが見えてくるということでしょうか。

 そんな生き方をしていたら取り残されてしまう、落ちこぼれになってしまう・・・こう考えてしまうところに勤勉日本の切なさがあるように思います。
「そんなにあくせくしないでのんびり行こうや」

イタリアには行ったことがなく、この日本で勤勉に暮らしてきた定年前の私などからはうまく想像できない人生観です。
フェリーニの『8 1/2』やヴェルディの『ファルスタッフ』などのラストで言われる「人生はお祭り」「人生は冗談」というような感じでしょうか?

 しかし、「衰退期」に入った「先進国」日本では、大いに参考にすべき人生観だと思います。
ホント、イタリアとかスペインとかいうカトリックなラテン諸国は、大した産業も無いのに、なんだか豊かに見えますものね。


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2019年11月21日

教育に横文字は要らない――「大人の事情」で教育をいじるな

 昨日、これからの大学教育に関する講演を聞きました。
PBLだのALだのポートフォリオだの英語の略称やカタカナが乱舞する話でさっぱり頭に入ってきませんでした。
問題解決とか課題設定の授業が大事ということらしいのだけれども、そんなこと昔の子どもは自分で真剣にやっていました。
ただし、授業の外で。

 まずは、学校で知識をどう身に着けるかという課題。
そして、学校の勉強が嫌いな子どもにとっては、進学せず、自分の適性を真剣に考え、どのような職業をなりわいにして生きてゆくかという課題。
戦後から1970年代前半くらいまでの15歳前後の子どもたちは、そんな課題に真剣に取り組み、試行錯誤しながら自分の解を見つけていましたよ。
そうやって、「大人」になっていったのでした。

 しかし、その後、「詰め込み教育」批判、「落ちこぼれをなくそう」教育がやかましくなり、子どもたちは、知識を得ることはいけなくてかつ落ちこぼれは敗者という訳の分からない状況に置かれたのでした。
学校で何をしたらいいの?
そうしたら、学校は生徒の全人格を陶冶する場所のように謳われるようになったのでした。

 そして、それを推進するためにいろんな機関が出来て、文部省のお役人の天下り先となっていったのでした。
いや、話が逆かもしれない。
いろんな機関を作るために全人教育が必要になったのかもしれない。
そうやって、教育をいじり倒し、今のぐちゃぐちゃの状態が出来上がっているわけです。

 ホント、そうゆうの、やめてください。

 学校は、系統立てて知識を授ける場。
その知識をどのように生きる力に変えてゆくかは、それぞれの子どもがホントに真剣に必死に考える・・・それでいいんじゃないですか。
posted by CKP at 12:11| Comment(0) | 雑想・戯言 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2019年10月30日

「ドリアン騒動」のそれから――小三治師匠『あの人とっても困るのよ』

 我が寺の報恩講も無事お勤めした翌日、予約しておいた小三治師匠の『あの人とっても困るよ』が届きました。
あの「ドリアン騒動」や「卵かけご飯」「駐車場物語」の系列に属するマクラ系の噺です。

 はっきり申し上げましょう。
この作品は、あの傑作「ドリアン騒動」を越えています。
何があの作品を越えさせているのでしょうか・・・などと書いても「ドリアン騒動」を知らない人には何のことやら・・・ですね。

 なんだかとっても幸せな気持ちになりましたよ。
師匠の初恋のお話が・・・

「あの人とっても困るのよ」というタイトルから、いろんな困った人の噺かな、と思っていましたが、そういうことではありませんでした。
聴きながら寝ようと思って、聴きながら床に入ったのですが、面白くてすっかり聴き入ってしまいました。
2枚組CDで少々値が張りましたが、良い買い物でした。

という訳で「このCDとっても困るのよ」でした。
posted by CKP at 17:37| Comment(0) | 雑想・戯言 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2019年10月24日

世界が回る、私が回るーー我が愛しの三半規管

 昨日、昼頃から世界が回り出した。
なんだかふわふわしている。
なんとか授業を始めたが吐き気がしてきたので、授業は早じまい。

 研究室に戻って少し吐くと楽になったが、どうも世界のふわふわは収まらない。
タクシーで下宿に戻って横になっていたら次第に収まっていった。

 昨年93歳で亡くなった母親もよく目が回ると言っていたのを思い出した。
病院で診てもらっても原因は分からなかった。
どうもその「目が回る」DNAを引き継いでいるらしい。

 で、収まってから考えたのだが、「めまい」と「吐き気」というのは、ちょうど乗り物酔いみたいなことかと思う。
何かの拍子で三半規管が乱れて、乗り物に乗っていないのに揺れてしまうと感じる、それで吐き気をもよおす。

 目を回してわかったことは、確固たる世界を確固たる私が認識するというのではなくて、私と世界の関係においてある認識が成立しているということでありました。
ということは、この確固たる世界もこのように確固たる世界かどうかわかったものではない、ということです。

 そういえば、一昨日、即位の礼の日にもかかわらず、お坊さんのお仕事をいくつかお勤めしていたとき、自分の読経の声がやたらとうるさく耳鳴りがしていました。
三半規管が読経の声に悲鳴を上げていたのかも。
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2019年10月22日

大根おろしの搾りかすは捨てていい――オイオイの言葉

 えーっと、本日の「折々のことば」は角田光代さんの「大根おろしの水分は捨てなくていい」とかいうものでした。
私には、その「ことば」に対するわっしーの「ことば」も含めて、なんだかよくわかりません。

 というのは、大根おろしは水分があってこそ大根おろしなので、その水分を捨てるなどということは考えられないからです。
ここ越前では、「おろし蕎麦」が有名ですが、その食べ方として、大根おろしを布きんでよおーく搾って、その水分とお出汁を混ぜてお蕎麦にかけるというのが、本格的な食べ方なのです。

 大根おろしの搾りかすはすてていい、のです。

 大根おろしの「おろし」部分を蕎麦の上にのっけて「おろし蕎麦」と名乗っているのを見ると、いつも「ちがう・・・」と思っているのは私です。

 なもので、角田さんの文章も、わっしーの文章も、なんだかよくわからないなぁ・・・と思うカドワキでした。
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2019年10月16日

自らを、法を島とせよーー洪水のあとで

 千曲川や阿武隈川の洪水の映像に震え上がりました。
 言葉もありません。

 同時に、もう20年ほど前に見た雨季の終わりの頃のインドの風景を思い出しました。
確かバスから眺めた風景でしたが、広大に広がる一面の泥水に木の生えた島が点在する風景でした。
毎年のことなのか、人々はのんびりとその島で水が引くのを待っているようでした。
洪水の始まり死者が出ていたかどうかは分かりませんが、人々は洪水を勘定に入れて生活しているようでした。

 そのとき、お釈迦様が「自らを島(拠り所)とせよ、法を島とせよ」と遺言された意味が分かりました。
洪水において、いつもの丘が島となって生活を支えてくれることほどありがたいことはありません。
インドにおいて、「島(洲)」は生きる上で大切な場所なのでした。

 また、もう30年くらい前に読んだ高取正男先生の本に「産屋は村で洪水にあわない場所に建てられていた」と書かれていたことを思い出しました(昨日から探しているのですが、その本がみつかりません)。
産屋はふつう産褥を穢れとして差別する建物と考えられるのですが、高取先生はそれが極めて安全な場所に建てられていることを指摘されていました(もちろん、全ての産屋がそうだというわけではありません)。
穢れはもともと気枯れだった、という説がありますが、そのような時代に定められた産屋の場所なのかもしれません。
人々は洪水を前提にして生活していたということでしょう。

 治水技術の発達で洪水を忘れて暮らしていましたが、温暖化の今の日本では、大昔の日本のように、あるいは猛烈な雨季のあるインドのように、洪水を勘定に入れて生活せねばならなくなったのかもしれません。
posted by CKP at 13:19| Comment(0) | 雑想・戯言 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする