2017年12月06日

オットー・クレンペラーが好きなのかもしれない――ちょっと困った爺さんだったけど

 先日、高校時代の同級生の3好君から、「レコードコンサートをするから、お前は高校時代からクラシックのレコードを聴いていたみたいだから、レコードを提供せよ」と電話がありました。
こちらはあと定年退職まで2年余りであるから、退職後に地元で3好君に遊んでもらおうと思っていたから、すがりつくように引き受けた。
ついては、最後は第九で締めたいから、その曲を選んでとのご下命。

 フルトヴェングラーのバイロイトやルツェルンの第九、フリッチャイやショルティ、果てはストコフスキーの第九などを引っ張り出し聴き直しましたが、一番、皆さんにお聞かせしたいと思ったのは、クレンペラーが指揮した第九。
これは自分でも意外でした。
やはりフルトヴェングラーのバイロイトでの第九かなと思って、高校時代に聴いた東芝EMIのレコードを探すが見つからないので、最近、アビーロードスタジオでリマスターされたというレコードを買って聴いたのです。
しかし、これがどうもピンとこない。
高校時代あれほど感激して聴いたのに・・・。リマスターで妙にノイズが除去されて何かが失われてしまったのか?
あるいは、こちらに妙な知恵がついて聴けなくなったのか?

 それで、あまり気が進まなかったのですが、クレンペラーの第九を聴いてみたら、これがなんともよい。
70過ぎた爺さんの指揮とはとても思えない迫力があり、これに決定。

 そこで思ったのですが、わたしはどうもこの指揮者の指揮する音楽が好きらしい。
モノラル盤でしたが、この人の指揮するブルックナーの第4番を聴いたとき、冒頭のトレモロだけでなんとなく全体が分かったという気になって、以来、愛聴することになる。
メンデルスゾーンのスコッチ交響曲は、CDで聴いていたとき誰の演奏でもぴんと来なかったのに、古レコード屋で買った日本盤の古レコードを聴いたとき、はじめていい曲だと思ったのでした。
また、モーツァルトのグラン・パルティータと呼ばれる管楽器のセレナーデのクレンペラーが指揮したレコードが、どうゆうわけかたまらなく好きであったりするのです。

 こりゃどうもクレンペラーという人の指揮する音楽がわたしの生理にあっているのではないかと思い始めています。
この人の晩年の写真を見ると苦虫をつぶしたような顔をしていますが、少し調べてみると、どうも大変女性関係が賑やか、というより女癖が悪い人のようです。
そうゆう人の奏でる音楽が好きなわたしは、実は「黙りスケベ」なのか?といまさらながら自分を疑うのでした。
あと2年とちょっと、穏やかな教師生活を全うするために、クレンペラーを自戒を込めながら聴くのでした。
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2017年11月08日

『無冠、されど至強』――タヌキになりそな私

 『パッチギ!』を久しぶりに見て、朝鮮高校のサッカーというのが気になりだした。
そこで思い出したのが、手帖にメモしてあった本。
木村元彦著『無冠、されど至強 東京朝鮮高校サッカー部と金明植の時代』(発行「ころから」)。

 『パッチギ!』に出てきたのは京都朝鮮高校のサッカー部であり、この本ではほとんど出て来ないのが残念であったが、めちゃくちゃ強うそうな京都朝鮮高校のサッカー部より東京朝鮮高校のサッカー部のほうが圧倒的に強かったようなので仕方ない。
その東京朝鮮高校のサッカー部の洗練されたサッカーを指導したのが金明植(きむ・みょんしく)。
この人の生い立ちと、日本の公式試合から締め出された朝鮮高校のサッカーの歴史が書かれている。

 これがめっぽう面白い。
つまり「無冠、されど至強」のサッカー部の物語。
公式試合から締め出されたのに、なぜ「至強」と分かるかと言えば、お隣の帝京高校をはじめ全国の強豪校が積極的に試合を申し込んできたから。
そして、そこから北朝鮮での遠征試合まで実現してしまう。
『パッチギ!』の1968年、京都朝鮮高校のサッカー部のアンソン(沢尻エリカが演じていたキャンジャの兄貴)が北朝鮮に渡ってワールドカップ出るぞ!と言っているのは、66年のワールドカップで北朝鮮がベスト8になっているから。
その北朝鮮では「至強」であるはずの東京朝鮮高校のサッカー部も歯が立たなかった、という話も面白い。

 という読みだしたら止められない本で、読み終わると体がなんだかタヌキになっているような気がしました。
東京は浅草に棲息する池上タヌキ之介は、京都を徘徊していたころよくこの手の本を読んでいましたから・・・
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2017年11月07日

別の在り方のコミュニケーションーー「井筒語」で考える

 わたしの住む越前市の隣の町の中学で、副担任の厳しすぎる指導で生徒が自殺してしまったという事件がありました。
隣の町、同じ県のことだから、いろいろとマスコミには報道されない情報が入ってきます。

 その中で気になったのは、「悪くとれば『執拗な指導』、よく言えば『熱心な指導』」という見方です。
その指導をしていた副担任の先生は、小学校からその生徒を指導していたそうです。
おそらく少しコミュニケーションに問題のあるその生徒になんとかふつうのコミュニケーション能力を身につけさせて、卒業させようと指導していたように思います。
そうゆう意味では「熱心な」先生なのだと思います。

 しかし、ふつうの、分かり合えるコミュニケーションだけがコミュニケーションでしょうか?
そう思い込んで、その生徒を社会に出てもふつうにコミュニケーションできるように教育することがベストと思い込んでいるところに「執拗な」「厳しすぎる」指導が生まれてしまったように思います。

 できないならできないという前提でもっと別のコミュニケーションがあっただろうに・・・
みんな一緒に分かり合える、と考えるのはある意味危険ですらあると言えます。

 というのは、このまえ、井筒監督の『パッチギ!』を見直していて気が付いたのです。
この監督が不良少年の喧嘩を見事に撮るのは、「こいつらはアホやから喧嘩以外のコミュニケーションを知らんのよ」と言葉のへたくそな不良たちを愛しているから。
だから、その不良たちの喧嘩は妙におかしい。

 ま、いろんな表現があるわな。そやけど、痛いのはやっぱいかんでぇ・・・と井筒語でおおらかに考えれば、あの悲劇は避けられたのではありますまいまいか?
「そうか、できんか?しゃーないな・・・そんなら、こんなんやってみよか」とか・・・
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2017年11月01日

ガラス拭きのコツ――哲学とは関係ありません

 10月22日の夜、台風の通過によって、本堂の障子がほとんど破れて、その張替えに一日かかったことは書きました。
そのあと、報恩講にお迎えする坊様方の控室(12畳間と10畳間)の廊下のカーテンを開いたら、あら大変。
大正時代のガラス障子なのですが、そのガラスに細かい木の葉やら土ぼこりがべっとりと張り付いているのを発見。
この間ガラス拭きしたばかりなのに・・・。

 しかし、そうも言ってられらないので、外側だけでもガラス拭き。
それだけでも、私の心のように、ガラスは透明でピカピカになりました。

 というわけで、最近、私が発見したガラス拭きのコツをここにお知らせしましよう。

 まず、かたすぎない程度に絞ったタオルでガラスの汚れをぬぐう。
 しかし、それをいくら繰り返しても、糸くずなどがどうしても残る。
 そこで、新聞紙をぐしゃぐしゃにして、ガラスに残る水分を拭うようにしてガラスを拭き上げる。
 すると、インクの油分で残っていた汚れも取れてガラスはピカピカになります。

 やはり、新聞は紙のものを配達してもらわねばいけません。
(新聞紙を濡らして・・・という方法もありますが、もひとつでしたので、この方法でやってみました。また家庭用洗剤などを使うと洗剤分が残って妙な縞模様が出てしまいます。)
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2017年10月23日

な〜んも言えねぇ――ちょっと停電しました

 総選挙、見事に予想が外れました。
「隠れ反自民」というのは存在しなかったですね。
むしろ、アベ政権を支持するかと問われれば支持しないと答えるが、投票は自民党に投票する「隠れアベ支持」が多かったということなのでしょう。
隠れてまで支持するか!

 と、ガックリ来ているころ、わが越前ではものすごい暴風雨。
本堂の障子がほとんど敗れ、本堂が水浸し。
エッチラオッチラ、畳を上げて、障子紙が吹っ飛んだところに段ボールを貼るというトホホな状態になってしまいした。
というわけで、本日は一日中、本堂の障子張り。
腰が痛いっす。

 しかし、停電は昨日の夕方の約1分間だけ。
有難いことです。
この先、こういう形でインフラがきちんと守られる日本でいられるのでしょうか?
ちょっと不安になった夜でした。
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2017年10月20日

選挙予測が分からない――誰が隠れているのか?

 いよいよ明後日が衆議院選挙。
雨にも風にも負けず選挙に参りましょう。

 なのだけれども、どうも新聞の予測がよくわからない。
自民党が300議席をうかがうという予測。
「わからない」というよりも「わかりたくない」という方が正確かもしれない。

 しかし、現アベ政権の不支持率が支持率を上回るというアンケート結果が出ているのに、自民党が大勝という選挙予測はヘンだ。
ヘンですよね。

 ということは、トランプ大統領誕生の時のように「隠れトランプ」みたいな層がいるのではないか?
これを新聞報道は読みに入れていないから、不支持だけど大勝という訳の分からない予測になっているのではないか。

 で、隠れているのは誰なのでしょう。

 今どき、「アベ支持」なんて言うのは恥ずかしい、だから「アベ不支持」と答えたけれども、実はアベ支持という「隠れアベ支持層」

 今どき、自民党不支持というのは非国民みたいでみんなから冷たい目で見られるから自民支持と言っているけど、実は今回は自民には入れない、という「隠れ反自民層」

 この「隠れ○○」のどちらが多いかで、今度の選挙の結果が決まる。
 で、わたくしカドワキは「隠れ反自民」が実はけっこう多い、なぜなら最近「反自民」に対するバッシングがマスコミでもSNSでもけっこうえげつないから。

 というわけで、実は言われるほど大勝しない、過半数をやっと越えるかどうかぐらい、と予測してみます。
当たらなかったら、バカにしてください。
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2017年10月11日

なみだ、なみだのつづれおり――キャロル・キングのハイドパーク・コンサート

 キャロル・キングの『つづれおり』が発表されて、昨年で45年。
つまり、1971年の作品ということですね。
それを記念して昨年の7月、イギリスはロンドンのハイドパークでコンサートが行われ、その記録DVDが発売されました。
『つづれおり』のレコードの曲順で全曲演奏している・・・などの情報は以前から知っていましたが、キャロル・キングの野外コンサートなんて、その場にいなかった者があとから見ても散漫でつまらないだろう、と思って買わずにおりました。
が、国会はわけの分からん解散はするわ、民主党は小池百合子に身売りするわで、世の中ぜんぜん楽しいことないなあと思い、じゃ、キャロル・キングの野外コンサートでもみてみるか・・・ということになったわけであります。

そしたら、お父さん!
冒頭から洒落た演出。
昔の仲間がビデオ主演。
そして、74歳のキャロルが登場。ダニー・コーチマーも!
そして、アルバム通りの進行。
なんだか涙がぽろぽろ出てきて困ってしまうのでした。

 およそ40年ほど前にデンコさんから薦められて初めて聴いたときは、なんだかもっさりしたアルバムだなぁと思って聴いたことを覚えています。
それでも、何度も聴きました。
歌詞もいくつかの曲は覚えるくらいでした。
しかし、キャロルの他のアルバムも買おうというほどのファンにはなりませんでした。
が、今でも時々聴いてしまうアルバムです。

 こうしてライブで、74歳のキャロルが唄うのを聴くと、この『つづれおり』というアルバムが奇跡的によくできたアルバムだったのだなぁ、といまさらながら感動します。

 You've got a friend.
ホント、いい曲ですね。
年配の観客がみんな唄っているのを見るだけでも、いろんなことが思い出され涙、涙。

 後半は、ゴフィン&キング時代のヒット曲。
(そのころの二人がバックに映ります。涙、涙)
もちろんロコモーションも!
しかし、10代から世界的なヒット曲を書いていたんですね。
ホント、すごいお婆さんです。
posted by CKP at 13:28| Comment(0) | 雑想・戯言 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年10月05日

さよなら、トム・ペティ――私上最高のコンサートでしたよ

 トム・ペティが急死しました。
突然の心臓麻痺で66歳。

 トム・ペティとハート・ブレイカーズの「ルイジアナ・レイン」が流行っていたころ、大阪で公演があったのでO木くんと行きました。
まだ、アルバムは1枚しか出ていないころだったと思います。
ストレートなロックンロールが気持ちいい!
ハート・ブレイカーズとかルイジアナ・レインという、ベタだけど潔い命名センスにもひかれたんだと思います。
大阪の小ぶりのコンサートホール(どこかは忘れた)に駆けつけたのでした。

 観客は30歳以上のおっさんばかり。
僕らももう30歳だったか?
最初は、みんな、どれくらいやるか聞いたろやんけ、という感じで腕組みして椅子に座ってきいていたのです。
ところが、演奏が進むにつれて会場がじわじわ熱くなる。
そして、エンディング、アンコールの頃は大歓声で総立ち。
ストレートなロックンロールが気持ちよかった。

 わたしのロック・コンサート体験史上、ベストといってもいいコンサートでした。
ロックンロールの力、バンドの力が自然に伝わってきました。

ホントに気持ちの良いすがすがしいコンサート、ありがとうね!
合掌。
posted by CKP at 13:37| Comment(0) | 雑想・戯言 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年10月03日

ひとを見る目――タヌキが見る目

 人を見る目がない、という人がいますね。
民進党の元(?)代表(また名前が出て来ない)なんかがその典型でしょう。

 代表になって、幹事長にヤマオ某の名を挙げて失敗し、コイケ某と対等に組んだと思っていたら完全にコケにされ・・・つくづく人を見る目がないのね。
どうして、あの人は人を見る目がないのでしょう。
目が暗くて、いつもおどおどしているからでしょうか?

 私のまわりで「こいつの人を見る目は確か」と思ったのは、タヌキ池上でしたね。
相手はタヌキだから、私の「人を見る目」はこの際関係ない。

 このタヌキは、私が「持病のシャクを起こして路上にうずくまった時、ワールドカップ予選の中継が始まりそうだったらどうする?」と尋ねたとき、間髪入れず無慈悲に「キミをほおってワールドカップ予選を見る」と言い放った冷たいタヌキである。
が、その冷たさは伊達ではない。
このタヌキ、何事もクールに俯瞰しながら判断を下すことが出来るのである。
自分の置かれた状況を冷静に判断しながら、相手を判断することが出来るのである。

 自分に好都合な状況を設定して、そのうえで相手を都合の良いように見ると、(思い出した!)マエハラ某のようなババを引くことになるのである。

 自分は「人を見る目がないな」と思う人は、池上タヌキ之介の本をじっくりと読んでみたらどうか?
タヌキになってしまっても、私は知らないが。
posted by CKP at 13:41| Comment(0) | 雑想・戯言 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年10月01日

なめたらいかんぜよ――ごまめの歯ぎしりかもしれんけど

 このブログは共同ブログなので、政治に関する個人的な意見は遠慮すべし、というのが不文律になっていると思っています。
とりわけ、このような総選挙の前にはそのような意見は遠慮すべきだと思います。
が、この間の希望だか絶望だか野望だか知らぬが、東京都都知事の動きがあんまりなので書いてしまいます。

 何があんまりなのかというと「国民をなめ切っている」ということです。
とにかくマスコミで取り上げられれば、選挙は勝てる。選挙民はテレビで目立つ政党に投票すると、選挙民をなめ切っていることです。
こればアベの「選挙で勝てれば、モリ・カケは無かったことになる」という選挙民のなめ方と大同小異でありましょう。
(もちろん、小池にすり寄った野党党首(名前が思い出せない!)なども選挙民に対する敬意などみじんもないのでしょう。)

 ま、それほどまでになめられた選挙民の方にも非はあるのでしょうが、ここまでなめられた場合、どうなのでしょうか?
「なめたらいかんぜよ」と夏目雅子の如く啖呵を切りたくなっているのではないでしょうか?

 もちろん、選挙は戦挙でもあるのだから勝たねばならないのでしょう。
敵の敵は味方という論理もありえるでしょう。
しかし、その場合は、この部分で共闘ね、という一線をきちんと引いたうえでの共闘となるはずです。

 選挙の公示までそれほど時間がありませんが、それまでには信念を持った人たちがそれを大事にしてまとまることを願います。
posted by CKP at 21:21| Comment(0) | 雑想・戯言 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年09月20日

カツオたちよ!――明日から授業が始まります

 明日9月21日より、大谷大学の後期授業が始まります。
ということを考えたら、この日曜日から喉が痛くなり熱が出てきました。
からだが授業を嫌がっているのですね。
お医者さんに行ってお薬もらって、なんとか明日に備えています。
いきなり休講ではありません。

 それでだ、わがゼミの学生諸君。
ほとんどの学生諸君は夏休みの宿題である9月10日締め切りのレポートを提出している。
のであるが、数名のカツオがまだ提出しておらん。
バッカモ〜ンと波平になって、いまこうして叫んでいるカドワキであります。
明日の12時までは、待とう。
わがゼミのカツオ諸君、今からでも遅くはない。
提出するよーに。
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2017年08月28日

ヘーゲルは「規制緩和」を支持するか?――「見えざる手」を手繰り寄せる

 いきなりですが、ヘーゲルの『法の哲学』についての話です。

 ヘーゲルは『法の哲学』で「家族」と「国家」のあいだに「市民社会」を置き、そこで「ポリツァイPolizeiについて論じている。
このポリツァイと言うのは、現代ドイツ語では警察のことであるが、ヘーゲルは「行政」とか「行政介入」というような意味で使っている。(中公の世界の名著では「福祉行政」と訳されている。)

そこでヘーゲルは格差社会の貧困について論じたり、行政による「規制」について論じている。
現在さかんに主張される「規制緩和」のあの規制である。

 ヘーゲルは、アダム・スミスの『国富論』などを研究し、市民社会を家族と国家のあいだに置いたくらいだから、スミスの言う「見えざる手」を認めている。
諸個人が私利私欲から商工業の活動にいそしんだとしても、(神の)「見えざる手」が働いて、正しい均衡が現象するであろう、というあの「見えざる手」の理論である。
(加計問題で先の山本某という大臣が「獣医学部をどんどん作って、どんどん獣医を作っていけば、最終的には「見えざる手」が働いて良質な獣医だけが残るであろう」と言っていたアレである。)
したがって、ヘーゲルも「規制緩和」論者のように見える。
アベ君が「岩盤規制を突破する戦略特区」と言うのを支持するように見える。

 しかし、ヘーゲルはその市民論に「行政介入」という節を設けて、「236節」では「規制」についてその必要性を論じている。

「生産者と消費者とのそれぞれの異なった利益は衝突することがある。なるほど全体的にみてその正しい関係はおのずから成立するのだが、その均衡のためにはまた両者に関する意識的な規制も必要なのである」
つまり、生産者と消費者の利益は放っておいても「おのずから」見えざる手によって「正しい関係」に至るのではあるが、「また」規制も必要だというのである。
そのままにしておいても「正しい関係」になるのなら、何故「規制」が必要なのか?

それは、「波状的な危機や中間状態の継続を短縮し和らげるために」必要だというのである(この節のヘーゲル自身の註解の一番最後の文の部分訳。この「中間状態」には「衝突は無意識的な必然性の道程を経て平衡化されるはずである」という説明がついている)。
つまり、「ただしい関係」をすばやく成立させるために、「規制」が必要だというのである。
「見えざる手」の働きが完了するまでの時間的経過を短縮するために、規制が必要だというのである。
これは、現在あまり論じられることのない視点である。

「規制というのはある業界の悪者たちが自分たちの利益を守るために、規制をいっぱい設けて新規参入への道をふさぐものだ」と言うのが、規制緩和論者の主張である。
したがって、「規制緩和」は正義の味方ということになる。

しかし、行政介入としての「規制」は、何よりも良質な商品やサービスを消費者に提供するためにあるはずである。
悪質な業者を規制して消費者の利益を守ろうとするのである。
それは「見えざる手」によって自然に必然的に実現するはずである。
安くても粗悪な商品を売る業者はそのうちに消費者に見限られて破産するであろう。
ヤブ獣医には誰も寄り付かなくなるだろう。
しかし、それには時間もかかるし、多くの消費者が多大な犠牲を払わねばならない。
それゆえ「見えざる手」に代わって、その「見えざる手」の仕事をすばやく仕上げるのが行政介入による「規制」であるとヘーゲルは言うのである。

これは、今一度、耳を傾けるべき卓見ではなかろうか。
と同時に、官僚諸君は、そのような視点であるべき行政介入を構築していかねばならないだろう。
グローバル、グローバルなどと浮き足立っていると、そのうち「国家試験などという規制も廃止しろ」といわれるのだから。
グローバル経済に邪魔なのは国家の規制、そして国家そのものであることは、TPPなどがよく示していますね。
その点でトランプにちょっと期待してしまった私です。
 
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2017年08月20日

西尾浩二・朴一功訳 プラトン『エウテュプロン/ソクラテスの弁明/クリトン』発刊!――西洋古典叢書

 京都大学学術出版会の西洋古典叢書から、大谷大学の朴一功先生と西尾浩二先生の翻訳されたプラトンの『エウテュプロン/ソクラテスの弁明/クリトン』がこの8月15日に発刊されました。

「エウテュプロン」というのは、裁判前の予備審問に向かうソクラテスとエウテュプロンという人物との「敬虔」をめぐる対話。
これを西尾先生が訳しておられ、あとの「ソクラテスの弁明」「クリトン」を朴先生が訳しておられます。
つまり、裁判前のソクラテス、裁判でのソクラテス、裁判のあとの獄中でのソクラテスがこの一冊において描かれているというわけです。
そして、先に同じ叢書で朴先生が訳されている「パイドン」を並べると、裁判前から裁判を経て獄中で死刑に赴くソクラテスまでが描かれているということになります。

 わたしは「エウテュプロン」というのは今まで読んだことがなかったので、これを機会にこのひとつの流れなの中でソクラテスを、そしてそのソクラテスを描くプラトンを考えてみたいと思います。
 
 「弁明」や「クリトン」をパラパラと読んでみると、今まで読んでいた翻訳とちょっと感じが違います。
なんかすっきりしているのです。
しかし、大理石でできた「普遍的人間」「理想的人間」が対話している・・・というのでもない。
ちゃんと一人の体温も体臭ももったおっさんが話しているという感じなのですね。
そして的確な注、詳細な解説できっと新たなソクラテスに会えそうな予感がします。

 夏休みのカツオ状態に安住していたカドワキを、この本はまずは「バッカモ〜ン」と叱ってくれたのでした。
ほんと、うちの古代ギリシア人はよく働きます。
posted by CKP at 17:44| Comment(0) | 雑想・戯言 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年08月03日

カツオになりそう――悩ましい夏休み

 試験週間もレポートの締め切りも過ぎて学生諸君は夏休みです。
しかし我々教員は試験やレポートの採点。
以前はお盆の前に採点締め切りがあり、それまでにエイヤッと採点して教員も夏休みに突入していたのでした。

 ところが、最近はネット環境が発達したため、我が教務課は親切にも「締め切りはお盆過ぎ。自宅からネット入力でどうぞ」と言ってくれるのでした。
ありがたい!ようですが、これが悪魔のささやきです。
山のようなレポートを見ると、「締め切りはそうとう先だし、そんなに慌てることないか」というささやきがどこかからか聞こえてくるのです。

 かくして、お盆を過ぎたころ、あわくって採点している夏の終わりのカツオのような我が姿が見えるのでした。
誰か、いま現在カツオ状態に突入せんとしているわたくしを、波平さんのように「バッカモ〜ン」と叱ってくれますまいか・・・
posted by CKP at 16:09| Comment(0) | 雑想・戯言 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年07月19日

腰のフラメンコ――アントニオ・カドワキ、腰がとってもベラフォンテ

 このあいだの連休は、お坊さんの勉強会で三日間みっちり一楽真先生のお話を拝聴しました。
何度かハッとさせられる充実した聴聞体験でしたが、場所はお寺の本堂。
座ってお聞きするというのは、あの暑さの中、なかなかつらい。
ときどき胡坐をかいたりして、しびれやひざの痛さをまぎらわしながら拝聴しました。
腰、痛い。

 で、火曜の朝、大学に出るときちょっとしゃがんだら、腰にメリメリと魔女の一撃。
以来、腰がとってもベラフォンテ。
つまり、いてて、いてて、という「バナナ・ボート」状態になったのでした。

 それで現在は、バンテリンの腰サポーターをしているのですが、この黒いサポーター、なんだかフラメンコダンサーの腰巻のように見えなくもない。
思わず「すきなんだけどーぉ」と「星のフラメンコ」を口ずさんでしまいました。
で、この腰サポーターをしているときは、アントニオ・カドワキと呼んでくだせぇ、というはなしでした。
ホセ・ガドワーキってのもいいですね。
「痛いんだけど〜、チャチャチャ!!!」
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2017年07月12日

三代先は猿――佐野洋子『あれも嫌いこれも好き』より

 佐野洋子さんの『あれも嫌いこれも好き』というエッセー集の次の文章を思い出しました。

「〇子様
 私の友達が結婚する時、相手方が「釣り書き」というものをよこし、それは家系図だったそうでなかなかの家柄だったようです。私の友達は父親に「こんなものが来たよ」と見せると父親は「うちは三代先は猿だったと書いておけ」と言ったそうで、それから四十年たちますが、猿の子孫もなかなかの家柄も仲良く家族をやっているので、本当に日本は民主的国家となっています。」

 ところが洋子さん、近ごろはそうでもないようです。
野党の党首が日本のほかに別のアジアの国の国籍も持っている(残っていた)ということで、問題になっています。
おそらく問題にしているのは、ごく一部の人たちでしょうが、日本の国籍がはっきりしていれば問題ない、とその党が言いきれないのがなさけないですね。
そんなことだから、その野党はいつまでたっても信頼されないのでしょう。

「三代先は猿」、そんなおおらかさ・・・が足りません。
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2017年07月11日

平田オリザの「読書日記」――伊東光晴『ケインズ――”新しい経済学”の誕生』

 暑い!なんも考えられない!
というわけで、今朝7月11日の毎日新聞の「読書日記」。
今週から執筆陣に加わった平田オリザ氏の記事。

「17歳の時にこの本に出合ってから、幾たび私はこの小さな新書を手に取ったことだろう」と始まる。
この新書とは、岩波新書の『ケインズ――”新しい経済学”の誕生』のこと。
概要は次の3段落にまとめられている。

「ケインズは、それまで長く信じられてきた古典的な自由経済への妄信を打破した。政府はできるだけ経済活動に関与しないという夜警国家から、福祉国家への道を開いた。
 ケインズはまた、当時、植民地債を持ち、その利息によって生き延びる既得権益の階級を「非活動階級」と捉え、その投資を国内へと振り向ける努力をした。
 このケインズの理論を支えたのは、徹底した知性主義であった。人間の知性を信頼し、合理的な政策によって社会は改良できるとケインズは信じ、また行動する。」

 そして、この本ではあまり触れられていないというケインズの芸術との関わりを平田氏は強調している。

「ケインズは、「もはやこの国は世界に冠たる大英帝国ではない」と考えた。そのイギリスで、あの小さな島の中で、旧植民地から流入してくる多様な人々を含めて、国民が誇りを持って暮らしていくためには、芸術・文化の力を使うしかないとケインズは考えたのではなかった。」

 平田氏はこのケインズをうけて、このさまざまな人々が暮らす狭い日本で、「人々をつなぐのは経済ではなく文化だろう。あるいは多様性を理解するための芸術だろう」と述べる。

 規制緩和や関税撤廃で国家の「夜警国家」化が「善」とされる現在に向けての発言として興味深く拝読したのでした。
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2017年07月05日

大拙忌公開講演会――7月6日は明日です

 都民ファーストといのもなんだかなー、といろいろと考えていたら、もう明日に迫った大拙忌のご案内をするのが遅くなってしまいました。

 昨年までは、主に鈴木大拙の謦咳に接した方々から、大拙の思想を語っていただく、というのが大拙忌公開講演会の趣旨でした。
しかし、没後50年を過ぎた今、それもだんだん困難になってきております。
というわけで、今年から、宗教をめぐる、あるいは命をめぐる問題を宗教学や哲学の視点で考えてゆく講演会にしていきたいと思います。
もちろん、大拙そのものを考えるということもありますが、もう少し広い問題を考えてゆきたいということです。

 というわけで、今年は、この一年間、アメリカで在外研究をされていた藤枝真先生から、とびきり新鮮でホットな話題を提供していただき共に考える場を持ちたいと思います。

大谷大学宗教学会 大拙忌記念公開講演会
 1017年7月6日(木) 16時20分より17時50分
 会場:大谷大学 慶聞館(新しい建物)2階K208教室

 講題「日米生命倫理における言説スタイルの変化」
 講師 藤枝真先生(大谷大学文学部哲学科准教授)

 ご案内が遅くなりすみませんでした。
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2017年06月22日

詰将棋を解いて、ヘーゲルを読もう!――弁証法は藤井クンに学べ

 藤井4段、すごいですね。
とうとう28連勝です。
中三でこんなことになってしまって、残りの人生はどうなるのでしょう――などと、よけいな心配をしてしまいます。
もう、誰か負かさんといかんのちがう?

 というわたしも、昔途中で放り投げた詰将棋の本を引っ張り出して、アタマを鍛えています。
三手詰めの問題を、うんうん言いながら解いています。
63歳からでも遅くはない!

 ところが、そのあとヘーゲルを読むと、あら不思議、今までのどうしても読めなかったところが、するすると詠めるではありませんか!
おそらく、ヘーゲルの文章を、詰将棋を解くように読んでいるのでしょう。
つまり、こちらがこう出れば、あちらがこう出て、そうすればこう出る。
つまり、対話的な運動を文章に読み込んでいる、これぞ弁証法!

 これ冗談ではなく本気です。
将棋の論理とヘーゲルの論理、けっこう共通点があります。
なにせ、死んだコマが生き返るのですから。
ヘーゲルではそれをガイストつまり精神と言っとりますです、はい。

 藤井4段の健やかな今後を祈ります。
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2017年06月20日

うんこ哲学ドリル――やけくそになったわけではない

 先週末、テレビで国会中継をみていて、怒りのあまり憤死しそうになりました。
思わず、「アベのクソ野郎」と叫びそうになりましたが、その言葉をグイと飲み込みました。
それでは、あまりにも失礼。
もちろん、クソつまりうんこに失礼ですね。
うんこは、生きていく上にたいへん大切なものです。
きちんとウンコがあることで、明るい毎日が築かれるのです。
アベなどにはもったないことばです。ウンコ、ごめん。

というわけで、待望の「うんこ哲学ドリル」。

〇〇を埋めよ。

1.カドワキは「我、うんこす、ゆえにわれあり」と言うが、〇〇〇〇は「我思う、ゆえに我あり」と言った。

2.「人間とは、食物を口から摂取し肛門からうんことして排泄する一本の管である」とカドワキは言うが、パスカルは「人間は考えるひと茎の〇である」と言った。

3、ヘーゲルは「ミネルヴァの〇〇〇〇は夕暮れに飛びたつ」と言ったが、カドワキのうんこは夕暮れに飛び散る(ちょっと下痢気味なのね)。

4、カドワキは、「うんこは生きている」と主張するが、ニーチェは「〇は死んだ」と述べている。

 こういうのなら、スラスラ書けるのですね。
小4男子の感性ちゅうことやね、わし。
posted by CKP at 13:33| Comment(0) | 雑想・戯言 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする