2019年01月16日

ゴリラの褌で読書欄――毎日新聞読書欄にカドワキ登場

 この前の日曜日の毎日新聞の読者欄にわたくしカドワキが登場いたしました(と『同朋』編集部から連絡あり)。
それで、新聞を探し出しその記事を探す。
よ〜く探さないとわからない。
1段20行たらずの小さな記事ですが、『同朋』での山極寿一先生との対談相手としてたしかにワタクシ・カドワキの名前が登場しております。

 もちろん山極先生の発言について「面白い」という紹介記事ではありますが、ともかくもその発言を引き出した対談相手として新聞の読書欄に名前が登場するなど、一生に一度あれば、ま、大騒ぎして喜んでもよろしいかと思います。

 時間が一時間しかいただけなくて、とにかくいろんな質問を次から次へと浴びせかけた、対談というよりインタヴューでした。
あのまとまらない流れを、うまくまとめてくれた同朋編集部に改めて感謝です。
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2019年01月05日

本年もよろしく――楽しい記事を書きたいよ

 2019年ということになりました。
コンピュータの2000年問題で騒いでいたのがついこの間だったと思うのに、もう19年。
4月からの2019年度は、小生カドワキの大谷大学での最後の年度になります。
晩節を汚さぬよう、穏やかに過ごしたいものです。

 というわけで、このブログへのエントリーが少なくなっているわけではございません。
なんだかね、書こうという気がなかなか起こってこない。
世の中を見渡せば、もういやのことばかり。
それを書けば不満ばかりになってちっとも楽しくない。
それと、今書こうとしている論文がなかなかまとまらないということもあるかも知れません。
世の中のことはどうにもなりませんが、論文の方はなんとかできるので、これをさっさと片付けて、最後の年、もっとエントリーを増やしたいと思いますのでよろしくお願いします。

 よろしくお願いついでに、現在絶賛発売中の月刊『同朋』でカドワキが山際寿一先生にインタビューしている記事がなかなか面白いで、どこかで目に止まったらお買い求めください。
山際先生のあまり聞けないお話しを引っ張り出したのがカドワキの手柄です。
また巻頭インタビューはクレイジージャーニーのヨシダナギさん。
それに(藤)こと藤枝真先生も、大谷大学文学部哲学科宗教学・死生学コースの紹介のページに登場しておられます。

 ということでヨロシク。
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2018年12月30日

連絡しないで、喪中なんだから〜――アメ横女学園的年の暮れ

 今年は、母が亡くなったので「喪中」。
というわけで、アメ横女学園の「暦のうえではディセンバー」が胸を張って唄える年末となりました。

 11月中に「喪中で年賀状ごめん」ハガキを出したので、けっこう余裕のある年の暮れとなりました。
と、油断していたら、この寒さでどうも体調がヘン。
耳鳴りがしたり動悸がしたりしていましたが、昨日あたりからその不調が風邪の症状に収斂してきたようです。
明日の除夜の鐘からお正月三が日のお年始の挨拶(お寺のこれは喪中だからと言って休めない・・・とほほ)に備えて、あったかくして寝ます。

 皆様、ごきげんよう。
よいお年を。
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2018年12月24日

サンタクロース、おそるべし!――『ヘッドライト』はクリスマス映画だった!

 このあいだ、ジャン・ギャバンとフランソワーズ・アルヌールの『ヘッドライト』を見て驚いた。
この映画は、1955年に制作されているのですが、そこにはすでにサンタクロースが堂々とフランスの市民権を得ているのです。

トラック運転手のジャン・ギャバンと今でいうドライブ・インのウエイトレスのちょっときわどい会話の中に「サンタクロースを信じるほど子供じゃないわ」というセリフが出てきたり、夜が明けて帰ってきたためサンタクロースとして子供にプレゼントを渡せなかったギャバンを奥さんがなじるというのが、けっこう重要な場面になっているのですね、この映画。

 レヴィ=ストロースが「火あぶりにされたサンタクロース」(1952年)で報告しているディジョン大聖堂の前での異教の神としてのサンタクロースの火あぶりが1951年。
それから4年後のこの映画では、そんな火あぶりがあったことなどすっかり忘れられて、フランスでもサンタクロースの爺さんはでかい面をしているのです。

「私たちは、子供らにとってのサンタクロースの権威を傷つけないように、いろいろな犠牲を払って、気を配っている」とレヴィ=ストロースは書いていますが、そのような犠牲を払わせる不思議な力がサンタクロースにはあるということでしょう。

 恐るべし、サンタクロース!

 しかし、太った中年の親父がなんでフランソワーズ・アルヌールと恋に落ちるのか!
これだけは、なんど見ても納得がゆかないぞ!怒るべし、カドワキ!
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2018年12月12日

「魂の不死について」――朴一功教授ご講演いよいよ明日

 明日12月13日午後6時より、大谷大学西哲・倫理学会の公開講演会が開催されます。
朴一功先生の「魂の不死について」というご講演。
場所は赤レンガの二階の尋源講堂。

 朴先生と言えば、プラトン、アリストテレスなど古代ギリシア哲学の現代における世界的研究者。
その碩学が「魂の不死」というプラトン哲学の核心についてお話してくださいます。

 朴先生は、いよいよこの3月に退任ということで、この講演は「最終講義」の意味合いもかねており、卒業生も参加しやすいように午後6時からの開催だそうです。
いっぱい集まるんだろうな・・・と、ちょっと複雑気持ちでいるのは、来年度に退任するカドワキです。
あたしのばやい、こういう機会があっても卒業生が来ないという事態が想定されて、ちょっとね、複雑なんです。
ま、ほとんどほったらかしでしたから・・・・こんなことになるなら、もうちょっと親切に指導しておくんだった・・・

それはともかく、またとない機会ですから、卒業生でなくてもふるってご参集ください。
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2018年11月27日

ほぼ、たぶん、完売御礼――『哲学入門 死ぬのは僕らだ!』

 今を去ること5年前の2013年9月に発売された我が拙き著『哲学入門 死ぬのは僕らだ!』が、おそらく完売となった模様です。
と、いやしくも著者のくせにあやふやな情報しかないのが悲しい。
つまり、出版社からは品切れになったから増刷しましょう・・・などという声がかからない。
しかも、編集者が退社してしまっているから、その品切れ状態がいつごろからかもわからない。

 まことにトホホ状態なのですが、ともかくも8000部刷られたあの本が完売したようです。
版元の品切れ状態は一年前からだったのですが、密林の狩猟者はどこからか新品本を集めてきてアマゾンでは最近まで、とぎれとぎれですが売られていました。
手元にほとんど持っていないことに気が付いた著者自身もだいぶ買いましたよ。

 今日見たら、中古本が6,000円ぐらいで売られていましたが、私なら買いません。
6,000円の価値がないというのではなく、そのような形でも金儲けには協力したくない、ということです。
デジタルテキストでも読めますから・・・我ながらセコイ。
もっとも1円という古本もありますけど・・・これは、我が本がちょっとかわいそうです。

 というわけで、拙著をご購入いただきました方々に、心からお礼を申し上げます。
5年もたつともう少しここのところははっきりと書ける…という箇所が目についてきますが、そこは読者の方々独自の読みを展開していただければありがたいです。
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2018年11月20日

「下品な表現が多い」――オイオイの言葉

 非常勤として講義している某大学で授業アンケートをとりました。
 「要望」を書く欄には「ノートがとりにくい」とか「黒板が見えにくいのでカーテンをひいてください」「どこが大事なのかわからない」という苦言に交じって「下品な表現が多い」というのがあり、目が釘付けになりました。

 下品――はじめて面と向かって言われました。
 相当ショックです。

 ということは、今まで自分は上品な人間と思っていたということでしょうか?
ま、ことさら上品な人間とは思っていたとは自分でも思いませんが、少なくとも「下品」とは思っていなかった。

 なんか、自分の人格を否定するような臭いウンコをしたような気分です――というような表現を授業中発言しているのかもしれん。

 というか、講義を「上品/下品」という評価基準で判断されたことにショックを受けているのかも知れません。

 というわけで、今度からは上品な講義を心がけるカドワキです。
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2018年11月16日

「冗談じゃねえよ、あんなもん」――オイオイの言葉

 昨日の本家「折々のことば」は、柳家小三治師匠のことばでした。
『別冊 太陽』の小三治師匠と古今亭文菊さんという若い噺家さんの対談からの引用でした。
若かりし小三治師匠が師匠の小さんからバッサリと袈裟切りにされる話も紹介されておりました。

 そして、この対談で小三治師匠、文菊さんにけっこうきつい。
バッサリと袈裟切りという言葉がポンポン飛び出しています。
あのすっとぼけたような高座での小三治師匠からは想像できない厳しい言葉が飛び出すのです。

 その小三治師匠は、高校生のとき「しろうと寄席」というラジオ番組で15週連続出場しているのですが、そのころは圓生の「モノマネか」と言われるくらい圓生を尊敬していたそうです。
しかし、いつしか、何度か聞いているうちに「震えなくなっちゃう」ことになる。

 そんなころ、尾上松緑の「圓生?冗談じゃねえよ、あんなもん」という言葉に出会うのです。
「いいかね、あんなもん、なんだよ。落語じゃねえよ、あんなものは。下手な歌舞伎じゃねえか」

 それを聞いたとき「背中をムチで叩かれたようにビリとして」、震えなくなった「理由に気付かされた」んだそうです。

 小三治師匠のなかの霧が一気に晴れたのでしょう。
こうゆう、何かをズバリと本質を突いてくる言葉、すごいですね。

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2018年11月14日

ポール・デズモンドの最大の功績は・・・・――オイオイの言葉

 中山康樹&ジャズ・ストリート『読んでから聴け!ジャズ名盤100選』(朝日新書)という2007年の本をペラペラめくっていたら、デイヴ・ブールベックの次のような発言の引用に目が止まりました。

「ポール・デズモンドの最大の功績は、チャーリー・パーカーをコピーしなかったことだろう」

 これを読んだとき、「すべてが氷解」って感じになりました。
つまり、それまでなんとなくポール・デズモンドのサックスに分かりにくいものが霧のように漂っていたのですが、その霧が一瞬でさっと晴れたような気がしたのでした。

 ポール・デズモンドとブルーベックと言えば、「テイク・ファイヴ」。
 1960年代の「素晴らしき世界旅行」という日立提供の旅番組(久米昭さんが「マサイ族は一晩に40キロ歩く」とナレーションを担当していた)のテーマ曲として流れているのを聴いて、「ジャズってカッコいい」と思った曲。

 そのころ来日したアート・ブレイキーとジャズ・メッセンジャーズのテレビ放送では、「ジャズって激しい」と感じました。
以後、ソニー・ロリンズやエリック・ドルフィーなど「激しい系」のジャズを聴いていると、ポール・デズモンドのサックスというのはちょっと違う、でもどこが違うんだろう?ということになってしまっていたのでした。

 そのような霧を、このブルーベックの言葉は一瞬のうちに解決したのでした。

 よかった、よかった。

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2018年10月31日

王様の(見えない)着物を笑うな――物語る力

 アンデルセンの「皇帝の新しい着物」は、もっぱら「裸の王様」として知られています。
 それは、見えない着物で行列の先頭に立つ王様を子どもが「王様は裸だ!」と指摘したことを、この物語の肝とするという読み方から来ています。

「子どもの登場によって皇帝が《はだか》であるという事実が暴露されること――それはいわば価値の顛倒を意味するものでしょう。(中略)日ごろ社会的に無視され、価値を認められていない存在が、かえって社会の基本的前提として隠されていた矛盾や問題点を鋭く突いてくるのです。それによって、社会を正しい軌道に引き戻すのです。時代の転機を促すこともあるのです。」(宮田光雄『メルヘンの知恵』、岩波新書、2004年、37頁)

 まあ、ここまで大げさな「時代の転機」まで言わなくても、「子どもは真実を言う」という読み方が「裸の王様」という日本語タイトルを支持しているのでしょう。
このような読み方もありかも知れません。

 しかし、別の読み方もあり得ます。

 この「見えない着物」をつくった二人の機織り師とアンデルセンその人を重ね合わす読み方です。

この機織り師は最初から「ペテン師」と紹介されて登場します。

「ある日のこと、ふたりのぺてん師がやってきました。ふたりは、機織り職人と名のって、だれにも想像のつかないほどけっこうなきれを織ることができる、といいふらしました。ただ、いろやがらが、なみはずれて美しいばかりでなく、このきれでつくった着物にはふしぎな特徴があって、じぶんの役目に向いていない者や、または、手におえないおろか者には、それが目に見えないというのです。」(大畑末吉訳、『アンデルセン童話集1』岩波少年文庫、1986年、53頁)

 最初からいきなり「ぺてん師」と紹介されたのでは、最後の子どもの「王様はなにも着ていらしゃらない」という「王様は裸だ!」という指摘は余計なものとなってしまいます。
むしろこの物語は、人々がいかにこのぺてん師に騙されるかを楽しむお話となっていると考えられます。
そう考えないと、この自称「機織り職人」たちが、最初から「ぺてん師」と紹介される意味がなくなります。

 また、この最後の部分が、王様が子どもに裸を見破られてほうほうのていで逃げてゆく、というのではなく「けれども「行列は、やめるわけにはいかない」と、(王様は)かんがえなおされました。そして、いっそう、威厳を張りました。そして、侍従たちは、ありもしない着物のもすそをささげてすすみましたとさ」となっているというのも、「裸の王様」らしくない終わり方です。

 おそらく、見えない着物を楽しむように、お話を楽しむ、それが童話だ、とアンデルセンは考えていたのではないでしょうか?
というのは、アンデルセン自身、若い頃は機織り工場で働き、仕立ての仕事を学んでいたのです。
そして、母親は彼が仕立屋になることを強く望んでいたのでした。
そのころのことをアンデルセンは次のように物語っています。

「仕立屋になる私の運命んうちで、ただ一つ私の慰めで在り、喜びだったのは、仕立屋になったら、さぞかし私の人形芝居の衣裳部屋のために、たくさんの小ぎれや切りくずを手に入れることができるだろう、ということだった」(大畑末吉訳『アンデルセン自伝』、岩波文庫、1975年、31頁)

 アンデルセンはついにはこの「運命」には服することなく、作家になったのですが、そこでは「小ぎれや切りくず」のような民話やエピソードから今に残る童話を書いたのでした。
アンデルセンは、「衣裳部屋」の大好きな皇帝に、それを見る人を映すような衣装を着けさせる「ぺてん師」に、自分を重ね合わせたのではないか・・・というの読みも面白いと思います。

 とすると、アユムの見えない箱運びを笑った大学院生と王様の裸を指摘した「正直な子ども」が、それぞれニュアンスはまったく違いますが、どこかで重なってきます。
posted by CKP at 16:58| Comment(0) | 雑想・戯言 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2018年10月09日

ボクの見えない積み木を笑うな!――アユムの想像力

ボクの見えない積み木を笑うな!――アユムと「裸の王様」

 変な夢を見ました。
 数学の教師をしていて、生徒たちを前にして黒板で問題を解いていました。
なんとか解答にたどりついたとき、生徒の一人が、「それは違うよ」とつぶやきました。
その生徒は、池上タヌキ之介哲司でした。

 オレの夢にまで出てくるなよ!

 というわけで、9月7日の宗教学会のシンポの話です。

 このシンポのハイライトというのはいくつもあってどのように報告してよいか迷うのですが、中でも興奮したのが、アユム君が見えない積み木を運ぶヴィデオでした。

 鷲田清一先生の「無いものを在るものにする」宗教という発言を受けて、松沢哲郎先生が「このヴィデオを見てください」とディスカッションの時に示してくださったヴィデオ。

 チンパンジーのアイと松沢先生が積み木でいろいろと試みています。
アイの息子アユムは相手にしてもらえません。
やることがないので、いくつかの積み木を部屋の隅に運んでひとり遊びを始めます。
しかし、松沢先生とアイは部屋の真ん中で何やら楽しいそうに向き合っているので、相手にされないアユムはひっくり返ったりしてむくれています。
と、アユムが妙なことを始めました。
まるで両方の手で二つの積み木を運ぶようにして部屋の真ん中に出てきたのです。
現実の積み木を運ぶのではありません。
想像上の二つの積み木を両方の手で引きずるようにして運ぶのです。
現実の積み木をよけながら運びます。
その様子があまりに可笑しいので、撮影していた院生が笑ってしまいました。
すると、アユムは「黙れ!笑うな!」と言わんばかりにその院生の壁に向かって怒りの鉄槌を下すのでした。

 このヴィデオを見せていただいて、鷲田先生も私も興奮してしまいました。
何もないところに何かがあるという想像の力がアユムにもある!

 しかし、松沢先生によるとこのような想像力はアユムにおいて示されるのはこの時だけであり、一般にはこのような想像力はチンパンジーにはない、と説明されました。
チンパンジーには、「おままごと」は不可能である、ともおっしゃいました。

 となると、現実において物理的には存在しない神だの仏だのを想像する人間の力は、人間が人間であるゆえの力だ、ということになりゃせんか?
神だの仏だの、天国だの浄土などの存在を信じるのは近代人として恥ずかしい、と考えるのは、人間独自の想像力を恥じることになりゃせんか?
こう私は考えて興奮してしまったのでした。

 それでこの話は、私の「「お話」のお話」という話に続くのでした。

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2018年09月26日

慣れればおいしいクサヤの干物――嗅覚と埋葬

 もう二週間もたってしまいましたが、松沢哲郎先生と鷲田清一先生をお招きしての「ヒトと宗教」というシンポジウム、めちゃくちゃエキサイティングなシンポジウムでしたよ。
松沢先生のビデオを中心とした講演とわっしーの宗教を根本から考えるお話が絡み合ってホントに面白いシンポジウムになりました。

 いろいろと考えるべきことが残されていて、それはオイオイ考えてゆくことにして、今日は「嗅覚」ということについて書いておきます。

 松沢先生が紹介してくださった「ジョクロ」というビデオ(霊長類研究所のHPで見ることができます)、チンパンジーの母親が死んだ娘(ジョクロ)をずーっと抱き続けるという貴重な観察記録。
今まで何回となく見ていたのですが、撮影者の松沢先生の解説ではじめて気が付いたのは「匂い」のことでした。

 チンパンジーの赤ちゃんのジョクロが死んで、それでも母親はジョクロを背負っている。
が、2,3日目から「ものすごい臭気」がしたという。
15メートルほど離れたところで撮影していた松沢先生も「鼻をおおいたくなる」ほどの悪臭であった。
が、チンパンジーたちは何事もないように、死んだ子供を世話している。

 チンパンジーって嗅覚がにぶいのか?
ということではなくて、「悪臭」の範囲が人間と違うということであろう。
たとえば、納豆とかクサヤとかドリアンの匂いを嗅ぐと、悪臭と感じる者とおいしさの予兆を感じる者が分かれるように、同じ匂いでも悪臭かどうかは、その物の属性ではなく嗅ぐ方の嗅覚の在り方に関係するのであろう。

 人間の場合は、動物が腐ってゆく匂いは「悪臭」と感じるようにできている。
ゆえに、仲間の死体を埋葬する。
のか、埋葬するようになって、死体が腐ってゆく匂いを悪臭と感じるようになったのか?

料理も死体を扱うことであるから、焼くとか煮るということも嗅覚と関係するのだろう。

嗅覚と進化というのはあまり論じられることがないように思うので、とにかくびっくりしました…ということを書いておきます。
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2018年09月01日

シンポジウム「ヒトと宗教」――松沢哲郎×鷲田清一

 9月7日(金)に京都は北大路の大谷大学で、「ヒトと宗教」というテーマでシンポジウムが開催されます。
チンパンジー研究の松沢哲郎先生と「折々のことば」の鷲田清一先生がはじめにそれぞれ講演されて、そのあとカドワキが司会でディスカッションという趣向です。

 これは、日本宗教学会の学術大会の開催イベント。
場所は大谷大学講堂。
時間は9月7日午後2時半から学会の開会式があって、2時40分からシンポジウムに突入します。
5時40分までには終了いたします。

(宗教学会会員でなくても聴講できますが、その際は1,000円の参加料が必要となります。一旦は納入すれば、土・日の学会発表を聞いたり、記念開催の博物館に入場できたりします。ちなみに学会員はそれ以上の参加費を納入していますのよ、念のため)

 このお二人の顔合わせは意外にもはじめて。
それだけでも十分に価値がある企画であると自画自賛しております。
また、個別にもなかなか講演なさる暇がない先生方です。
チンパンジー研究の権威松沢先生は、池上タヌキルートで、京都芸大学長の鷲田清一先生は実は大谷大学の客員教授でもあるということで実現したシンポジウムです。
カドワキが司会でも、そして1,000円払っても、十分元が取れておつりが来る!!!という企画ですので是非!!!

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2018年08月20日

「弔う」はアウフヘーベンのことかとヘーゲル言い――暑さにうだる脳ミソに到来したアイデア

 ふつうは止揚と訳されるアウフヘーベンに関してヘーゲルは『精神現象学』で次のように述べている。

「Aufhebenは、我々が否定的なものについて考察した二重の真の意味を表現している。つまり、このことばの意味は、否定することであり同時に保存することなのである。無は、このものの無として(このものという)直接性を保存しており、それ自身感覚的であるが、普遍的な直接性なのである。」(3―94)

 相変わらずわけの分からん文章であるが、これを「この人」の死(無)において考えるとどうなるか?
「この人」が死ねば無である。
無であるが、そこには「この人の死」という限定がある。
つまり、「弔う」という行動、つまり埋葬という行動を通して、その人は身体的に否定されるが、同時に死者という普遍性を伴って想い出の中に保存されるのである。
つまり、「弔う」とは、「この人」の否定であると同時に保存であるのである。

 というようなアイデアが、お盆の墓参りの読経の最中に、暑さにうだる脳ミソに到来したのであるが、どうであろうか?
posted by CKP at 12:53| Comment(0) | 雑想・戯言 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2018年08月02日

酷暑でアタマが腐っているのか、世の中が腐っているのか?――それでも明日は暁天講座

 あまりの暑さにアタマが腐っているのかもしれない。
東京医大の女子の入試の特典を一律に下げているというニュースである。
そんな大学、そんな入試が21世紀の現在にありうるのだろうか?
なんか、わたしの頭が腐って読み間違えているのか?
とか、「生産性」のない人間には税金を投入するなとか、会長の出身県には有利な判定をすることになっているボクシング協会とか・・・
ま、こういうことが表沙汰になってきているだけでも、良しとせねばならないのかも知れん。
いくら表沙汰になっても、知らんぷりの御仁もいるご時世では・・・・

 と、腐ったアタマでブログしておるワタクシですが、やはり明日、朝の6時半からの暁天講座でおしゃべりするようです。
暑さのため中止というのを期待したのですが、やる!とのことでした。
円山公園南側の大谷祖廟で、寝坊しなかったら6時半過ぎからおよそ1時間お話しする予定。
暑さと寝不足でどんな話になるのか怖いです。
早起き大好きという方はどんぞ!
posted by CKP at 16:40| Comment(0) | 雑想・戯言 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2018年07月17日

大きな声で呼んでください――オイオイの言葉

 とあるお宅のインターフォンに
「故障中ですので、大きな声で呼んでください」
と書いた札が貼り付けてありました。
思わず、「ごめんくださ〜い」と大声を張り上げそうになりました。
ピンポンダッシュならぬ大声ダッシュですが、脚力に自信がないので思いとどまりました。

 思えば、一昔前は、みんな、玄関で大声を張り上げていました。
学校へ行く子供たちも、物売りの人たちも、押し売りのおっさんも。
屋敷の隅々まで届くような大声を、みんな張り上げていました。
 
 高校生の頃の夏休みのある日の昼下がり、玄関で
「こんばんは〜、こんばんは〜」
と子供の大きな声。
対応した母に聞くと、小学生の正(しょう)ちゃんが、子供会の廃品回収の案内に来たとのこと。
夏の日差しの中から急に薄暗い玄関に入ったものだから、「こんばんは〜」になったのだろうとのこと。

 正ちゃんとは学年が離れていたから遊んだことはないけれど、夏の昼下がりになるとときどきあの声を思い出します。
posted by CKP at 15:05| Comment(0) | 雑想・戯言 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2018年07月10日

晶子さん、ごめんなさい――皆さま、私は歌を間違って覚えていました。

 この前、與謝野晶子の歌をこのブログで引用しましたが、少し違っていました。
正確にはこうなります。

いづくへか帰る日近きここちしてこの世のもののなつかしきころ

ただし「帰る」の「帰」は当然旧漢字。
この前は冒頭の「いづくへか・・・」を「いづくにか・・・」と書いてしまいました。
晶子さま、そして読者の皆様、申し訳ありませんでした。


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2018年07月07日

越前は遠く――土曜日に大学に来ているわけ

 本日は七夕なのに、トンデモナイ雨降りになっています。
我がサンダーバードは木曜の午後、金曜終日、運転中止。
今日は寺の役員会があるのでなんとしても帰ろうと、朝一番に京都駅に行きましたが、やはり運休。
その役員会は、レジュメをメールで送って、住職抜きでも無事成立とのこと。
一安心だけれども、ちょっと複雑。

ゆくところがないので、こうして誰もいない大学に出てきて、こうしてブログを更新しております。


 鴨川の水は昨日より少し減ったように見えますが、それでもものすごい勢いです。
河岸壁が崩れたところもあるようです。
こういう治水事業はさすがに「民間に任せる」ということにならない――と思いますが、分かりません。
水道事業を民営化して外国資本に売っぱらおうというのが、今の政権におられる方々のお考えですから、治水も一般道路も民営化という恐ろしい未来が待っているかもしれません。
どこぞの知恵者が道路も治水も「金になる」という仕組みを考えだしたら、たちまち民営化なんてことになるかもしれません。
そして、最後には「酸素販売会社」なんていうのも出現するかも知れません。
人間がどこぞの星に移住したならば確実に存在します。

 と、雨にこれだけ閉じ込められているとロクなことしか考えられません。
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2018年07月04日

浅草のタヌキは寝不足ワールド杯――サルにサッカーは可能か?

 ワールドカップ、日本は健闘しましたが、ベスト8へは進めませんでした。
もっともセルジオ越後のように「10人のチームに1勝しただけで、あとは2敗1分け」という厳しい意見もあります。
われらがイケガミ浅草はどのように、このワールドカップそして日本の戦いをみているのでしょうか。
一度じっくりお聞きしたいところですが、いよいよこれからがワールドカップ本番、とてもそんな閑はないでしょう。


 で、ネイマールの芸術的なプレーと茶番的なファウル・アピールを堪能しながら思ったのですが(結局、日本vsベルギー戦は寝てしまいました)、ボールを敵のゴールに入れるこのサッカーというゲームは、サルには可能であろうか?

 これが敵陣にある何かを奪ってくるとか、敵の大将をやっつけるというゲームならば、おさるにも可能でありましょう。
あるいは、ボールでゴールキーパーを倒すというのもありかも知れません。
動物の本能にしたがって行動すればゲームが成立する。

 しかし、自分たちが保持しているボールをわざわざ敵のゴールの中に入れるというのは、おさるには難しいのではありますまいか?
敵にボールをプレゼントする、そしてプレゼントした方が優位に立つというのは、食物の分配ができないおさるにはとても難しい事のように思われる。
ゴリラの場合は、微妙なところ。
チンパンジーはどうでしょう?
このあたりのことを、今度大谷大学で9月の初めに開催される日本宗教学会の記念のシンポジウムで松沢哲郎先生に訊いてみたい。
おそらくイケガミ浅草も来ておられるでしょうし(セルジオ越後は来ませんが)。
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2018年06月22日

ol' 55――『こころ旅』でトム・ウェイツの歌が流れていた(その2)

 先週の金曜日の『こころ旅』でトム・ウェイツの「ol' 55」が流れていました。
若桜(わかさ)という小さな駅から列車が走り出すと、懐かしいピアノのイントロがきこえてきました。
車窓から風景を眺める火野正平さんの横顔が映し出されます。
火野さんはこのあいだ69歳になったばかり。

「時はあっという間に過ぎて
オレは一目散にオレのoldな55年型に乗り込んだ。

朝日が昇る中、フリーウェイのパレードを率いながら
幸運の女神とドライヴしている」

というような内容の歌詞を、トム・ウェイツのだみ声が唄っております。
64歳のオジサンは完全にうるうるモードになっております。

 この歌のフリーウェイをゆったりとドライヴする感じが、たまらなく好きでした(最初に聴いたのはイーグルス・ヴァージョン)。
しかし、もう一つ分かりにくい歌だったのです。
恋愛の歌なのか、それにしては彼女のことが全然歌われていない。
はて?

 しかし、この前、トム・ウェイツが使うoldを「懐かしい」「ほかの人にとってはどうでもいいかもしれないが、自分にとっては絶対的価値を持つ懐かしさ」と考えればよいと気が付いて、今までバラバラであったものがすっと一つにまとまった気がするのです。

 この歌の主人公はたぶん女の子のところから朝帰りだろうけれど、その女の子と一緒にいる時よりも、オレのoldな55年型のクルマを運転する時の方が、とてつもなく満ち足りていた。
ドライヴに至るまでの状況は過去形で唄われ、そのときの気分は現在形という時制も、そのoldな感じをよく表現している。


 女の子のことはいつか忘れてしまうかも知れないけど、このクルマをドライヴする感覚、これは一生忘れない・・・誰にも手渡すことできないオレだけの感覚なんだ。

 トム・ウェイツというのは、ちょっと無頼を気取っているような感じがしてレコードを全部集めるようなファンでないけれど、このoldを歌うところに彼の原点があるのではと気づいて、なんだかとってもいとおしい人になりました。


  こんな歌です。



 また、以前『こころ旅』に流れていた「Martha」にもoldが何度か出てくる。
たぶん最近別れた女の子に40年後にデンワをする、という設定の歌。
その未来が現在形で唄われている。

「彼女におれのoldな声が届くだろうか。
もしもし、こちらはoldなトム・フロストだよ。

あの頃は薔薇のような日々で、
悲しみは雨の日のためにとっておいたよね。」

 おそらく彼女と別れた現在が過去形で唄われ、未来の再会が現在形で唄われている。
そのような中でoldはとてつもない力を発揮しているように思います。
こんな歌。



 トム・ウェイツって、ホント、いい奴です。

 



posted by CKP at 13:33| Comment(0) | 雑想・戯言 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする