2018年01月10日

理事会決定――落語協会の場合

 暮れからずーっと修士論文や博士論文を読んでいてヘロヘロになったところに、卒業論文の提出でいろいろトラブルがあってわちゃわちゃになっています。
 
 テレビは開けても暮れてのお相撲の理事会とか審議会の話。
そんなに理事会の話が好きなら、落語協会の理事会で何が離されているのか報道しろ!とは思いませんが・・・

 疲れたアタマを休めるために、落語のCDを聞きながら寝ることが多いです。
最近のお気に入りは春風亭一之輔。

 その確か「短命」のマクラで落語協会の理事会決定の話がありました。
「真打のお爺さんたちが、若い前座さんの名前がなかなか覚えられないから、前座は名札を付けるべし」
これが、小三治会長のもと開催された理事会の決定だそうです。
よろしいんじゃないでしょうか。
平和な感じがいいですね。

 ちょうど同じころ対する落語芸術協会の理事会決定は
「古典落語において登場人物にじぇじぇじぇと発言させることを禁ずる」
だそうです。ちょっと前の話です。
これも妥当な決定でしょう。

 相撲協会も相撲求道協会とかに分裂して「張り手禁止」とかやればよろしいんじゃないでしょうか?

 と、そんなことより論文ロンブン。
posted by CKP at 12:32| Comment(0) | 雑想・戯言 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2018年01月06日

明けましておめでとうございます――今年の目標は「目撃者」

 明けましておめでとうございます。
今年もよろしくお願いします。

 え〜、正月三が日のお仕事が済んで、晴れて四日、冷たい雨も止んだので散歩に出かけたのでありました。
田んぼ道を20分ほど歩いて帰ってくると、家の近くの橋のたもとにチカチカ止まっていた救急車がピーポーピーポーと走り出したのです。
そして、それを見送ったご婦人が何事もなかったようにクルマに乗り込み走り去った・・・このような光景を目にしたのであります。

 家に帰ってこれを奥さんに報告したら、「どんなクルマ?どんな色?何歳ぐらいの女の人?」と矢継ぎ早に質問されたのでした。
「え〜っと、ぼんやりした色の軽自動車で、女の人は30代いや40代かな?夕暮れで薄暗かったからよくわからん」
とこのようなことしか報告できない自分にちょっと愕然としてしまいました。

 救急車が家の近くから、それも家のない橋のたもとから出発するというけっこう大事件なのですが、その目撃者たるわたしは何一つ正確なことは覚えていない。
これではとても「目撃者」とは言えんなぁ・・・と我ながら情けない思いにくれたのです。

 ですので、今後このような場面に遭遇したら、きちんと目撃してさまざまな情報を記憶するようにしたい…これがわたくしの今年の目標となりました!

 で、その事件、いったいどうゆうことであったのかはいまだに不明です。
posted by CKP at 13:59| Comment(0) | 雑想・戯言 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年12月29日

来年はもう少し書きます――『同朋』1月号で書いてます

 今年も当ブログをご愛読いただきありがとうございましたm(_ _)m
が、書くペースが落ちてしまいすみませんでした。
なんだか色々をありまして、ついつい書きそびれてしまいました。
来年はもう少し書きたいと思いますのでよろしくお願いいたします。

 その代わりと言っちゃなんですが、ただいま絶賛発売中の『同朋』一月号(東本願寺発行)で二個の記事を書いてます。
一個は、まだしぶとく続いていた映画コラム「人生ロードショー」
もう一個は「仏事ってなんだろう?」という特集に合わせて「映画・ドラマに描かれた仏事」という4頁の記事。
エディット・ピアフと『ゴット・ファーザー』をマクラにして、仏事を語りました。

 なお、巻頭のインタビューは、あの岩合光昭さん。
そして特集インタビューは室井滋さん。
そして、そのあとにわたくし門脇なのであります。
京都市内の書店で絶賛発売中!

 というわけで、皆さま、良いお年を!
posted by CKP at 22:55| Comment(0) | 雑想・戯言 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年12月13日

うつむいてドアを開けろ――穏やかな晩年のために

 うつむいてドアを開けるようにしています。
というのは、わたしの研究室の向かい側が女子トイレ。
不用意にドアを開けるとトイレから出てきた女子と目が合ったりする。
また、女子トイレのドアが開けぱなしのときは、目を上げて研究室のドアを開けると女子トイレを覗いている男子教員の図、が出来上がったりするのであります。
よってうつむいてドアを開けるようにしとるのです。

 ましてや開いている女子トイレをドアを閉めるなんてことは絶対にやらない。
あ、あいてる・・・閉めなきゃ…閉めて振り向いたらそこに女子・・・「わ。セクハラ教員で〜す」って、一生を棒に振るの図、が想像されるからです。

 この前のブログで言及したクレンペラーは、男子トイレが見つからず仕方なく女子トイレで用を足し出てきたところを見つかって「ここは女子用ですよ」となじられたとき、股間を指して「ここは女子用ですぞ!」と言ったという逸話が伝わっています。
クレンペラーはユダヤ人ですが、こうゆうのはユダヤ・ジョークというのでしょうか?
ユダヤ・ジョークにしてもあまり品がよくありません。

 自信満々のフィッシャー=ディースカウ(バリトン歌手)の「今度、オーケストラの指揮をすることになりました」という招待状に「その日はショルティ(指揮者)の歌う『冬の旅』に行く予定」と断ったのは、ちょっと洒落ています。

 が、一番好きなクレンペラーのエピソードはバレンボイムが伝えるこんな話。
クレンペラーはバッハやベートーヴェンのミサ曲を指揮するため、ユダヤ教からキリスト教に改宗した。
それについてバレンボイムに尋ねられて「まったく無駄だった」と答えたという話。

 カトリックでなきゃブルックナーは分からないとか、プロテスタントでなきゃバッハは分からない、なんてつまらん先入観だった。
それを、わしは身をもって体験した。

 つまり、無駄なことを実際やっていて、無駄であったと証明する・・・これもけっこうユダヤ・ジョークでありますまいまいまいか?
posted by CKP at 17:07| Comment(0) | 雑想・戯言 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年12月06日

オットー・クレンペラーが好きなのかもしれない――ちょっと困った爺さんだったけど

 先日、高校時代の同級生の3好君から、「レコードコンサートをするから、お前は高校時代からクラシックのレコードを聴いていたみたいだから、レコードを提供せよ」と電話がありました。
こちらはあと定年退職まで2年余りであるから、退職後に地元で3好君に遊んでもらおうと思っていたから、すがりつくように引き受けた。
ついては、最後は第九で締めたいから、その曲を選んでとのご下命。

 フルトヴェングラーのバイロイトやルツェルンの第九、フリッチャイやショルティ、果てはストコフスキーの第九などを引っ張り出し聴き直しましたが、一番、皆さんにお聞かせしたいと思ったのは、クレンペラーが指揮した第九。
これは自分でも意外でした。
やはりフルトヴェングラーのバイロイトでの第九かなと思って、高校時代に聴いた東芝EMIのレコードを探すが見つからないので、最近、アビーロードスタジオでリマスターされたというレコードを買って聴いたのです。
しかし、これがどうもピンとこない。
高校時代あれほど感激して聴いたのに・・・。リマスターで妙にノイズが除去されて何かが失われてしまったのか?
あるいは、こちらに妙な知恵がついて聴けなくなったのか?

 それで、あまり気が進まなかったのですが、クレンペラーの第九を聴いてみたら、これがなんともよい。
70過ぎた爺さんの指揮とはとても思えない迫力があり、これに決定。

 そこで思ったのですが、わたしはどうもこの指揮者の指揮する音楽が好きらしい。
モノラル盤でしたが、この人の指揮するブルックナーの第4番を聴いたとき、冒頭のトレモロだけでなんとなく全体が分かったという気になって、以来、愛聴することになる。
メンデルスゾーンのスコッチ交響曲は、CDで聴いていたとき誰の演奏でもぴんと来なかったのに、古レコード屋で買った日本盤の古レコードを聴いたとき、はじめていい曲だと思ったのでした。
また、モーツァルトのグラン・パルティータと呼ばれる管楽器のセレナーデのクレンペラーが指揮したレコードが、どうゆうわけかたまらなく好きであったりするのです。

 こりゃどうもクレンペラーという人の指揮する音楽がわたしの生理にあっているのではないかと思い始めています。
この人の晩年の写真を見ると苦虫をつぶしたような顔をしていますが、少し調べてみると、どうも大変女性関係が賑やか、というより女癖が悪い人のようです。
そうゆう人の奏でる音楽が好きなわたしは、実は「黙りスケベ」なのか?といまさらながら自分を疑うのでした。
あと2年とちょっと、穏やかな教師生活を全うするために、クレンペラーを自戒を込めながら聴くのでした。
posted by CKP at 13:22| Comment(1) | 雑想・戯言 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年11月08日

『無冠、されど至強』――タヌキになりそな私

 『パッチギ!』を久しぶりに見て、朝鮮高校のサッカーというのが気になりだした。
そこで思い出したのが、手帖にメモしてあった本。
木村元彦著『無冠、されど至強 東京朝鮮高校サッカー部と金明植の時代』(発行「ころから」)。

 『パッチギ!』に出てきたのは京都朝鮮高校のサッカー部であり、この本ではほとんど出て来ないのが残念であったが、めちゃくちゃ強うそうな京都朝鮮高校のサッカー部より東京朝鮮高校のサッカー部のほうが圧倒的に強かったようなので仕方ない。
その東京朝鮮高校のサッカー部の洗練されたサッカーを指導したのが金明植(きむ・みょんしく)。
この人の生い立ちと、日本の公式試合から締め出された朝鮮高校のサッカーの歴史が書かれている。

 これがめっぽう面白い。
つまり「無冠、されど至強」のサッカー部の物語。
公式試合から締め出されたのに、なぜ「至強」と分かるかと言えば、お隣の帝京高校をはじめ全国の強豪校が積極的に試合を申し込んできたから。
そして、そこから北朝鮮での遠征試合まで実現してしまう。
『パッチギ!』の1968年、京都朝鮮高校のサッカー部のアンソン(沢尻エリカが演じていたキャンジャの兄貴)が北朝鮮に渡ってワールドカップ出るぞ!と言っているのは、66年のワールドカップで北朝鮮がベスト8になっているから。
その北朝鮮では「至強」であるはずの東京朝鮮高校のサッカー部も歯が立たなかった、という話も面白い。

 という読みだしたら止められない本で、読み終わると体がなんだかタヌキになっているような気がしました。
東京は浅草に棲息する池上タヌキ之介は、京都を徘徊していたころよくこの手の本を読んでいましたから・・・
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2017年11月07日

別の在り方のコミュニケーションーー「井筒語」で考える

 わたしの住む越前市の隣の町の中学で、副担任の厳しすぎる指導で生徒が自殺してしまったという事件がありました。
隣の町、同じ県のことだから、いろいろとマスコミには報道されない情報が入ってきます。

 その中で気になったのは、「悪くとれば『執拗な指導』、よく言えば『熱心な指導』」という見方です。
その指導をしていた副担任の先生は、小学校からその生徒を指導していたそうです。
おそらく少しコミュニケーションに問題のあるその生徒になんとかふつうのコミュニケーション能力を身につけさせて、卒業させようと指導していたように思います。
そうゆう意味では「熱心な」先生なのだと思います。

 しかし、ふつうの、分かり合えるコミュニケーションだけがコミュニケーションでしょうか?
そう思い込んで、その生徒を社会に出てもふつうにコミュニケーションできるように教育することがベストと思い込んでいるところに「執拗な」「厳しすぎる」指導が生まれてしまったように思います。

 できないならできないという前提でもっと別のコミュニケーションがあっただろうに・・・
みんな一緒に分かり合える、と考えるのはある意味危険ですらあると言えます。

 というのは、このまえ、井筒監督の『パッチギ!』を見直していて気が付いたのです。
この監督が不良少年の喧嘩を見事に撮るのは、「こいつらはアホやから喧嘩以外のコミュニケーションを知らんのよ」と言葉のへたくそな不良たちを愛しているから。
だから、その不良たちの喧嘩は妙におかしい。

 ま、いろんな表現があるわな。そやけど、痛いのはやっぱいかんでぇ・・・と井筒語でおおらかに考えれば、あの悲劇は避けられたのではありますまいまいか?
「そうか、できんか?しゃーないな・・・そんなら、こんなんやってみよか」とか・・・
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2017年11月01日

ガラス拭きのコツ――哲学とは関係ありません

 10月22日の夜、台風の通過によって、本堂の障子がほとんど破れて、その張替えに一日かかったことは書きました。
そのあと、報恩講にお迎えする坊様方の控室(12畳間と10畳間)の廊下のカーテンを開いたら、あら大変。
大正時代のガラス障子なのですが、そのガラスに細かい木の葉やら土ぼこりがべっとりと張り付いているのを発見。
この間ガラス拭きしたばかりなのに・・・。

 しかし、そうも言ってられらないので、外側だけでもガラス拭き。
それだけでも、私の心のように、ガラスは透明でピカピカになりました。

 というわけで、最近、私が発見したガラス拭きのコツをここにお知らせしましよう。

 まず、かたすぎない程度に絞ったタオルでガラスの汚れをぬぐう。
 しかし、それをいくら繰り返しても、糸くずなどがどうしても残る。
 そこで、新聞紙をぐしゃぐしゃにして、ガラスに残る水分を拭うようにしてガラスを拭き上げる。
 すると、インクの油分で残っていた汚れも取れてガラスはピカピカになります。

 やはり、新聞は紙のものを配達してもらわねばいけません。
(新聞紙を濡らして・・・という方法もありますが、もひとつでしたので、この方法でやってみました。また家庭用洗剤などを使うと洗剤分が残って妙な縞模様が出てしまいます。)
posted by CKP at 17:49| Comment(0) | 雑想・戯言 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年10月23日

な〜んも言えねぇ――ちょっと停電しました

 総選挙、見事に予想が外れました。
「隠れ反自民」というのは存在しなかったですね。
むしろ、アベ政権を支持するかと問われれば支持しないと答えるが、投票は自民党に投票する「隠れアベ支持」が多かったということなのでしょう。
隠れてまで支持するか!

 と、ガックリ来ているころ、わが越前ではものすごい暴風雨。
本堂の障子がほとんど敗れ、本堂が水浸し。
エッチラオッチラ、畳を上げて、障子紙が吹っ飛んだところに段ボールを貼るというトホホな状態になってしまいした。
というわけで、本日は一日中、本堂の障子張り。
腰が痛いっす。

 しかし、停電は昨日の夕方の約1分間だけ。
有難いことです。
この先、こういう形でインフラがきちんと守られる日本でいられるのでしょうか?
ちょっと不安になった夜でした。
posted by CKP at 19:31| Comment(0) | 雑想・戯言 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年10月20日

選挙予測が分からない――誰が隠れているのか?

 いよいよ明後日が衆議院選挙。
雨にも風にも負けず選挙に参りましょう。

 なのだけれども、どうも新聞の予測がよくわからない。
自民党が300議席をうかがうという予測。
「わからない」というよりも「わかりたくない」という方が正確かもしれない。

 しかし、現アベ政権の不支持率が支持率を上回るというアンケート結果が出ているのに、自民党が大勝という選挙予測はヘンだ。
ヘンですよね。

 ということは、トランプ大統領誕生の時のように「隠れトランプ」みたいな層がいるのではないか?
これを新聞報道は読みに入れていないから、不支持だけど大勝という訳の分からない予測になっているのではないか。

 で、隠れているのは誰なのでしょう。

 今どき、「アベ支持」なんて言うのは恥ずかしい、だから「アベ不支持」と答えたけれども、実はアベ支持という「隠れアベ支持層」

 今どき、自民党不支持というのは非国民みたいでみんなから冷たい目で見られるから自民支持と言っているけど、実は今回は自民には入れない、という「隠れ反自民層」

 この「隠れ○○」のどちらが多いかで、今度の選挙の結果が決まる。
 で、わたくしカドワキは「隠れ反自民」が実はけっこう多い、なぜなら最近「反自民」に対するバッシングがマスコミでもSNSでもけっこうえげつないから。

 というわけで、実は言われるほど大勝しない、過半数をやっと越えるかどうかぐらい、と予測してみます。
当たらなかったら、バカにしてください。
posted by CKP at 19:58| Comment(0) | 雑想・戯言 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年10月11日

なみだ、なみだのつづれおり――キャロル・キングのハイドパーク・コンサート

 キャロル・キングの『つづれおり』が発表されて、昨年で45年。
つまり、1971年の作品ということですね。
それを記念して昨年の7月、イギリスはロンドンのハイドパークでコンサートが行われ、その記録DVDが発売されました。
『つづれおり』のレコードの曲順で全曲演奏している・・・などの情報は以前から知っていましたが、キャロル・キングの野外コンサートなんて、その場にいなかった者があとから見ても散漫でつまらないだろう、と思って買わずにおりました。
が、国会はわけの分からん解散はするわ、民主党は小池百合子に身売りするわで、世の中ぜんぜん楽しいことないなあと思い、じゃ、キャロル・キングの野外コンサートでもみてみるか・・・ということになったわけであります。

そしたら、お父さん!
冒頭から洒落た演出。
昔の仲間がビデオ主演。
そして、74歳のキャロルが登場。ダニー・コーチマーも!
そして、アルバム通りの進行。
なんだか涙がぽろぽろ出てきて困ってしまうのでした。

 およそ40年ほど前にデンコさんから薦められて初めて聴いたときは、なんだかもっさりしたアルバムだなぁと思って聴いたことを覚えています。
それでも、何度も聴きました。
歌詞もいくつかの曲は覚えるくらいでした。
しかし、キャロルの他のアルバムも買おうというほどのファンにはなりませんでした。
が、今でも時々聴いてしまうアルバムです。

 こうしてライブで、74歳のキャロルが唄うのを聴くと、この『つづれおり』というアルバムが奇跡的によくできたアルバムだったのだなぁ、といまさらながら感動します。

 You've got a friend.
ホント、いい曲ですね。
年配の観客がみんな唄っているのを見るだけでも、いろんなことが思い出され涙、涙。

 後半は、ゴフィン&キング時代のヒット曲。
(そのころの二人がバックに映ります。涙、涙)
もちろんロコモーションも!
しかし、10代から世界的なヒット曲を書いていたんですね。
ホント、すごいお婆さんです。
posted by CKP at 13:28| Comment(0) | 雑想・戯言 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年10月05日

さよなら、トム・ペティ――私上最高のコンサートでしたよ

 トム・ペティが急死しました。
突然の心臓麻痺で66歳。

 トム・ペティとハート・ブレイカーズの「ルイジアナ・レイン」が流行っていたころ、大阪で公演があったのでO木くんと行きました。
まだ、アルバムは1枚しか出ていないころだったと思います。
ストレートなロックンロールが気持ちいい!
ハート・ブレイカーズとかルイジアナ・レインという、ベタだけど潔い命名センスにもひかれたんだと思います。
大阪の小ぶりのコンサートホール(どこかは忘れた)に駆けつけたのでした。

 観客は30歳以上のおっさんばかり。
僕らももう30歳だったか?
最初は、みんな、どれくらいやるか聞いたろやんけ、という感じで腕組みして椅子に座ってきいていたのです。
ところが、演奏が進むにつれて会場がじわじわ熱くなる。
そして、エンディング、アンコールの頃は大歓声で総立ち。
ストレートなロックンロールが気持ちよかった。

 わたしのロック・コンサート体験史上、ベストといってもいいコンサートでした。
ロックンロールの力、バンドの力が自然に伝わってきました。

ホントに気持ちの良いすがすがしいコンサート、ありがとうね!
合掌。
posted by CKP at 13:37| Comment(0) | 雑想・戯言 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年10月03日

ひとを見る目――タヌキが見る目

 人を見る目がない、という人がいますね。
民進党の元(?)代表(また名前が出て来ない)なんかがその典型でしょう。

 代表になって、幹事長にヤマオ某の名を挙げて失敗し、コイケ某と対等に組んだと思っていたら完全にコケにされ・・・つくづく人を見る目がないのね。
どうして、あの人は人を見る目がないのでしょう。
目が暗くて、いつもおどおどしているからでしょうか?

 私のまわりで「こいつの人を見る目は確か」と思ったのは、タヌキ池上でしたね。
相手はタヌキだから、私の「人を見る目」はこの際関係ない。

 このタヌキは、私が「持病のシャクを起こして路上にうずくまった時、ワールドカップ予選の中継が始まりそうだったらどうする?」と尋ねたとき、間髪入れず無慈悲に「キミをほおってワールドカップ予選を見る」と言い放った冷たいタヌキである。
が、その冷たさは伊達ではない。
このタヌキ、何事もクールに俯瞰しながら判断を下すことが出来るのである。
自分の置かれた状況を冷静に判断しながら、相手を判断することが出来るのである。

 自分に好都合な状況を設定して、そのうえで相手を都合の良いように見ると、(思い出した!)マエハラ某のようなババを引くことになるのである。

 自分は「人を見る目がないな」と思う人は、池上タヌキ之介の本をじっくりと読んでみたらどうか?
タヌキになってしまっても、私は知らないが。
posted by CKP at 13:41| Comment(0) | 雑想・戯言 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年10月01日

なめたらいかんぜよ――ごまめの歯ぎしりかもしれんけど

 このブログは共同ブログなので、政治に関する個人的な意見は遠慮すべし、というのが不文律になっていると思っています。
とりわけ、このような総選挙の前にはそのような意見は遠慮すべきだと思います。
が、この間の希望だか絶望だか野望だか知らぬが、東京都都知事の動きがあんまりなので書いてしまいます。

 何があんまりなのかというと「国民をなめ切っている」ということです。
とにかくマスコミで取り上げられれば、選挙は勝てる。選挙民はテレビで目立つ政党に投票すると、選挙民をなめ切っていることです。
こればアベの「選挙で勝てれば、モリ・カケは無かったことになる」という選挙民のなめ方と大同小異でありましょう。
(もちろん、小池にすり寄った野党党首(名前が思い出せない!)なども選挙民に対する敬意などみじんもないのでしょう。)

 ま、それほどまでになめられた選挙民の方にも非はあるのでしょうが、ここまでなめられた場合、どうなのでしょうか?
「なめたらいかんぜよ」と夏目雅子の如く啖呵を切りたくなっているのではないでしょうか?

 もちろん、選挙は戦挙でもあるのだから勝たねばならないのでしょう。
敵の敵は味方という論理もありえるでしょう。
しかし、その場合は、この部分で共闘ね、という一線をきちんと引いたうえでの共闘となるはずです。

 選挙の公示までそれほど時間がありませんが、それまでには信念を持った人たちがそれを大事にしてまとまることを願います。
posted by CKP at 21:21| Comment(0) | 雑想・戯言 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年09月20日

カツオたちよ!――明日から授業が始まります

 明日9月21日より、大谷大学の後期授業が始まります。
ということを考えたら、この日曜日から喉が痛くなり熱が出てきました。
からだが授業を嫌がっているのですね。
お医者さんに行ってお薬もらって、なんとか明日に備えています。
いきなり休講ではありません。

 それでだ、わがゼミの学生諸君。
ほとんどの学生諸君は夏休みの宿題である9月10日締め切りのレポートを提出している。
のであるが、数名のカツオがまだ提出しておらん。
バッカモ〜ンと波平になって、いまこうして叫んでいるカドワキであります。
明日の12時までは、待とう。
わがゼミのカツオ諸君、今からでも遅くはない。
提出するよーに。
posted by CKP at 17:37| Comment(0) | 雑想・戯言 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年08月28日

ヘーゲルは「規制緩和」を支持するか?――「見えざる手」を手繰り寄せる

 いきなりですが、ヘーゲルの『法の哲学』についての話です。

 ヘーゲルは『法の哲学』で「家族」と「国家」のあいだに「市民社会」を置き、そこで「ポリツァイPolizeiについて論じている。
このポリツァイと言うのは、現代ドイツ語では警察のことであるが、ヘーゲルは「行政」とか「行政介入」というような意味で使っている。(中公の世界の名著では「福祉行政」と訳されている。)

そこでヘーゲルは格差社会の貧困について論じたり、行政による「規制」について論じている。
現在さかんに主張される「規制緩和」のあの規制である。

 ヘーゲルは、アダム・スミスの『国富論』などを研究し、市民社会を家族と国家のあいだに置いたくらいだから、スミスの言う「見えざる手」を認めている。
諸個人が私利私欲から商工業の活動にいそしんだとしても、(神の)「見えざる手」が働いて、正しい均衡が現象するであろう、というあの「見えざる手」の理論である。
(加計問題で先の山本某という大臣が「獣医学部をどんどん作って、どんどん獣医を作っていけば、最終的には「見えざる手」が働いて良質な獣医だけが残るであろう」と言っていたアレである。)
したがって、ヘーゲルも「規制緩和」論者のように見える。
アベ君が「岩盤規制を突破する戦略特区」と言うのを支持するように見える。

 しかし、ヘーゲルはその市民論に「行政介入」という節を設けて、「236節」では「規制」についてその必要性を論じている。

「生産者と消費者とのそれぞれの異なった利益は衝突することがある。なるほど全体的にみてその正しい関係はおのずから成立するのだが、その均衡のためにはまた両者に関する意識的な規制も必要なのである」
つまり、生産者と消費者の利益は放っておいても「おのずから」見えざる手によって「正しい関係」に至るのではあるが、「また」規制も必要だというのである。
そのままにしておいても「正しい関係」になるのなら、何故「規制」が必要なのか?

それは、「波状的な危機や中間状態の継続を短縮し和らげるために」必要だというのである(この節のヘーゲル自身の註解の一番最後の文の部分訳。この「中間状態」には「衝突は無意識的な必然性の道程を経て平衡化されるはずである」という説明がついている)。
つまり、「ただしい関係」をすばやく成立させるために、「規制」が必要だというのである。
「見えざる手」の働きが完了するまでの時間的経過を短縮するために、規制が必要だというのである。
これは、現在あまり論じられることのない視点である。

「規制というのはある業界の悪者たちが自分たちの利益を守るために、規制をいっぱい設けて新規参入への道をふさぐものだ」と言うのが、規制緩和論者の主張である。
したがって、「規制緩和」は正義の味方ということになる。

しかし、行政介入としての「規制」は、何よりも良質な商品やサービスを消費者に提供するためにあるはずである。
悪質な業者を規制して消費者の利益を守ろうとするのである。
それは「見えざる手」によって自然に必然的に実現するはずである。
安くても粗悪な商品を売る業者はそのうちに消費者に見限られて破産するであろう。
ヤブ獣医には誰も寄り付かなくなるだろう。
しかし、それには時間もかかるし、多くの消費者が多大な犠牲を払わねばならない。
それゆえ「見えざる手」に代わって、その「見えざる手」の仕事をすばやく仕上げるのが行政介入による「規制」であるとヘーゲルは言うのである。

これは、今一度、耳を傾けるべき卓見ではなかろうか。
と同時に、官僚諸君は、そのような視点であるべき行政介入を構築していかねばならないだろう。
グローバル、グローバルなどと浮き足立っていると、そのうち「国家試験などという規制も廃止しろ」といわれるのだから。
グローバル経済に邪魔なのは国家の規制、そして国家そのものであることは、TPPなどがよく示していますね。
その点でトランプにちょっと期待してしまった私です。
 
posted by CKP at 19:55| Comment(0) | 雑想・戯言 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年08月20日

西尾浩二・朴一功訳 プラトン『エウテュプロン/ソクラテスの弁明/クリトン』発刊!――西洋古典叢書

 京都大学学術出版会の西洋古典叢書から、大谷大学の朴一功先生と西尾浩二先生の翻訳されたプラトンの『エウテュプロン/ソクラテスの弁明/クリトン』がこの8月15日に発刊されました。

「エウテュプロン」というのは、裁判前の予備審問に向かうソクラテスとエウテュプロンという人物との「敬虔」をめぐる対話。
これを西尾先生が訳しておられ、あとの「ソクラテスの弁明」「クリトン」を朴先生が訳しておられます。
つまり、裁判前のソクラテス、裁判でのソクラテス、裁判のあとの獄中でのソクラテスがこの一冊において描かれているというわけです。
そして、先に同じ叢書で朴先生が訳されている「パイドン」を並べると、裁判前から裁判を経て獄中で死刑に赴くソクラテスまでが描かれているということになります。

 わたしは「エウテュプロン」というのは今まで読んだことがなかったので、これを機会にこのひとつの流れなの中でソクラテスを、そしてそのソクラテスを描くプラトンを考えてみたいと思います。
 
 「弁明」や「クリトン」をパラパラと読んでみると、今まで読んでいた翻訳とちょっと感じが違います。
なんかすっきりしているのです。
しかし、大理石でできた「普遍的人間」「理想的人間」が対話している・・・というのでもない。
ちゃんと一人の体温も体臭ももったおっさんが話しているという感じなのですね。
そして的確な注、詳細な解説できっと新たなソクラテスに会えそうな予感がします。

 夏休みのカツオ状態に安住していたカドワキを、この本はまずは「バッカモ〜ン」と叱ってくれたのでした。
ほんと、うちの古代ギリシア人はよく働きます。
posted by CKP at 17:44| Comment(0) | 雑想・戯言 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年08月03日

カツオになりそう――悩ましい夏休み

 試験週間もレポートの締め切りも過ぎて学生諸君は夏休みです。
しかし我々教員は試験やレポートの採点。
以前はお盆の前に採点締め切りがあり、それまでにエイヤッと採点して教員も夏休みに突入していたのでした。

 ところが、最近はネット環境が発達したため、我が教務課は親切にも「締め切りはお盆過ぎ。自宅からネット入力でどうぞ」と言ってくれるのでした。
ありがたい!ようですが、これが悪魔のささやきです。
山のようなレポートを見ると、「締め切りはそうとう先だし、そんなに慌てることないか」というささやきがどこかからか聞こえてくるのです。

 かくして、お盆を過ぎたころ、あわくって採点している夏の終わりのカツオのような我が姿が見えるのでした。
誰か、いま現在カツオ状態に突入せんとしているわたくしを、波平さんのように「バッカモ〜ン」と叱ってくれますまいか・・・
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2017年07月19日

腰のフラメンコ――アントニオ・カドワキ、腰がとってもベラフォンテ

 このあいだの連休は、お坊さんの勉強会で三日間みっちり一楽真先生のお話を拝聴しました。
何度かハッとさせられる充実した聴聞体験でしたが、場所はお寺の本堂。
座ってお聞きするというのは、あの暑さの中、なかなかつらい。
ときどき胡坐をかいたりして、しびれやひざの痛さをまぎらわしながら拝聴しました。
腰、痛い。

 で、火曜の朝、大学に出るときちょっとしゃがんだら、腰にメリメリと魔女の一撃。
以来、腰がとってもベラフォンテ。
つまり、いてて、いてて、という「バナナ・ボート」状態になったのでした。

 それで現在は、バンテリンの腰サポーターをしているのですが、この黒いサポーター、なんだかフラメンコダンサーの腰巻のように見えなくもない。
思わず「すきなんだけどーぉ」と「星のフラメンコ」を口ずさんでしまいました。
で、この腰サポーターをしているときは、アントニオ・カドワキと呼んでくだせぇ、というはなしでした。
ホセ・ガドワーキってのもいいですね。
「痛いんだけど〜、チャチャチャ!!!」
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2017年07月12日

三代先は猿――佐野洋子『あれも嫌いこれも好き』より

 佐野洋子さんの『あれも嫌いこれも好き』というエッセー集の次の文章を思い出しました。

「〇子様
 私の友達が結婚する時、相手方が「釣り書き」というものをよこし、それは家系図だったそうでなかなかの家柄だったようです。私の友達は父親に「こんなものが来たよ」と見せると父親は「うちは三代先は猿だったと書いておけ」と言ったそうで、それから四十年たちますが、猿の子孫もなかなかの家柄も仲良く家族をやっているので、本当に日本は民主的国家となっています。」

 ところが洋子さん、近ごろはそうでもないようです。
野党の党首が日本のほかに別のアジアの国の国籍も持っている(残っていた)ということで、問題になっています。
おそらく問題にしているのは、ごく一部の人たちでしょうが、日本の国籍がはっきりしていれば問題ない、とその党が言いきれないのがなさけないですね。
そんなことだから、その野党はいつまでたっても信頼されないのでしょう。

「三代先は猿」、そんなおおらかさ・・・が足りません。
posted by CKP at 13:26| Comment(0) | 雑想・戯言 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする