2017年09月20日

カツオたちよ!――明日から授業が始まります

 明日9月21日より、大谷大学の後期授業が始まります。
ということを考えたら、この日曜日から喉が痛くなり熱が出てきました。
からだが授業を嫌がっているのですね。
お医者さんに行ってお薬もらって、なんとか明日に備えています。
いきなり休講ではありません。

 それでだ、わがゼミの学生諸君。
ほとんどの学生諸君は夏休みの宿題である9月10日締め切りのレポートを提出している。
のであるが、数名のカツオがまだ提出しておらん。
バッカモ〜ンと波平になって、いまこうして叫んでいるカドワキであります。
明日の12時までは、待とう。
わがゼミのカツオ諸君、今からでも遅くはない。
提出するよーに。
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2017年08月28日

ヘーゲルは「規制緩和」を支持するか?――「見えざる手」を手繰り寄せる

 いきなりですが、ヘーゲルの『法の哲学』についての話です。

 ヘーゲルは『法の哲学』で「家族」と「国家」のあいだに「市民社会」を置き、そこで「ポリツァイPolizeiについて論じている。
このポリツァイと言うのは、現代ドイツ語では警察のことであるが、ヘーゲルは「行政」とか「行政介入」というような意味で使っている。(中公の世界の名著では「福祉行政」と訳されている。)

そこでヘーゲルは格差社会の貧困について論じたり、行政による「規制」について論じている。
現在さかんに主張される「規制緩和」のあの規制である。

 ヘーゲルは、アダム・スミスの『国富論』などを研究し、市民社会を家族と国家のあいだに置いたくらいだから、スミスの言う「見えざる手」を認めている。
諸個人が私利私欲から商工業の活動にいそしんだとしても、(神の)「見えざる手」が働いて、正しい均衡が現象するであろう、というあの「見えざる手」の理論である。
(加計問題で先の山本某という大臣が「獣医学部をどんどん作って、どんどん獣医を作っていけば、最終的には「見えざる手」が働いて良質な獣医だけが残るであろう」と言っていたアレである。)
したがって、ヘーゲルも「規制緩和」論者のように見える。
アベ君が「岩盤規制を突破する戦略特区」と言うのを支持するように見える。

 しかし、ヘーゲルはその市民論に「行政介入」という節を設けて、「236節」では「規制」についてその必要性を論じている。

「生産者と消費者とのそれぞれの異なった利益は衝突することがある。なるほど全体的にみてその正しい関係はおのずから成立するのだが、その均衡のためにはまた両者に関する意識的な規制も必要なのである」
つまり、生産者と消費者の利益は放っておいても「おのずから」見えざる手によって「正しい関係」に至るのではあるが、「また」規制も必要だというのである。
そのままにしておいても「正しい関係」になるのなら、何故「規制」が必要なのか?

それは、「波状的な危機や中間状態の継続を短縮し和らげるために」必要だというのである(この節のヘーゲル自身の註解の一番最後の文の部分訳。この「中間状態」には「衝突は無意識的な必然性の道程を経て平衡化されるはずである」という説明がついている)。
つまり、「ただしい関係」をすばやく成立させるために、「規制」が必要だというのである。
「見えざる手」の働きが完了するまでの時間的経過を短縮するために、規制が必要だというのである。
これは、現在あまり論じられることのない視点である。

「規制というのはある業界の悪者たちが自分たちの利益を守るために、規制をいっぱい設けて新規参入への道をふさぐものだ」と言うのが、規制緩和論者の主張である。
したがって、「規制緩和」は正義の味方ということになる。

しかし、行政介入としての「規制」は、何よりも良質な商品やサービスを消費者に提供するためにあるはずである。
悪質な業者を規制して消費者の利益を守ろうとするのである。
それは「見えざる手」によって自然に必然的に実現するはずである。
安くても粗悪な商品を売る業者はそのうちに消費者に見限られて破産するであろう。
ヤブ獣医には誰も寄り付かなくなるだろう。
しかし、それには時間もかかるし、多くの消費者が多大な犠牲を払わねばならない。
それゆえ「見えざる手」に代わって、その「見えざる手」の仕事をすばやく仕上げるのが行政介入による「規制」であるとヘーゲルは言うのである。

これは、今一度、耳を傾けるべき卓見ではなかろうか。
と同時に、官僚諸君は、そのような視点であるべき行政介入を構築していかねばならないだろう。
グローバル、グローバルなどと浮き足立っていると、そのうち「国家試験などという規制も廃止しろ」といわれるのだから。
グローバル経済に邪魔なのは国家の規制、そして国家そのものであることは、TPPなどがよく示していますね。
その点でトランプにちょっと期待してしまった私です。
 
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2017年08月20日

西尾浩二・朴一功訳 プラトン『エウテュプロン/ソクラテスの弁明/クリトン』発刊!――西洋古典叢書

 京都大学学術出版会の西洋古典叢書から、大谷大学の朴一功先生と西尾浩二先生の翻訳されたプラトンの『エウテュプロン/ソクラテスの弁明/クリトン』がこの8月15日に発刊されました。

「エウテュプロン」というのは、裁判前の予備審問に向かうソクラテスとエウテュプロンという人物との「敬虔」をめぐる対話。
これを西尾先生が訳しておられ、あとの「ソクラテスの弁明」「クリトン」を朴先生が訳しておられます。
つまり、裁判前のソクラテス、裁判でのソクラテス、裁判のあとの獄中でのソクラテスがこの一冊において描かれているというわけです。
そして、先に同じ叢書で朴先生が訳されている「パイドン」を並べると、裁判前から裁判を経て獄中で死刑に赴くソクラテスまでが描かれているということになります。

 わたしは「エウテュプロン」というのは今まで読んだことがなかったので、これを機会にこのひとつの流れなの中でソクラテスを、そしてそのソクラテスを描くプラトンを考えてみたいと思います。
 
 「弁明」や「クリトン」をパラパラと読んでみると、今まで読んでいた翻訳とちょっと感じが違います。
なんかすっきりしているのです。
しかし、大理石でできた「普遍的人間」「理想的人間」が対話している・・・というのでもない。
ちゃんと一人の体温も体臭ももったおっさんが話しているという感じなのですね。
そして的確な注、詳細な解説できっと新たなソクラテスに会えそうな予感がします。

 夏休みのカツオ状態に安住していたカドワキを、この本はまずは「バッカモ〜ン」と叱ってくれたのでした。
ほんと、うちの古代ギリシア人はよく働きます。
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2017年08月03日

カツオになりそう――悩ましい夏休み

 試験週間もレポートの締め切りも過ぎて学生諸君は夏休みです。
しかし我々教員は試験やレポートの採点。
以前はお盆の前に採点締め切りがあり、それまでにエイヤッと採点して教員も夏休みに突入していたのでした。

 ところが、最近はネット環境が発達したため、我が教務課は親切にも「締め切りはお盆過ぎ。自宅からネット入力でどうぞ」と言ってくれるのでした。
ありがたい!ようですが、これが悪魔のささやきです。
山のようなレポートを見ると、「締め切りはそうとう先だし、そんなに慌てることないか」というささやきがどこかからか聞こえてくるのです。

 かくして、お盆を過ぎたころ、あわくって採点している夏の終わりのカツオのような我が姿が見えるのでした。
誰か、いま現在カツオ状態に突入せんとしているわたくしを、波平さんのように「バッカモ〜ン」と叱ってくれますまいか・・・
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2017年07月19日

腰のフラメンコ――アントニオ・カドワキ、腰がとってもベラフォンテ

 このあいだの連休は、お坊さんの勉強会で三日間みっちり一楽真先生のお話を拝聴しました。
何度かハッとさせられる充実した聴聞体験でしたが、場所はお寺の本堂。
座ってお聞きするというのは、あの暑さの中、なかなかつらい。
ときどき胡坐をかいたりして、しびれやひざの痛さをまぎらわしながら拝聴しました。
腰、痛い。

 で、火曜の朝、大学に出るときちょっとしゃがんだら、腰にメリメリと魔女の一撃。
以来、腰がとってもベラフォンテ。
つまり、いてて、いてて、という「バナナ・ボート」状態になったのでした。

 それで現在は、バンテリンの腰サポーターをしているのですが、この黒いサポーター、なんだかフラメンコダンサーの腰巻のように見えなくもない。
思わず「すきなんだけどーぉ」と「星のフラメンコ」を口ずさんでしまいました。
で、この腰サポーターをしているときは、アントニオ・カドワキと呼んでくだせぇ、というはなしでした。
ホセ・ガドワーキってのもいいですね。
「痛いんだけど〜、チャチャチャ!!!」
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2017年07月12日

三代先は猿――佐野洋子『あれも嫌いこれも好き』より

 佐野洋子さんの『あれも嫌いこれも好き』というエッセー集の次の文章を思い出しました。

「〇子様
 私の友達が結婚する時、相手方が「釣り書き」というものをよこし、それは家系図だったそうでなかなかの家柄だったようです。私の友達は父親に「こんなものが来たよ」と見せると父親は「うちは三代先は猿だったと書いておけ」と言ったそうで、それから四十年たちますが、猿の子孫もなかなかの家柄も仲良く家族をやっているので、本当に日本は民主的国家となっています。」

 ところが洋子さん、近ごろはそうでもないようです。
野党の党首が日本のほかに別のアジアの国の国籍も持っている(残っていた)ということで、問題になっています。
おそらく問題にしているのは、ごく一部の人たちでしょうが、日本の国籍がはっきりしていれば問題ない、とその党が言いきれないのがなさけないですね。
そんなことだから、その野党はいつまでたっても信頼されないのでしょう。

「三代先は猿」、そんなおおらかさ・・・が足りません。
posted by CKP at 13:26| Comment(0) | 雑想・戯言 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年07月11日

平田オリザの「読書日記」――伊東光晴『ケインズ――”新しい経済学”の誕生』

 暑い!なんも考えられない!
というわけで、今朝7月11日の毎日新聞の「読書日記」。
今週から執筆陣に加わった平田オリザ氏の記事。

「17歳の時にこの本に出合ってから、幾たび私はこの小さな新書を手に取ったことだろう」と始まる。
この新書とは、岩波新書の『ケインズ――”新しい経済学”の誕生』のこと。
概要は次の3段落にまとめられている。

「ケインズは、それまで長く信じられてきた古典的な自由経済への妄信を打破した。政府はできるだけ経済活動に関与しないという夜警国家から、福祉国家への道を開いた。
 ケインズはまた、当時、植民地債を持ち、その利息によって生き延びる既得権益の階級を「非活動階級」と捉え、その投資を国内へと振り向ける努力をした。
 このケインズの理論を支えたのは、徹底した知性主義であった。人間の知性を信頼し、合理的な政策によって社会は改良できるとケインズは信じ、また行動する。」

 そして、この本ではあまり触れられていないというケインズの芸術との関わりを平田氏は強調している。

「ケインズは、「もはやこの国は世界に冠たる大英帝国ではない」と考えた。そのイギリスで、あの小さな島の中で、旧植民地から流入してくる多様な人々を含めて、国民が誇りを持って暮らしていくためには、芸術・文化の力を使うしかないとケインズは考えたのではなかった。」

 平田氏はこのケインズをうけて、このさまざまな人々が暮らす狭い日本で、「人々をつなぐのは経済ではなく文化だろう。あるいは多様性を理解するための芸術だろう」と述べる。

 規制緩和や関税撤廃で国家の「夜警国家」化が「善」とされる現在に向けての発言として興味深く拝読したのでした。
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2017年07月05日

大拙忌公開講演会――7月6日は明日です

 都民ファーストといのもなんだかなー、といろいろと考えていたら、もう明日に迫った大拙忌のご案内をするのが遅くなってしまいました。

 昨年までは、主に鈴木大拙の謦咳に接した方々から、大拙の思想を語っていただく、というのが大拙忌公開講演会の趣旨でした。
しかし、没後50年を過ぎた今、それもだんだん困難になってきております。
というわけで、今年から、宗教をめぐる、あるいは命をめぐる問題を宗教学や哲学の視点で考えてゆく講演会にしていきたいと思います。
もちろん、大拙そのものを考えるということもありますが、もう少し広い問題を考えてゆきたいということです。

 というわけで、今年は、この一年間、アメリカで在外研究をされていた藤枝真先生から、とびきり新鮮でホットな話題を提供していただき共に考える場を持ちたいと思います。

大谷大学宗教学会 大拙忌記念公開講演会
 1017年7月6日(木) 16時20分より17時50分
 会場:大谷大学 慶聞館(新しい建物)2階K208教室

 講題「日米生命倫理における言説スタイルの変化」
 講師 藤枝真先生(大谷大学文学部哲学科准教授)

 ご案内が遅くなりすみませんでした。
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2017年06月22日

詰将棋を解いて、ヘーゲルを読もう!――弁証法は藤井クンに学べ

 藤井4段、すごいですね。
とうとう28連勝です。
中三でこんなことになってしまって、残りの人生はどうなるのでしょう――などと、よけいな心配をしてしまいます。
もう、誰か負かさんといかんのちがう?

 というわたしも、昔途中で放り投げた詰将棋の本を引っ張り出して、アタマを鍛えています。
三手詰めの問題を、うんうん言いながら解いています。
63歳からでも遅くはない!

 ところが、そのあとヘーゲルを読むと、あら不思議、今までのどうしても読めなかったところが、するすると詠めるではありませんか!
おそらく、ヘーゲルの文章を、詰将棋を解くように読んでいるのでしょう。
つまり、こちらがこう出れば、あちらがこう出て、そうすればこう出る。
つまり、対話的な運動を文章に読み込んでいる、これぞ弁証法!

 これ冗談ではなく本気です。
将棋の論理とヘーゲルの論理、けっこう共通点があります。
なにせ、死んだコマが生き返るのですから。
ヘーゲルではそれをガイストつまり精神と言っとりますです、はい。

 藤井4段の健やかな今後を祈ります。
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2017年06月20日

うんこ哲学ドリル――やけくそになったわけではない

 先週末、テレビで国会中継をみていて、怒りのあまり憤死しそうになりました。
思わず、「アベのクソ野郎」と叫びそうになりましたが、その言葉をグイと飲み込みました。
それでは、あまりにも失礼。
もちろん、クソつまりうんこに失礼ですね。
うんこは、生きていく上にたいへん大切なものです。
きちんとウンコがあることで、明るい毎日が築かれるのです。
アベなどにはもったないことばです。ウンコ、ごめん。

というわけで、待望の「うんこ哲学ドリル」。

〇〇を埋めよ。

1.カドワキは「我、うんこす、ゆえにわれあり」と言うが、〇〇〇〇は「我思う、ゆえに我あり」と言った。

2.「人間とは、食物を口から摂取し肛門からうんことして排泄する一本の管である」とカドワキは言うが、パスカルは「人間は考えるひと茎の〇である」と言った。

3、ヘーゲルは「ミネルヴァの〇〇〇〇は夕暮れに飛びたつ」と言ったが、カドワキのうんこは夕暮れに飛び散る(ちょっと下痢気味なのね)。

4、カドワキは、「うんこは生きている」と主張するが、ニーチェは「〇は死んだ」と述べている。

 こういうのなら、スラスラ書けるのですね。
小4男子の感性ちゅうことやね、わし。
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2017年06月14日

責任者出て来い!――文科省の責任

 内部告発者を国家公務員法違反で罰するなどとヨシイエ文科副大臣が言っているそうな。
共謀罪が法務委員会での代決をすっ飛ばして本会議で強行採決する方向ですと。
自民党アベ独裁政権。
もはや、ほとんど北朝鮮です。
頑張れ、文科省の心ある官僚たち!

 と言いたいところですが、よく考えてみれば、このような事態――ほとんど北朝鮮的な恫喝政府を若者たちが支持しているという事態――を招いた責任の一端は文科省の教育行政にあることは、この際、十分に反省していただかないといけない。

 教育の目的をひたすら安定した就職において、大学にさまざまなめんどくさい仕事を押し付けたのは文科省でありました(それらの山のようなペーパーワークは官僚たちの天下り先の機関から要請されるのですよ)。

 教養教育つまり昔の2年間の教養部という教育システムを破壊し、ひたすら即戦力養成の機関として大学を位置付けた文部行政の結果、大学生や若者たちは急激な変化を望まない、ひたすら安定した就業状況だけを願う羊のような群れになってしまったのでした。

 つまり、文科省が前世紀末ごろから行ってきた教育行政は、真理とはなにか、正義とは何か、共に生きるとは何か、などということなどは考えない、就職率だけを考える学生を育てることに成果を上げてきたのです。
その結果、アベ悪代官とカケ越後屋が好き勝手やって、文科省をいたぶっても、「この政権の政治は安定してるからいいんじゃないっすか」といっこうに安倍政権支持を変えない若者世論を形成するのに貢献してしまったのでした。
また、一方では、とにかくすぐ結果が出るような研究に補助金出すよという文部行政も、とにかく儲ければ偉いつまり「所詮このようは色とカネ」というようなエートスをせっせと作り上げているのでした。

 このあたりのことを、いまアベ独裁政権にはらわたが煮えくり返っている心ある官僚の皆さんに、よ〜く考えていただきたい。
もちろん、その文科省の言いなりになっている大学も、でありますが・・・
posted by CKP at 17:52| Comment(0) | 雑想・戯言 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年06月13日

所詮この世は色とカネ――オイオイの言葉

 マエカワ元文科省次官が、出会い系バーに行ったのは貧困問題の調査のため、と述べたとき、私は、なるほどそうなんだ、と素直にその言葉を信じたのでした。
ところが、ニュースショーなどでは「そんなバカな・・・」と全然相手にしない。
『国家の品格』の著者も、あんな奇妙な言い訳をするより「私はスケベです」と言うべきだ、みたいなことを書いておりました。
しかし、少しはスケベ心もあったかもしれませんが、どうも「貧困問題調査」というのは本当だったようです。

 それで思ったのは、現在、政治の中心やマスコミの中心にいるほとんどの人たちの人間観は基本的に「所詮この世は色とカネ」ということなんだな、ということでした。
そう考えるから、あのような情報を流したのだろうし、また「貧困問題調査」なんかあり得るはずがないとバカにしたのでしょう。
つまり、ヨミウリは「色とカネ」新聞ということです。
規制緩和というのも、「所詮この世は色とカネ」のための政策のようにも見えてきます。

 ま、色にもカネにも縁のない人間の恨み節ではありますが・・・
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2017年06月06日

ガラケー暴走――カドワキ、夜の街を徘徊す

 7年ほど使っていたガラケーを変えました。
というのは、先週の火曜日、夜の10時頃に奥さんから生存確認の電話があったのですが、通話ボタンを押してもただひたすらベルが鳴り続けるだけ。
どのボタンを押しても反応なし。
5分ほどしても鳴りやまず。
これは何事か起こっているのかと、ビービーなり続けるガラケーを手に、御園橋通りに出て公衆電話を探す。

 焦っていたので、ジャージのズボンにシャツ、サンダル突っかけて、60過ぎの白髪の老人が、ビービー―なり続けるケータイを手に、夜の通りを徘徊する図ということになってしまいました。
みなさん、胡散臭そうにこちらを眺めている。
しかし、行けども行けども公衆電話はない。
ホント、全然ない。

 その間、とにかくケータイのボタンを押しまくる。
ああ、どうしよう・・・と途方に暮れて歩いていると、ケータイの電源が切れた。
が、公衆電話は見つからず、汗だくになりながら、ともかく下宿に向かう。
そのうち、ボタンをあれこれ押していたら、ケータイの電源が入り、何事もなかったように奥さんにデンワが通じる。
5回ほど鳴らして、お風呂かなと思って切った、とのこと。
私の生存に関しては、それほど心配されていなかったのでした。

 しかし、次にこんなことが起きるのはかなわんので、ガラケーを新しいガラケーに変えました。
5,000円ほどの機種で、ポイント使ってほぼ1,000円。
店員さんに「公衆電話がないね」と同情を求めたら、「パソコンは使わないんですか」と不思議がられました。
下宿にパソコンは置いてないのです。

 というわけで、常日頃から、公衆電話の在り処は確認しておきましょう、というお話でした。
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2017年06月01日

勧善懲悪――久しぶりの『昭和語広辞苑』

 今の政治になにか既視感があると思ったら、これ、時代劇、水戸黄門的時代劇そのまんまなんですね。

 アベ悪代官とカケ越後屋が裏でつながって私腹を肥やしている。
菓子箱に入った小判の授受はないようだが、「わしの言うとおりにすれば、悪いようにせん・・・・むはははは」という世界が、現実に展開されておるのです。
しかし、もう、ドラマが始まって40分過ぎてるのに、いっこうに黄門さまも暴れん坊将軍も桜吹雪も出て来ない。
アベ悪代官の支持率はいっこうに下がらない・・・いったいどうなっているのでしょう。

 「勧善懲悪」という言葉は死語になってしまったのでしょうか?

 とくに若い世代のアベ支持率が高いらしいです。
この世代、あまり時代劇見てませんからね。
それに、彼らが見て育った戦隊ヒーローものは、むかしむかしの月光仮面や快傑ハリマオと違って、悪がポストモダン的に微妙に悪でないらしい。
若い世代というのは、昭和世代のようにな「悪い奴らをやっつけろ!」という単純な倫理観を持っていないように思われます。
どういう倫理観なのでしょう?

 おそらく、ジョブズとかホリエモンとか、この世代のヒーローを分析すればこの世代の「善とは何か」が分かるのでしょうが、わしは分かりたくないぞ!
posted by CKP at 14:11| Comment(0) | 雑想・戯言 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年05月30日

みちのく荘 雲刻斎――オイオイの三木成夫

 布施英利の『人体 5億年の記憶 解剖学者・三木成夫の世界』を読んでいます。
お弟子さんの本なので、三木成夫の解剖学者としての特異性が強調されていて実に分かりやすいです。

 また、最初の方には、三木成夫の東京芸大での授業の様子などが書いてあって、なかなか楽しい。
それによると、三木成夫はウンコが好きだったようです。
わたしも、ウンコ大好きなので、うれしかったです。

 東北出身の友人がたてたアパートの名前を付けるということで、三木は

みちのく荘

と板書して、三木は「ハハハ」と笑う。
そして、その看板を雅号を雲刻斎という書家が書いたそうな。それで

みちのく荘 雲刻斎

と板書して「ガハハハ」と笑う。
そして「みちのくそう うんこくさい」と何度も音読して、教室は暖かい笑いに包まれたそうな。
このアパートの話が本当なのかどうかは分からないが、東京芸大でこんな授業がなされていたと思うだけで、うれしくなります。

 わっしーも、京都芸大で、どないでしょう?

 我が哲学科も、「うんこ漢字ドリル」のむこうをはって「うんこ哲学ドリル」でも作りましょうか?
posted by CKP at 13:29| Comment(0) | 雑想・戯言 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年05月25日

人の身になって考える――客観的に考える

 アベ君が「朝日新聞の報道は言論テロ」というツイッターだったかフェイスブックだったかに「いいね」を押した、という情報がネットで報じられています。
報道をテロと断定するそういう考え方は言論弾圧だ!という批判はもっともです。

 が、それ以前に、アベ君にとっては、今治市の獣医学科新設をめぐる一連の報道はテロに見えてしまった、ということが、問わず語りに事の真相を告白しているのが面白いです。
ここはアベ君の身になって考えてみませう。

「こ、こんな報道は爆弾みたいなものだ!こんなことが報道されたら、僕の政治生命が終わってしまう・・・」アベ君はきっとこんなふうに思って朝日新聞の報道を苦々しく思っていたのでしょう。
だもんで、「朝日は言論テロ」という書き込みに思わず「いいね」を押してしまったんでしょうね。
心中お察し申し上げます。
しかし、一国の宰相がネットの書き込みにいちいち「いいね」を押しとっちゃいかんよね。

 また、国連の人権部門から今度の共謀罪法案に質問書が来ていて、それを露払いのスガ君がはねつけているという報道も表に出てきています。
この状況を客観的に外から見ると、日本というのは、人権を軽んじる国に国連には見えていて、北朝鮮と同じようになるのではないかと危惧されているということなのでしょう。
そう思って、アベ君とキム君を並べて眺めてみると、だんだんその太り具合、刈り上げ具合が似てきているような気がします。
また、取り巻きの必死の生き残り忖度処世術というのも似ている。
これで、「忖度なんかしていられるかい!」という人たちが出て来なかったら、ホントそっくりになってしまいます。
 
 そのあたりのことが週刊文春、新潮に出ていそうで、さて、今日はどちらを買って、サンダーバードにのりませうか?
posted by CKP at 14:10| Comment(0) | 雑想・戯言 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年05月24日

どや、悪いようにはせんかったやろ?――オイオイの言葉というよりオイオイの村上春樹

 川上未映子が訊いて村上春樹が応えるインタビュー本『みみずくは黄昏に飛びたつ』を読みました。
村上春樹の『騎士団長殺し』の制作の様子や自作への態度(昔の作品のディテールを完全に忘れている!)など、なかなか興味深く読めました。
が、中でも面白かったのは、読者と作者の間はある種の「信用取引」で成り立っているという考え方の表現。
川上が「ほら、悪いようにはしなかっただろう」と表現したのを受けて村上がわざわざ関西弁に言い直す。

どや、悪いようにはせんかったやろ?

なんだかドキッとしました。
ご自分でも「生々しくなる」と言っておられます。
なんとなく河合隼雄の匂いも感じられます。

 と同時に、村上春樹って、関西人だったということに改めて気が付きました。
尋ねる川上も関西人、両方とも神戸あたりの出身なんだから、あっさり神戸弁でのインタビュー本にすれば劇的に面白いのに・・・と思ったのは私だけではないでしょう。

 この本の中で、地下二階の集合的無意識というのが何回か話題になっていましたが、村上春樹に個人的集合的無意識という矛盾した領域があるとすれば、そこには神戸弁がうずまいとるかもしれんなー・・・と思ったりもしました。
地下一階の近代的自我の葛藤よりも、地下二階の集合的無意識から物語が生成するというのも、ひょっとして関西的なんかもしれん。
東京弁というのは、近代的自我の悩みを語る言葉でありますが、関西弁はそんないちびったことは邪魔臭いとさっさと素通りして、おもろいところだけではなしつくるからなぁ・・・
posted by CKP at 13:25| Comment(0) | 雑想・戯言 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年05月22日

ねちょねちょ生きるこっちゃ――オイオイの言葉

 2,3週間前の「折々のことば」で松方弘樹兄貴のテレビ役者と映画俳優についての言葉が紹介されておりました。
対して、松方弘樹兄貴の役柄の上での名ぜりふは何といっても『仁義なき戦い』の坂井鉄也の

「神輿が勝手に歩けるいうんなら歩いてみないや、おう!」

でありましょう。
「神輿」とはもちろん金子信雄が見事に演ずるせこい卑怯もんの組長・山守ですね。

 これにはどなたも異論のないところでありましょうが、先日、松方弘樹兄貴追悼ということで購入した1966年の『893愚連隊』という日活ヤクザ映画!のラストの松方兄貴のセリフもなかなかよろしおまっせ。

 これは、京都を舞台としたせこいせこい愚連隊の映画。
白タクとか無銭飲食とかのせこいシノギばかりやっていた若き松方弘樹率いる民主主義的愚連隊が、封建的ヤクザの鼻をあかして、ひと山当てるというお話し。
しかし、最後の最後で元の木阿弥に戻って、七条大橋か五条大橋の上でのセリフ。

「ねちょねちょ生きるこっちゃ」

これがなかなか味わい深くよろしいのではないかとご紹介する次第。

 それにこの映画、京都でのオール・ロケ。
1965年ごろの京都駅や四条河原町、そして懐かしい市電が写されていて、それだけでも楽しい映画です。

 また、この映画、荒木一郎がその手下のチンピラをやっているという興味からもみました
自然な関西弁で、せこいチンピラを好演していますが、この年、「空に星があるように」とか「今夜は踊ろう」がヒットするんですね。
そのうえ、この荒木一郎、マジックの本なども何冊か出している。
なんだか不思議なヨコワケ青年です。
posted by CKP at 12:10| Comment(0) | 雑想・戯言 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年05月16日

・ゴォウ――オイオイの言葉

 日本語の歌でgo/ゴーの掛け声が一番カッコよいのは誰のどの曲か?
欧米では、もちろん、チャック・ベリー御大の「ジョニー・B・グッド」の「ゴー、ジャニー、ゴー、ゴー」でありましょう。
これは、どなたも異論のないところでありましょう。
チャック・ベリーなかりせば、ビートルズもストーンズもビーチ・ボーイズも無かったのでありますから。

 しかし、これが日本となるとどうでありましょうや。
美樹克彦の「回転禁止の青春さ」の「ゴー、ゴー、ゴー。レッツ、ゴーゴー」あたりかなと考えてはいたのですが、この間、ワタクシは完全に荒木一郎モードになっているので、今は荒木一郎の「いとしのマックス/マックス・ア・ゴーゴー」しか考えられませぬ。

 GS的な暗めのロックの最後に「・ゴォウ」と息をのむようにつぶやかれるgoがたまりませぬ。
「・」は、その息をのむ感じを表したものです。
決して絶叫ではなく、呟きに近いゴォウなのであります。
この荒木一郎の魅力は、なんだか体温が低そうな、どこか脱力したようなその活動姿勢です。
演歌的暑さからはもっとも遠く、ロック的な熱さとも違う不思議な軽やかさ。
わたしはタヌキ的軽やかさと呼んでいますが、なんのことやら烏丸線。

 連休中、この曲ののシングルレコードをついにネットで発見。
2,600円してましたが、この子の63のお祝いにと、購入。
幸せな63歳の誕生日を迎えることができました。
ちなみにこんな曲です。



ワンちゃんと戯れる荒木一郎がよいですね。
posted by CKP at 17:31| Comment(0) | 雑想・戯言 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年05月10日

悟性と理性――連休中に小人、閑居して不善をなした

 はい、こんんちは。
皆さん、お元気でしょうか?
わたくしは、連休の後半、お休みを満喫し、危うく不登校教師になるところでした。

 さてさて、どのようにお休みしていたかというと、することも無いので、ヘーゲルの『精神現象学』の序文の訳を暇に任せて作っておりました(べつに出版するとかの予定は、まったく爪のアカほどもない)。
それに飽きると、雑誌の付録のスピーカーを組み立てたり・・・

 で、そのとき、ひらめいたのでした。
要するに、思いついたのです。
悟性と理性の違いの説明。
カントあたりで、悟性だの理性だの、摩訶不思議な言葉が使われますが、あれはどこで区別されるのか。
悟性は、ドイツ語でVerstand, 英語だとUnderstanding、まぁ理解力とか知性と訳した方がよろしいような能力。
理性はドイツ語で Vernunft,英語で Reason、つまり推理する力とでも訳せる能力。
が、この区別、カントやヘーゲルの解説書にそれなりに書いてあるのですが、どうもしっくりこない。
で、ヘーゲルの『精神現象学』の序文を訳していて、ひらめいたのが「悟性は一人称、理性は三人称」。

 ヘーゲルというより、村上春樹の『騎士団長殺し』を読んだせいかもしれない。
つまり、悟性というのは、語りが一人称単数であるハードボイルド小説的な主体の知性。
それに対して、理性は、全体を見渡せる三人称的語り手の知性。
となると、悟性は対話を通じて三人称的理性に達する。

 とまあ、よけい分からないですな、このような説明では。
というわけで、小人、閑居して不善をなしたのでありました。
posted by CKP at 17:35| Comment(0) | 雑想・戯言 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする