2016年09月21日

それは言わない約束でしょ?――オイオイの言葉(といより『昭和語広辞苑』かな)

 世の中には「それは言わない約束」がいっぱいあるようで・・・

 この前の前の記事に書いたボケモンg〇の契約事項「某政府機関が閲覧・・・」について、それから気を付けてさがしてみるが、そんなことを問題視するマスコミはいない。
かろうじて朝日が、オリバー・ストーン監督が「これは監視資本主義の新たな段階」と発言したことを述べているぐらい(ほかにもあるかもしれませんが、私が見つけたのはこれくらい)
https://dot.asahi.com/afp/2016072200158.html
どうもこの問題に関しては「それは言わない約束」が成立しているように見える。
そういう目で見ると、あのボケモンg〇の配信の官民あげてのキャンペーンって、なんだか不気味でした。
ホント、いいのかね。

 あるいは富山市議会の政治資金不正についてはマスコミの皆さんは思いっきりたたいておられます。
が、某大臣稲◎朋見氏の白紙領収証問題はまったく話題にならない。
あれ、問題ないのかねぇ?
ひと昔まえだったら、大騒ぎしたと思うのですが。
うちの県から選出された議員ですけど、ホント、すみません。
でもね、言っとくけど、選挙区は違います!
うちの選挙区はパンツ大臣として有名な高木某氏。
いずれにせよ、トホホな県ですみません。

 しかし、
「おとっつぁん、おかゆができたわよ」
「いつももすまないねぇ。こんなとき、おっかさんが生きていてくれたらなぁ」
「おとっつぁん、それは言わないやくそくでしょ」
というシャボン玉ホリデーの定番ギャク、いろんな意味で現在ではむずかしくなりましたね。
まずは、おそらく、半身不随で寝たきりの老人をバカにしているという問題が指摘されるだろうということ。
しかし、当時はそのような老人が身近にいたので、それほど「バカにしている」という感じはなかったのではないか?
もちろん、闘病している人の中には、不快に思っていた人はいただろうが、そのころは半身不随で寝たきりというのは普通の老人の「一形態」とみなされていたような気がする。
あの貧乏の描き方も、一昔前はみんなこうだったよなぁ、という合意があった。
だがら、、そのような家庭での「介護」が一般的でなくなっている現在、あのようなギャグを展開されても親近感がなくなっているだろうということ。
今の子どもにはきっと何のことかわかりません。

 というわけで、ギャグ自体が「お呼びでない」という21世紀の日本なのでした。
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2016年09月20日

本日9月20日台風のため休講――新校舎での講義はおあずけ

 本日2016年9月20日は台風接近のため、2限目から休講となりました。

 サンダーバードが運休になるかも知れん、と前日から京都に移動して後期の最初の講義に備えておったのである。
が、ひそかに台風休講を願ってもいたのであろう、京都に「暴風雨警報」が発令される夢を見た。
なんであれ、「休講」はうれしい。
受講する方はもっとうれしいであろうね。
が、目覚めてみれば、京都はまだ穏やか。
で、しょうがないなぁ、と大学に来たら、台風接近のため休講。
ちょっとうれしいが、ちょっと残念。
というのは、このほど完成した新校舎で講義する予定だったのである。

 別に旧校舎でもよかったのであるが、こやつに新校舎での授業をあてがっておかないとブーブー文句垂れるのではないか、という教務の的確なご配慮により新校舎での講義が今日から始まる予定だったのである。
明るい開放的な校舎で講義すれば、あたしの陰気な講義も少しはそれなりに明るいものになりましょう。
が、台風休講ということで来週にお預けとなりました。

 てなことを書いているうちに、外はひどいことになってきております。
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2016年09月19日

What's going on?ふたたび――このブログを読むと何か役に立つのですか?

 この金土日あたりに妙にアクセスが増えている。
どうもこの記事にアクセスが殺到しているのである。
http://tetsugakuka.seesaa.net/article/33816064.html
いったい何が起こっているのでしょうね?

 そういえば以前にもそんなことがありました。
その時にはビンボーダナオのことを書いた記事にアクセスがどっと増えました。
今回は、山田晶先生のこと?
よくわかりません。
ちょっと不気味です。
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2016年09月14日

「ゲームのデータはアメリカ政府機関が…」――オイオイの言葉

 勉強さぼって、『紙の爆弾』という『噂の真相』のような雑誌を読んでいた。
「コイツらのゼニ儲け」という記事に西田健という人が怖いことを書いていた。
ポ◎モ◎ゴーのことである。

 私もあれはどうやって「儲け」ているのだろうと不思議に思っていた。
西田氏はそのゲームの本質は利用者の行動を含めたデータが「自動的にデータ化」されるところにあるのであって、最初から赤字覚悟のゲーム。
そして、契約書には「ゲームのデータはアメリカの政府機関が閲覧、利用できる」とはっきり書いてある、という。
これがホントなら怖いゲームですね。
いまだにガラケーの私なぞは、どうやってその契約書にたどり着けるのか皆目分からない。

 中国・ロシアはこのゲームを「アメリカのスパイソフト」として禁止しているという。
日本のテレビは、交通事故などがあっても「注意しましょうね」で済ましていました。
恐いですね。
これが本当なら、ホント、恐いゲームですね。

 ということを書いていても、どこかで監視されてんでしょうか?
律儀に伏字にしてるのは、それが怖いからなんですね。
けっこうビビリです。
posted by CKP at 19:37| Comment(0) | 雑想・戯言 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年09月10日

詩集『アオキ』――神尾和寿君から届く

神尾和寿君から、詩集が届いた。
詩集『アオキ』編集工房ノア。
詩集を送ってよこすくらいだから、神尾君は詩人だ。
詩人だけれども、それだけでは食べてゆけないので神戸方面で大学の教師もしている。
パチンコも好きだし、京一会館も好きだった。
なんだかんだで神尾君の詩集も、「現代詩人文庫」もいれれば7冊目だ。
ラッキー7の詩集である。
いやウルトラ7か?

神尾君の詩は短くて、ややこしい表現がなくて、どこかとぼけていておかしい。
おかしいけど、ときどき悲しくもあるが、そこにおさまりはしない。
邪悪であったり、猥褻であったりもする。
ひとつ紹介する。
「スィート」という詩。

人生は甘くない

ぼくに
ぼくよりも年上の人は いつもそう言う
(であるならば
どのような味がするのでしょうか)
味はない
色も形もない
喩えようがないからこその 人生
もしも
喩えることができるなら ソイツは魚や豚になっちゃうよ!

にこにこしながら いつもそう言う

という調子の詩がいっぱい。
もういっこ。「アレキサンダー君へ」

アレキサンダー君
怪獣が
もう近所のタバコ屋の
店先までやって来ている
ただちに起きてくれまいか
部屋から出てきてくれまいか 君の
渾身のキックで
息の根を止めてくれないか 想像が追いつかないほどの
凶悪な怪獣なのだからと
ぼくは
玄関の前で
直立不動で
大声で アレキサンダー君に伝えました

アレキサンダー君は起きてくれただろうか?
ところで、神尾君は私の長年の友人だと思うのだが、
今回、
じーっと詩集の奥付けを見ていて驚いた。
私はこの40年ほどのあいだ、
「和寿」を「かずひさ」とよんでいた
のだが
それは「かずひさ」ではなく
「かずとし」が正しい。
友だちとはこれくらいのものであるのだな、
アレキサンダー君。
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2016年09月07日

ねじ回しはねじ回し!――てめぇ、さしずめヤングだな

 京都駅前のヨ○バ○カメラでねじ回しを買おうと思って、受付のお姉さんに「ねじ回しはどこですか?」と尋ねる。
そのお姉さん、一瞬、「?」という表情をして「あ、ドライバーなら三階の照明器具売り場付近の工具売り場にあります」と答えてくれた。
あたしは「ねじ回し」を探しているのであって、ドライバーを探しているわけではない!と言おうと思ったが、ま、確かにねじ回しのことをドライバーとは言う。
しかし、あたしの語彙では、ドライバーとは運転手のことである。
運転手をねじ回しとは言わない。
客がねじ回しと言っているのだから、ねじ回しでいいではないか!

 で三階で、「ねじ回し、あ、ドライバーはどこですか」とお兄さんに尋ねると「工具ですね、こちらです」と教えてくれたのだが、なんで客の発言をそのままオウム返しできんか!
ついに電器屋までも、客を年寄りだとバカにし出したのか?

 というのは洋服屋は客と年寄りだとバカにする傾向が顕著なのである。
「コールテンのズボンありますか」
と尋ねると
「あ、コーデュロイのパンツですね」
そんなもさもさしたサルマタがはけるか!

「とっくりのセーターありますか」
に対して
「あ、ハイネックのセーターですね」
日本人は「とっくりのセーター」でいいの!

そのうち
「ジーパンありますか」
に「デニムのパンツですか」となるであろう。
そんなごわごわしたパンツでは、わがチ○コがすりむけるわい!

 ときどき街で妙にガミガミ怒っている年寄りを見かけるが、きっとそうゆうことなのであろう。
そういうことにならないように、ここでガミガミいうカドワキ62歳でした。
posted by CKP at 18:27| Comment(1) | 雑想・戯言 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年09月06日

さしずめインテリだな――オイオイの言葉というより寅さんのせりふ

 「てめえ、さしずめインテリだな」
とは、寅さんの名ぜりふですね。
新劇出身の俳優さんが演じる大学教授とか医者とか、時には前田吟演じるひろしに向かって、放たれるセリフ。
このセリフの「さしずめ」は渥美清のアドリブなんだそうな。
独特のニュアンスがありますね。

「てめえ、インテリだな」
では単なる推測だけど、「さしずめ」が挟まるとそこに微妙な距離感が出てくる。

「さしずめ」には辞書的には「つまるところ」「結局は」とか「さしあたって」「いまのとこ」など矛盾するような意味がある。
寅さんの場合、どうなのでしょう?

「てめえ、善人面して、俺みたいなフーテンのバカとつきあっちゃいるが、結局は、腹の底でせせら笑ってるんだろう。
ああ、上等だよ、けっこう毛だらけ猫灰だらけだよ。
だがな、そうやっててめえみていに、理屈だけこねて、自分だけ汚れないですましている奴はな、百年たっても、人の情ってもんが分からねえんだ。
見損なったよ、もう、二度とてめえの面なんか見たかねえや」
というようなニュアンスでしょうか?

 こう書いて思い出したのは、さる高名な思想家。
その人の講演の時、楽屋で最近の宗教の衰退について嘆きを共有したのでしたが、いざ講演が始まると開口一番、
「私は信仰をもちません」
と、まるで信仰を持つとはインテリの名折れというような口調で話し出した。
なんか百年の恋もいっぺんに醒めた感じ。
それ以来、その思想家の本は読めなくなってしまった。
「てめえの面なんか二度と見たかねえや」
という感じ。

 信仰、それも素朴な信仰を持つのがどうしてそんなに怖いのでしょう?
でも、私も若いころはそうだったからなぁ・・・
そのころは寅さん、バカにしていたからなぁ・・・
でも、テレビでは観てましたけど。
posted by CKP at 13:02| Comment(0) | 雑想・戯言 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年09月04日

ほんにタヌキは働き者――来週、池上哲司先生集中講義

 来週のたぶん、おそらく、きっと火曜日から池上タヌキノ介哲司先生の集中講義が始まります。
残暑厳しき京都は洛北・大谷大学で、みっちり金曜日まで。
ホント、このタヌキは働き者じゃて・・・

 という記事を書かねば…と思っておったら、タヌキの夢を見ました。
タヌキ一家が、それも亡くなったはずのご母堂様(お会いしたことはないけど)まで引き連れて、池上タヌキノ介がわが寺の境内に、な、なんとシトロエンで乗り付けてきたのである。
それも真っ白なシトロエン。

 あまりに不気味な夢なので、これはとにかく何かアクションを起こさねば悪いことが起こる・・・
というわけでここにタヌキノ介集中講義の記事をあわててエントリーするのでありました。

 くわばらくわばら・・・タヌキの呪いはげにおとろしか・・・
posted by CKP at 17:48| Comment(0) | 雑想・戯言 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年08月27日

肩がとってもベラフォンテ――サイテーな日常

 右肩が上がらない。
もうこれからは右肩上がりでは生きられないということか。

 というわけで、整形外科に行く。
まずはレントゲンを撮りましょう。
「もう60歳過ぎてるのに、50肩というやつですかね」
と冗談をかましながらレントゲンの前に立つ。
「・・・・」
医者はその冗談を完全無視。
で、出来上がったレントゲン写真を見ながら
「ま、50肩みたいなもんですね」
ちゃんと冗談、通じていたんですね。

 23日には奈良の同窓会訪問。
しかし、そこでの講演会のタイトルが見覚えがない。
え、こんなタイトルだっけ?
あまりに暑いからぼけちゃったのかな、と焦る。
で、そのタイトルに合わせてしどろもどろになって講演一席。
帰りの電車で別の書類を観ていると、ちゃんと提出したタイトルが書いてある。
良かった。
ホント、心底、良かったと思いました。

 で、ベラフォンテとはどういうことかというと・・・

ハリー・ベラフォンテと言えば、1950年代60年代にアメリカで活躍したカリプソ歌手。
「バナナ・ボート」があまりにも有名。
その一節が「イテテ・イテテ・イテーヨ」と聞こえたので、「肩がとってもベラフォンテ」。

 はい、今日27日は、大学へ出てきて、教員免許講習で一席うかがってます。
posted by CKP at 12:45| Comment(0) | 雑想・戯言 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年08月22日

ユルチェンコ三回半ひねり――「オイオイの言葉」

 昨日から京都に出てきています。
暑いというよりも熱い!
脳ミソがウニになっている。

 オリンピックも終わりであるが、こう暑いと頭がぼーっとして、出てくる単語は1964年東京オリンピックの頃の選手名ばかり。

水泳のドン・ショランダー。
陸上100メートルのヘイズ。
体操のチャフラフスカなどなど。
ただ男子体操の「あん馬の神様」と呼ばれたハンガリー(?)の選手の名前が出てこない。
・・・と私はすっかり1964年の小学4年生になってしまっているのでありました。

 しかし、その小学4年生男子、リオ・オリンピックに登場した「ユルチェンコ」という名前は見逃さないのであります。
この小学4年生男子は、新学期が始まると学校で「ユルチェンコ」という名前に少々手を入れて連呼するのであります。
つまり、ユルチ○コとかフルチ○コとか・・・まことに正しい小学4年生男子の姿ではありますまいか?!
ポケモン・GOなんぞにうつつをぬかす今どきの小学生よりよっぽど正しい。
べつに偉くはないが、正しい。
が、なにゆえそのような言葉遊びがあれほど楽しかったでしょうか。
「男子ってサイテー」とか女子に言われながらも、ね。

 ホント、サイテーですね。
posted by CKP at 11:19| Comment(0) | 雑想・戯言 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年08月17日

汗まみれの読経終われば空に秋風――無茶

 はい、今年も無事に旧盆の行事が終わりました。
ご協力、感謝、多謝。

 汗をダラダラ流しながら阿弥陀経を読みながら思ったのが・・・・

 オリンピックの陸上競技のゼッケン、あれなんとかならないの?といことでした。
シャツやパンツは、空気抵抗を考えてけっこうぎりぎりまで工夫してあるように見えるのに、ゼッケンはわたしらの中体連の時や放送陸上のときのゼッケンの同じで「安全ピン」で止めてある。
そのうえ、コース番号のシールを太ももとかパンツに貼っている。
とても百分の一秒を争うようには見えない。
あのゼッケンやコース番号シールはなんとかならないのか!と訴えても家人は取り合ってくれない・・・・
というわけでここに大書してるのですがね・・・

 しかし、夜中にオリンピック観るほど体力はなくなってきましたな。
夜はもうぐっすりです。

 ああ、ドン・ショランダーは遠くになりにけり
posted by CKP at 17:42| Comment(0) | 雑想・戯言 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年08月09日

避暑地の出来事――オイオイの言葉

 「避暑地の出来事」・・・なんか、イイですね。
なんか、こう、いろいろと妄想しちゃいます。
避暑地で毎朝散歩すると、子犬を連れた上品なご婦人といつも会う。
いよいよ避暑地を去るというその日・・・・

 「避暑地の出来事」というのは1959年のアメリカ映画「A Summer Place」の邦訳題名。
A Summer Placeという英語の語感はちょっとわからないけど、これを「避暑地の出来事」と訳したワーナー・ブラザーズの宣伝部は偉い!
そしてまた、このこのテーマ(Theme of A Summer Place)を「夏の日の恋」と訳した人も偉い!
避暑地の木漏れ日にさわやかな風が吹いてゆくような、パーシー・フェイスの名演奏ですね。



 と「避暑地の出来事」を妄想しながら、昨日今日はあっしは本堂の障子張り。
これだけ暑いと皺が寄っていけねぇや。
明日は、ご門徒の婆ちゃんたちと仏のお磨き。

 一生で一度でいいから、「避暑地」とやらで夏を過ごしたいじゃあ〜〜!
posted by CKP at 19:52| Comment(0) | 雑想・戯言 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年08月08日

『同朋』8月号発売中!――渡辺啓真副学長登場!

 ただいま、『同朋』8月号が絶賛(たぶん)発売中!
今回の特集は「憲法9条と仏教」ということで、少しだけモヒカン憲法学者・木村草太氏が登場。
ホント、鋭い人ですね。

 また、シリーズ「対話・宗教と現代社会」では、「仏教と生命倫理」というテーマで、われらがナベちゃんこと渡辺啓真大谷大学副学長が龍大の鍋島直樹先生と対談しておられて、なかなかの読物となっています。

 そして、愚僧はやね、最後のページにちょこんと『男はつらいよ』について書いているのでした。
posted by CKP at 20:13| Comment(0) | 雑想・戯言 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年08月04日

号泣する準備はできていた――『トランボ』、また観てきてしまいました。

 『トランボ――ハリウッドで最も嫌われた男』、また観てきてしまいました。
先回観たとき、ラストのトランボのスピーチ、そしてエンド・ロールの途中に出てくる本物のトランボのインタビューで号泣してしまって、ティッシュが底をついてえらい目にあいました。
だもんで、今回はティッシュを十分に用意して臨んだのであります。

 トランボ、かっこええなぁ。
もう一回観たいくらい、いい映画です(が、きょうから福井に帰っているので、観ることができません。福井では上映していないのです、トホホ)。

 ホント、この人はcommunistだった。
共に映画をつくり、共に生きるという意味での、本当のcommunist。
だから生活のため仲間を裏切った友にも、「時代の犠牲者」という大きな視点で接することができた。
かっこええなぁ。

 それと、カーク・ダグラスが意外に好漢なのに驚いた(カーク、ごめん)。
ブラックリストなど無視して、トランボに『スパルタカス』を書かせて、本名でクレジットさせたのである。

 それはともかく、ホント、ええもん観させてもらいました。
派手なアクションも、濃厚なセックスもない、ドキュメンタリータッチの地味な映画ですが、とてもリズムがよく、この映画を大切なものとして作った映画人たちの心意気が感じられる熱い映画でした。
posted by CKP at 23:01| Comment(2) | 雑想・戯言 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年08月02日

☆☆☆☆☆の大推薦です――『トランボ ハリウッドに最も嫌われた男』

 『トランボ ハリウッドに最も嫌われた男』、観てきました。
とっても佳い映画でした。
終わったとき、どこかのご夫婦でしょうか、「いい映画やったね」という会話が聞こえてきました。

 戦後から1950年代にアメリカを席巻した「赤狩り」。
トランボは、その赤狩りによって投獄という苦渋をなめた脚本家。
それはただの脚本家ではない、天才的な脚本家。

 しかし、その不正義に正義の共産主義者として敢然と戦う、というのとは少し違う。
生活のためということで、偽名や他人名義で脚本を書きまくる。
そしてオスカーまで獲ってしまう。
しかし、自分ひとりだけ抜け駆けするのではない。
食えなくなった共産党の仲間の映画人を巻き込みながら、金儲けの活動を進める。
それがかっこいい。

 また、裏切った友人に対しても、実に見事にふるまう。
絶交はしない。
その裏切りをなじるのでもない。
どこかで「裏切り」を受け入れている――うまく表現できないけど、格好いいのである。

 ブラックリストが消滅して、赤狩りが過去のものになった時も、英雄探し、悪人探しをやらない。
歴史の流れを受け入れるというのか、人間としての器が大きいというのか、人々が生きることに対するまなざしが優しいのである。
共産主義で自分の正義を主張するのではなく、人々の生きることへの応援が彼の共産主義ということなのだろう。
それゆえ、彼の書く脚本は面白いのであろう。

 今年一番の、いや21世紀に入って一番の映画でしたよ。
posted by CKP at 16:35| Comment(0) | 雑想・戯言 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年07月29日

夏風邪に わが身のポンコツ 心に沁む――無茶

夏風邪を引きました。
いつも低体温の小生にはめずらしく38度の熱。
関節はギシギシいたい。

インフルエンザかと焦ってお医者さんへ。
「この程度なら寝ていれば治ります」
「熱とかこの痛みは・・・」とわたし。
「治ります!」
最近、自己免疫主義者にでもなったのか、頓服すらも出してくれない。
この先生は、うちの奥さんの同学年で福井県でずーっとトップだった奴であります。
言うことに間違いがあろうはずがない。

言われたように、三日間、ボー然と寝ておりました。
四日目に布団からはい出し、お参りに。
そして、今日、大学に出てきて、レポートの整理。

 毎年、暑さがやってきてクーラーと暑さの交替の中で体調を崩すのだが、その崩し方が年々おお崩しになっている。
そのうち崩れてもう元には戻らんようになるのであろうか。

が、今回はあの自己免疫主義者(?)のお医者さんのおかげで、我が白血球諸君はまだまだ健在であることが証明されたのであった。
それとも病院前の薬局と喧嘩でもしたのかいな?
posted by CKP at 12:41| Comment(0) | 雑想・戯言 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年07月20日

トランボ――『ローマの休日』で世界中を騙した男

『トランボ ハリウッドで最も嫌われた男』という映画がこのほど公開される。
まだ見ていない。
しかし、ちょっと興奮している。

 このダルトン・トランボという男、あの『ローマの休日』の原案・脚本家なのである。
しかし、彼は戦後の「赤狩り」調査会での証言を拒否したため、投獄され、1年の刑期を終えて出てみれば、ハリウッドから干されてブラックリスト入り。
彼はアメリカ共産党員であった。
しかし、彼は生活のため、偽名や他人名義で脚本を書き始める。
彼が、友人イアン・マクラレン・ハンターの名前を借りて脚本市場に出したのが『ローマの休日』。
これをウィリアム・ワイラーが気に入り、オードリー・ヘップバーン主演でアカデミー主演女優賞。脚本もアカデミー賞を獲得したが、この脚本がトランボの手になるものであったことは、トランボが死ぬまで知られないままであった。
死ぬまで、世界中の映画ファンを騙していたのでした。

 ね、ちょっと興奮する話じゃないですか。

 わたしは、この話を知ったとき、いろんなことが、かちかちかち、と音を立てて重なってゆく興奮を味わったのでした。
というのは『ローマの休日』という映画は、嘘をつく、だます、そして最後まで嘘をつきとおす、というようなことがテーマになっているからです。
映画の冒頭の「パラマウト・ニュース」。
1950年代半ばの映画館では、観客は「あれ、映画が始まったんじゃないんだ。またニュース映画かいな・・・」と騙されたはず。
そして、王女と新聞記者の必死の騙し合い。
「真実の口」の前でグレゴリー・ペックがヘップバーンを騙す印象的なシーン(これはペックのアドリブと伝えられていますが)。
最後は、ローマの一日を永遠の秘密とすること、世界中を騙し続けることの確認。
そして、そこに突然出てくるヒッチコックの名前。

 やっぱり、この「おとぎ話」は、とんでもないミステリー映画だったのです。

 しかし、このトランボという人、単なる正義の人ではなく、活動するためには平気で人をだます、しかも騙すことを楽しんでいるってのがかっこいいです。
そう思って、あの「ままならないのが人生さ」ってシーンを見ると、カッコええなぁと思います。
そのあたりが映画でどのように描かれるのかが、楽しみ楽しみ・・・
posted by CKP at 12:38| Comment(0) | 雑想・戯言 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年07月14日

誤読するにもほどがある!――「即非の論理」を誤読する


 先日の大拙忌における上田閑照先生のお話に「即非の論理」というのが出てきた。

 「AはAに非ず、それゆえにAなり」

 なんのことやら、わけが分かりませんね。
同一律が支配する日常的な場面で考えようとすればナンセンス極まりない、わけの分からない論理です、いや、非論理ですね。

 この非論理を説明していただけるとありがたい、と何度おもったことか・・・
しかし、禅はこれを体験せよ、という形で迫ってくる。
説明されて「ああそうですか」と「分かる」というような論理ではない。
というわけで、説明されないままになっていると、何かとんでもない境地として崇め奉られるか、そんなお関係ねぇと遠ざけられてしまう。
上田先生は、今回の講演では、禅の言葉でその境地を指し示すということはなさらなかったが、わかりやすく説明するということもなさらなかった。

 ここは難しいところで、説明してしまうとそれは知識になってしまって、その境地自体が生きられないということになる。
それは客観的に語りうる対象論理ではない。
体験の論理なのである。
しかし、ある程度の具体的な説明がないと、体験したとき、「あ、このことか!」ということも分からないのではいか。
それで、大拙や上田先生は、その著作では、禅問答をそうとう具体的に「解説」したり、さりげない日常的体験(こどもの言動)にその境地を見出し説明しようとされている(そのような説明的行為は禅の保守本流からはいわば邪宗視されているところもある)。

 が、もうちょっと普通の体験で説明してもよいのではないか、と思うのは私だけか。
 それも普通の人の普通の宗教体験。
 大いに悟ったなどという大げさな体験でもなく、ちょっと気持ちが楽になりましたぐらいの体験でも語れるのではないか。

 例えば、合掌してお参りするという、最小限の宗教体験。
私は、合掌という宗教的儀礼においては、主語的な私ではない。
そのような私は否定されて、むしろ間接目的語的な贈与の対象、あるいは超越者から呼びかけの対象としてしか存在しえない。
それが証拠に、どんな宗教儀礼も、両手の自由を奪ったり体全体の自由を奪ってしまう。
数珠とかロザリオは主語的自由を奪う鎖なのである(座禅は結跏趺坐で主語的私は否定されている)。
そのような儀礼的時空から再生して再び主語的な私として日常を生きる。

 「我、我ならずして我なり」というわけの分からない論理は、実は日常に区切りを入れるごく普通の宗教的行為の中に体験される。
ふつうの人生の中で体験されていると思う。

 あるいは、『ローマの休日』。
ローマの聖なる日に、アン王女はアン王女としてふるまうことを禁じられる。
女学校の寮から出てきた女子学生としてしか振舞えない。
そこには、自分の振る舞いを抑制し、超越的な視点を意識して演技するという体験が成立する。
そして、そこから抜け出るとき、アン王女は大人の凛々しいアン王女になる。

 「無分別とは超越的な視点」というこの間のご講演の言葉が耳に届いたとき、私にはいろんなことがカチカチカチと音を立てて結びついたのでありました。

『ローマの休日』が「即非の論理」で説明できる!というのは、誤読なのかもしれない。
いや誤読です!
しかし、そのような誤読が、思想を豊かにするのではないか。
少なくとも、わたしは、楽しい。

 あるいは、カミュの「meprisによって乗り越えられぬ運命はない」という「シーシュポスの神話」の言葉も同じ論理で理解できるかもしれない。
新潮文庫では、「軽蔑」、内田樹先生は「俯瞰」と訳しておられるが、いずれにせよ、超越的な視点より自らを見つめ、新たな自分へと再生する。
「自殺は認識の不足である」とは、そのような「即非の論理」の欠如を言うのではないか(あたしの『哲学入門死ぬのは僕らだ!』の121頁参照うれし)。
もちろん、そんなことカミュの知ったことではなく、それは誤読かもしれないが。
誤読ですって!

 ボブ・ディランの「風に吹かれて」なども、そこには大拙的な「答え」のあり方があるように思う。
大拙をギンズバークやケルアック、サリンジャーらが誤読し、そしてディランが誤読する。
そのようにして、思想が豊かになってゆく方が楽しいと、私は思う。
posted by CKP at 12:38| Comment(0) | 雑想・戯言 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年07月12日

死にはする。殺されはしない。――永六輔氏死去で思い出した言葉

 あれは、1975年ごろの『面白半分』という雑誌だったか・・・
記憶はあいまいですが、永六輔氏が、

「死にはする。殺されはしない。」

という言葉を反戦のメッセージとして書いていたのを思い出した。
順番は逆で「殺されはしない。死にはする。」だったかも知れない。

 つまり、人間だからいつかは死ぬだろうが、戦争で殺されることはまっぴらだ!というメッセージである。

 そのメッセージに、石原慎太郎への批判がくっついていたのを思い出した。

 60年安保当時、石原慎太郎は戦争反対を唱え颯爽と運動の前面にたっていた。
わたし、永六輔はその後ろでうろうろしていただけだ。
その石原慎太郎は、今や、戦争への旗振り役を先頭に立ってやっている。
わたしは、ただ殺されるのが嫌だから、いまだに戦争反対を言いながらうろうろしている。

 そんな趣旨の言葉だったと思う。
こんなのが記憶のどこかに引っかかっていたんですね。
おそらく共感したんだろう。
今でも共感するもの・・・
ウロウロ、オズオズ、グズグズ、ウジウジ、ジタバタしている人間に共感してしまうのです。

 あのあたりの不良のあんちゃんたちが次々と亡くなってゆきます。
寂しいですね。合掌。
posted by CKP at 13:36| Comment(0) | 雑想・戯言 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年07月11日

怒涛の十日間――あたしゃちょっぴりくだびれた

7月2・3日は近くのお寺さんと合同で門徒さんとの旅行。
7月7日は大拙忌で上田閑照先生のご講演。
7月10日には、わが寺の役員会と永代経法要。
これらの日程が無事終了と言いたいところですが、有事終了で、さすがにちょっとくたびれました。

 まず、門徒さんとの一泊の旅行。
旅館での宴会もさらりと終わり、ゆっくり眠れると思っていたら、夜明けごろ添乗員さんが飛び込んでこられました。
「ご夫婦で参加の旦那さんのほうが冷たくなってます」
「冷たくなって」亡くなっておられました。
警察などの事情聴取の後、ご遺体と奥さんと責任者を残して、盛り下がった旅行は旅館を出発。
ホント、心臓は簡単に止まるのです。

 次に大拙忌。
こちらは、ま、無事に終了なのでしょう。
が、よい講演会と感謝されたり、お小言頂戴したり、どっと疲れました。

が、疲れる暇なく、役員会の書類準備。
そして、寺のそうじ、そうじ、そうじ、そうじ。
こちらも、役員会で「墓地のそうじがゆきとどいていない」とのお小言をいただいて、がっくり。
はい、くたびれました。

 セルジオ・メンデスが演奏する「フール・オン・ザ・ヒル」を聴いてぼんやりしてます。
こんな曲も、大拙が英語で仏教や禅を語らなかったら、聴くことはできなかったような気がします。
posted by CKP at 16:22| Comment(0) | 雑想・戯言 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする