2016年12月02日

『墓穴』をみる――いよいよ明日・明後日公演!!

「syubiro thater始動。
 福山俊朗が同世代の大人たちへ贈る、
 珠玉のエンターテイメント。
 初回を飾るは、
 関西ラジオ界の女王キヨピーこと
 谷口キヨコが満を持して舞台に挑戦!
 ヒロインを囲むのは 
 木内義一、坂口修一、福山俊朗と手練れの俳優たち。
 豪華なラインアップでお贈りします」

というわけで、ロームシアター京都ノースホールで、
 12月3日土曜日 19時
 12月4日日曜日 13時、16時
の3回の舞台があるそうです。
「墓穴」をどうするのか、興味のある方はどんぞ!

 と、いきなりなんでこんな案内を大谷大学の哲学科教員ブログでやっているかというと、
この劇のヒロイン役のキヨピーこと谷口キヨコさんが、現在、うちの大学院で学んでおられるからです。
あるときは京都芸大学長、あるときは折々おじさん、そしてあるときは大谷大学客員教授の鷲田清一先生や朴先生にみっちり指導を受けています。
そんなわけで、わたしの研究室にもポスターが配られたのでこうしてご案内する次第。
 
 しかし、谷口さん、「関西ラジオ界の女王」だったんですね。
いつもため口きいて,すみませんでした。
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2016年11月29日

言語の矛盾――音楽の嫉妬

 先ごろ、わっしぃの「折々のことば」に取りあげられたジョン・ケージのことばが、我がアタマに引っかかってはなれませぬ。

I have nothing to say and I am saying it.

これが、butで連結された文ならば、「言うことは何もないって、それを言っているじゃないか!」という揚げ足取りの突っ込みなのだろうが、andで結ばれた場合は、そうはなっていないように読める。
わっしぃによれば、ケージはこのことばをよく口にしたという。
 
 思うに、ケージは音楽の立場から、言語に嫉妬していたのではないでしょうか?
「何も言うことはない」と言うことができる言語に、音楽は憧れた。
矛盾を平気で抱え込む言語に、音楽は嫉妬した。
しかし、音楽は「何も言うことはない」を、「演奏しない」ということでしか表せない。
言語のように、発話主体と文の主語が平気で矛盾するということができない。
「何も言うことはない」は、4分33秒、ピアノを弾かないということでしか表現できない。

 と、ここまで考えて、待てよ、とケージの曲をフッソングというアコーディオン弾きが引いているCDを取り出してみる。
すると、そこでは常に音がなっている。
アコーディオンのふいごから空気が送られている間、ずーっと音が鳴っていて、その上にメロディが流れる。
となると、ずーっと流れている音はメロディという図に対する地として、背後に退き、沈黙と同じ役割を持つ。
そこでは、確かに音が沈黙を表現するということになる。
が、それはあくまでもメロディに対しての地としての沈黙。
(この音のある地と音のない地をヘーゲルの論理学の最初の存在=無⇒生成の説明に使うとよく分かる!)

 が、もういっこ、高橋悠治が弾くプリペアド・ピアノはいったいこれと関係あるのか?
ピアノの弦にいろんなものを挟み込んで演奏するプリペアドピアノをケージは発案した。
どんな音になるかは弾いてみなければ解らない。
久しぶりにLPを引っ張り出し聞きましたが、なかなか、ミニマル・ミュージックとして気色よろしい。

 これと先の言語への嫉妬を合わせて考えた。
この間、ずーっと考えていたのです。
もらえなかった「お礼」のことばかり考えていたのではないのです。

 で、まったくの思いつきですけど、ケージは水墨画の世界を音楽で表現したかったのではないか?
描き残しというか、まったく塗られない広大な空間が平気で広がる水墨画。
しかし、その「何も描かれていない空間」が何かを伝えてくる。
しかも、その線は、かすれていたり、墨のしずくが垂れていたりすることもある。
作品を偶然に平気でゆだねている。
そんな音楽を創りたい・・・・

 それがどうした、と言われると困るのですが、雪舟あたりの水墨画を想いながら、ケージを聴くとなるほどとけっこう納得して気持ちよく聴けるのでした。




posted by CKP at 17:58| Comment(1) | 雑想・戯言 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年11月23日

待てば海路の日和あり――眠れ、小さき人よ

 え〜、いろいろご心配いただいたり、喜んでいただいたりした、「カドワキは小さい人間であること」再認識事件ですが、先ほど解決いたしました。

 本日、夕方、先方のご住職から電話があり、すぐにこちらにおいでになるとのこと。
れいの「御包み」をもって来られました。
おそらく今日、床の間かどこかにその包みがあるのを発見され飛んでこられたものと思われます。

 いや〜、べつにボランティアのご法話でもかまわなかったんだけどね〜。
ま、せっかく持ってこられたことだし、いただいてもバチはあたらんでありましょう。

 というわけで、本日は熟睡する小人カドワキでした。
posted by CKP at 20:04| Comment(0) | 雑想・戯言 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年11月22日

おらが村さクマが出た!――ちょっと物騒な里の秋

 もう稲刈りもすんで、家々の柿木に柿が鈴なりになっている「しぃずか〜な静かな里の秋」の風景が広がるおらが村。
そんなおらが村にも、ついにクマが現れました。
ミサキさんちの木に登っていたとのこと。

 今までタヌキやサル、シカ、イノシシが出てきていたが(けっこう出ているね)、クマは初めて。
北陸新幹線の工事がやかましくて、こっちの方にクマが回ってきたのか?

 まだ、おらが寺の境内では見かけていない。
境内でクマと鉢合わせしたらどうしょう?
お参りはこちらと本堂に案内したらいいでしょうか?
案外、本堂で手を合わせて帰って行ったりして・・・
posted by CKP at 13:51| Comment(0) | 雑想・戯言 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年11月18日

ついに登場――クルレンツィス『ドンジョヴァンニ』

予約しておいたテオドール・クルレンツィス×ムジカ・エテルナの『ドン・ジョヴァンニ』が届きました。
これで、彼らのモーツァルト×ダ・ポンテ三部作、つまり『コジ・ファン・トゥッテ』、『フィガロの結婚』そして『ドン・ジョヴァンニ』が完成したわけであります。

 全曲聴き通すと3時間近くかかるオペラです。
しかし、先週とどいてから、私はもう二回も聴きとおしてしまいました。
全曲きちんと聴きとおすのはおそらく40年ぶりくらい。
軽快でしかもメリハリが利いていて、とても面白い。
往年の大歌手の迫力は聴かれないけれども、全体のバランスがよく、とても見通しがよい。
このオペラにつけられる形容詞「デモーニッシュ」というのとは違う不思議な魅力が迫ってきます。

 先の二つは完全な喜劇ですが、この『ドン・ジョヴァンニ』は、冒頭にいきなりドン・ジョヴァンニが、引っ掛けそこなった女性の父親を殺し、最後にはその父親の亡霊によって地獄に道連れにされるという暗いドラマ。
そこを強調してデモーニッシュな演奏があるわけです。
しかし、その二つの事件の間は、女たらしドン・ジョヴァンニとその従者レポレッロの喜劇。
昔から悲劇か喜劇が判別がつかないオペラとして有名で、これという決定盤が見当たらないとされるオペラです。

 少なくとも私にとっては、この演奏が決定盤になりそうなレコードです。
軽快であり、しかしずしんと来る――どうも褒める言葉が見つかりません。
それでブックレットをめくっていたら、このドラマについてクルレンツィスがカミュの『シーシュポスの神話』の「ドン・ファン論」から次の部分を引用していました。

「ドン・ファンのなかに、生のむなしさを説く『伝道之書』で養われた人間を眺めようと試みるのは、一見いかにももっともらしいが、大きな欺瞞である。なぜならばもはやかれにとっては、死後の生への希望意外は、なにものもむなしくはないからだ。かれみずからその証拠を示している。自分の死後の生を、天国とは反対側のほうに賭けているからだ。享楽のなかに失われていった欲望を愛惜する、――不能を語るそんな常套句はかれには属さない。そんなものは、自分を悪魔に売りわたすほど神を信じていたファウストにこそ似つかわしい。」(清水徹訳、新潮文庫版改版、126ページ)

 クルレンツィスの『ドン・ジョヴァンニ』の面白さは、このようなドン・ジョヴァンニ観に秘密がありそうです。
が、あんまりそこから論ずるより、まずは聴いて楽しみます。
とっても面白いです。
輸入盤だとLPでも4千円台、CDだと2000円台(円安が進むと値上がりするかも・・・)
posted by CKP at 21:32| Comment(0) | 雑想・戯言 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年11月16日

いまさら言うのもなんですが――私は器の小さい人間ですぅ

 先日、あるお寺の報恩講で法話を一席うかがう機会をいただきました。
親鸞聖人のご恩をご門徒の方々と確認し、そのうえなにがしかのお鳥目までいただけるというような、まことに有難い機会、私などには勿体ないような機会であります。
わたしの場合、どういうわけか、このところそういう機会がさっぱりなくなったので、めったにない機会と、張り切って出かけました。
風邪で喉が痛く熱も少しありましたが、我が寺の親鸞聖人の原寸大の熊皮の御影を持ち出して、お話ししたのであります。
幸い、ご門徒方も身を乗り出して聞いていただいたように思います。

 そのあとご住職と歓談し、歓談し、歓談。
そしてご住職は何やらお取込みがあるらしくどこかへ行ってしまわれました。
はて、どうしたものでしょう?
こういう場合、話が終わると、ご住職から和紙に「御礼」と書かれた包みをいただくのです。
そして、「いやいや」とかわけの分からないことを言って、結局はいただく。

 が、いっこうにその気配がありません。
こちらから請求するわけにもいかない。
ご住職は消えたまま。

 いつまでも、もの欲しそうに座敷にポツンと居残っているわけにもいかず、腰を上げました。
奥様からお土産をありがたくいただきました。
そして、玄関で晴れやかに送っていただきました。
が、こちらはなんだかかたづかない気持ちのまま。

 ま、家に着くころには「あ、お礼をお渡しするのを忘れました」と連絡があるだろう、と家路につきます。
が、家についても、そのような連絡は無し。
一日たっても、二日たっても、三日たっても連絡なし。

 あの法話はボランティアだったのかなぁ。
いや、去年は「お礼」ってもらったぞ。
座敷を掃除をすれば、床の間に「お礼」の包みを発見して「忘れていた!」って大騒ぎになるのでは・・・
などといろんなことを考えます。

 いやいや、親鸞聖人のお話をさせていただいただけでもありがたい事じゃないか・・・
と思おうとするのですが、やっぱ、なんだか片づかない。
そんなに気になるなら直接電話で確かめたら・・・と家人に言われるが、そんなあさましい真似はできない。
と、考える自分が浅ましい。

 ひょっとして、いただいたのを私自身が忘れたかな、と不安になって鞄などを探すがやはりない。
「いただいたお礼を持ち帰るを忘れてないでしょうか」という電話をしようかなどとも考える。
「お礼は振り込みになったのでしょうか?口座番号ご存知でしたでしょうか」と電話しようとも考える。
そこまで考える自分の浅ましさ、器の小ささにもううんざりする。

 というわけで、ここに一文したためてすっきりしてしまおうという魂胆なのでした。

 ああ、どうせ、おいらは小さい人間ですよ!

 そんなこと百も承知の皆様には、不必要な文章でしたね。

教訓
坊様がなかなか帰らないときは、お布施をお渡ししたかどうか確かめましょう。
お渡しすれば、すぐ帰ります。
posted by CKP at 18:59| Comment(1) | 雑想・戯言 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年11月14日

風が吹けば桶屋がノーベル賞――ボブ・ディランと大谷大学、ついでにジョン・ケージも

「風が吹く」と「桶屋が儲かる」が関係あるように、ボブ・ディランのノーベル文学賞受賞と大谷大学が「関係がある」と言えないことも無い(ちょっと無理があるけれども)。

 ボブ・ディランに音楽と詩の両面で強い影響を与えたのはウディ・ガスリーである。
が、詩作においての影響では、ディラン・トマスはもちろんのこと、ジャック・ケルアックやアラン・ギンズバークの名も挙げられる。
じっさい、『NO DIRECTION HOME』というドキュメンタリー映画でディラン自身がそう発言している。

 このケルアックやギンズバークが、実は鈴木大拙に相当影響を受けているのである。
ケルアックとギンズバークは、1958年のある夜、そのころブロウドウェイにあった大拙の家を訪ねている。
ケルアックもギンズバークもこの夜のことを回想していて、ケルアックが大拙に金剛経や禅の問答について問うたこと、大拙から抹茶をふるまわれたこと、帰り際に大拙から「お茶のことを忘れないように」と言われたことを記している。
大拙が次のように書いているは、おそらくこの来訪のことであろう。。

「近ごろアメリカに、ビートニックの一人として、統領株のものに、四十ばかりの男が出た。その名をギンズベルグという詩人である。自分も一遍会ったことがある。日本的に俳句式の英詩も作る。先月、かの『ライフ』誌国際版を見ると、髯も髪も生え次第にして、無茶苦茶風采で、米国中を漂浪してあるく。カンサス州では大もてにせられておるとのこと。この人の理想はシナ唐代の詩人、寒山・拾得の風を慕い傚うことである。これら千年前の詩人生活を米国で近代化したものといってよい。破れ袈裟を風の吹くままにして、山奥に住んだという自由人の寒山・拾得を、今に写したギンズベルグ氏は誠に近来の破天荒漢である。孔子はこのような人を、「個々の欲するところに従う」とはいわぬと信ずる。」
(鈴木大拙『東洋的な見方』岩波文庫版(上田閑照編集)所収「老人と小児性」266頁)

 ケルアックもギンズバークも大切に会ったことを大切な思い出として書いているのだが、大拙の方は、少々、批判的で困り気味である。
別のところでは、禅の自由の境地が彼らにおいては「放埓」となってしまっていることに注意をしている。
いささかこのアメリカのカウンター・カルチャーの展開に大拙は責任を感じていたらしく、どこかで「LSDでは悟りの境地は得られない」とわざわざ書いている。
大拙チルドレンを叱っていたんですね。
彼らビートニクは、仏教に興味を持ち、そこから新たなカウンター・カルチャーを形成したのであるが、その一方でドラッグにのめり込んでいたのである。

 ボブ・ディランはそのビートニクの詩人たちから大きな影響を受けている。
おそらくドラッグの経験もあるだろうが、それほどのめり込むことはなかったようだ(あまりその話題を聞いたことがない。)
つまり、ディランは大拙の孫弟子と言えないこともないのである。
もちろん、大拙はディランをほとんど知らないだろうし、ディランもそんなことは自覚していないだろう。
いや、「ラヴ・マイナス・ゼロ」なんて曲名には禅的な「無」が直接意識されているようには思う。
しかし、宗教的には、ディランは仏教というよりユダヤ教とキリスト教のあいだを揺れ動いている人である(現在形?)。
仏教の思想的影響を直接論ずるのは難しいだろう。

 しかし、「LIKE A ROLLING STONE」などを聞くと、そこには仏教的な世界観がそこはかとなく感じられる、ように思う。
どのような世界観?
それはどうぞご自分で確かめてくだされ・・・

 が、とにかく、鈴木大拙は大谷大学で長らく教鞭をとっていた人だから、「ディランのノーベル賞」と大谷大学は関係があると言えないことも無いのでありました。

 ついでに、この間、わっしぃの『折々のことば』に登場したジョン・ケージも大拙に多大な影響を受けた人で、例の「4分33秒」なども、それがなかったら登場しなかった「作品」でしょう。
というわけで、ケージも大谷大学と関係がないこともない(く、く、苦しい〜)。
posted by CKP at 10:56| Comment(0) | 雑想・戯言 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年11月10日

ウエストコースト合衆国独立!――サンダースを大統領に

 というわけで、早出しジャンケンをしたら的中してしまいました。
よほど、クリントンが嫌われていたということでしょう。
なのに、サンダースではなくクリントンを担いだ民主党の敗北ということでしょう。

 こうなったら、もう、トランプが選挙戦とはうって変わって、案外まともな政治感覚を持っていた、となることを期待するしかありません。

 が、もう一つの策としては、ウエストコースト、イーストコーストのいくつかのステイトが合衆国として独立するという手もある。
南北戦争ではなく、東西戦争。
いや、東・真ん中・西戦争。
もちろん、「戦争」とは選挙戦・・・というのはあり得ないでしょうか?

 しかし、アメリカの新聞がこの結果に慌てているのには、びっくりしました。
やはり、新聞はエスタブリッシュメントの味方ということでしょうか?
トランプ対米国富裕層の対立、これはこれでおもしろそうですけどね。
posted by CKP at 09:59| Comment(0) | 雑想・戯言 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年11月08日

〇〇はどっち?――後出しジャンキー、早出しす

 いよいよアメリカ大統領選挙です。
メディアはクリントンかトランプかで賑やかなことです。
どっちにしても、あまりぱっとしない、というか相当ぱっとしない大統領候補です。
どちらが相手より余計に嫌われているかで勝敗が決まるようなトホホな選挙です。
クリントンだけにはやらせたくない。
トランプだけにはやらせたくない。
となるとどのような結果になるのか?

「FBI訴追なし」のクリントンの支持者の油断(トランプの線は遠のいた)が微妙に影響を与えてトランプの勝ち。
いつも「後出しジャンケン」をしているので、今回は早出しして見ました。

 しかし、こんなことにアタマ使うよりも、今場所、豪栄道か白鵬かにアタマを使った方がよいように思う。
豪栄道は、他の大関が優勝のあとにはしゃいで次の場所を棒に振ってきたのを見てきている。
そこから学習して今場所、万全の体制で臨んでいるような気がする。
よって、豪栄道が一気に優勝、横綱!
実はわたし、けっこう相撲好き!
 
posted by CKP at 13:42| Comment(0) | 雑想・戯言 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年11月06日

ギターのちから――哲学のギター?

 犬小屋の間借り人から、ジェフ・ベックの『ロックン・ロール・パーティ』というDVDを貸していただく。
ジェフ・ベックが、主に50年代のロックン・ロールを弾きまくるというヴィデオ。
なかでもレス・ポールの楽曲を中心に弾いている。
この場合、レス・ポールとはギター名ではなく、そのギターを開発したおじさんの名前。
この人は、エレキギターを開発し、多重録音を思い付き、そして「ハウ・ハイ・ザムーン」や「モッキンバード・ヒル」を作って唄ったアメリカのエレキ・ギター音楽の父のような人。
そして、そのエレキ・ギターの求道者ジェフ・ベックが、ホントに楽しそうに古い曲を弾きまくる楽しいヴィデオです。
なんと、シャドウズの「アパッチ」も弾いています。
ジェフ・ベックってイギリスの人だったんですよね。

 しかし、このレス・ポールが開発したエレキギターによって、20世紀という世紀は、どこでも誰でも音楽表現ができる時代になりました(もちろん電気が必要ですが)。
そして、レコードの発明で、どこでもだれでも、いろんな音楽表現に接することが可能になりました。
エレキ・ギターとレコードというのはすごい発明だったのだと、このヴィデオを観ながら、改めて思いました。
レス・ポール偉い!
ジェフ・ベック、いい奴!

 となると、哲学にギターの役割をするメディアはあっただろうか・・・などと考えてしまいます。
ブログとかツイッターとかはそんな役割を担えるのでしょうか?

 もちろん、メディアがか変化すれば、そのコンテンツも変わる。
エレキバンドでブルックナーはあり得ない。
チェンバロでラフマニノフは迫力不足。
オーケストラあってのブルックナー。
ピアノあってのラフマニノフ。

 もちろんギターあってのボブ・ディラン・・・

 哲学は活字であれば、デジタルでもアナログでもよろしい、ということでよろしいのでしょうか?
posted by CKP at 20:42| Comment(0) | 雑想・戯言 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年11月03日

ホスピタリティにもほどがある!――わっしぃの十字路

 GPでサンマの塩焼き(大根おろし付き)、とろろ、納豆など、タヌキもよだれをたらす孤独のグルメをいただくとき、今週の週刊現代を手に取りました。
巻末の日活ロマンポルノのグラビアをじっくり堪能した後、パラパラとめくっていると、鷲田清一「生きものたちの十字路」という記事が目に止まりました。

 まず、柴犬の姉妹に居間や離れを犬小屋として明け渡すうちに、結局は家全体が犬小屋となり、わっしぃご夫妻は犬小屋に住まわせていただく身となったことが述べられている。
そうか、あの家は犬小屋だったのか(それにしてはウーちゃんサーちゃんの表札がありませんよ)。

 次いで、京都芸大の学長「執務室」の改造のはなし。
机とかロッカーを取っ払い、壁に卒業生がフレスコ画を描き、教室の机に天板を置いた机を学生だったか教員だったかが塗装し、鉄のドアを教員がガラス戸に変えてくれて、今は、学生や職員が自由に出入りし、そこでの音楽科の学生の演奏に牛蛙が呼応する状況が形成されいるという。
会議(?)なども、その空間で椅子を車座に並べて行われるという。

 ホント、わっしぃの歓待性にはあきれるばかりであります。

 しかし、あきれているばかりでは、わたしの研究室で卒論試問もできない状態だから、一月の口頭試問に向けて、せめて人三人が机を挟んで座れるスペースを構築せねばなるまいて。
posted by CKP at 13:20| Comment(0) | 雑想・戯言 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年11月02日

キースやチャーリーとおんなじ!――ローリング・ストーンズ『ハバナ・ムーン』視聴記

 ローリング・ストーンズが今年、2016年3月25日にキューバのハバナで開催したフリー・コンサートのDVDを見ました。
もう50年以上もロックのコンサートの接していなかったキューバの人々の興奮が、そしてその人々を前にしたスト−ンズの興奮がストレートに伝わってくる気持ちの良いステージでしたよ。

 それにしても70歳を過ぎたストーンズの皆様、ホントに元気です。
みな鶴のように痩せて皺くちゃなのですが、ミック・ジャガーなどはステージせましと、いつもの妙なステップを踏み続けています。
みんなどんな健康管理をしているんだろう?
キースもロニーもタバコは演奏中でもぷかぷかやってるのに!
もともと音数が多いバンドではないのですが、さすがに今までよりさらにシンプルな演奏になって、それだけにそれそれの曲の味わいがグッとくるプレイでした。

 で、気が付いたのですが、キース・リチャーズとチャーリー・ワッツの禿げ方が、アタマのテッペンから禿げてくるカッパ禿げ。
カメラは執拗に哀愁ただよう後頭部を追っていました。

 わたくしも床屋に行くと「テッペンから来てますねぇ」と言われるカッパ禿げ過程を歩み出したので、キースとチャーリーのカッパ禿げは「おお同志よ」とうれしくなりました。
ちなみに、ニール・ヤングもカッパ禿げですね。
posted by CKP at 17:09| Comment(0) | 雑想・戯言 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年10月31日

butの法則ふたたび――後出しジャンキーより

 え〜、今年も自暴の――じゃなかった自坊の報恩講が無事終わりました。
年々、寺中を掃除して荘厳(しょうごん)を整えるのがつらくなります。
もうへとへとですぅ〜。
で、この報恩講が終ったら、わたくしは、「ボブ・ディランは、すくなくとも
ノーベル文学賞は拒否しない」に一票・・・と書こうと思っておったのよ、ほんとに。
したら、日本シリーズとうちの報恩講という忙しいときに「言葉を失っていた。ノーベル文学賞は光栄だ。授賞式にも行けたら行く」とディランは述べたそうな。
もう少し持ってくれたら、「後出しジャンケン」にならずに済んだのに・・・

 で、この受諾声明にあのノーベル賞選考委員の「無礼で傲慢」発言がどう関係したか?

 あの発言はスウェーデン語で英語に訳されるときゴチャゴチャしたようですが、問題は「but」。
どうも、あの発言はディランの無視について聞かれた委員が
「そりゃ、無視するってのは無礼で傲慢だってことになるよね。でも、それがディランじゃないか」というニュアンスで答えた、というのが真相らしい。
次のような英語訳をみつけました。

One can say that it is impolite and arrogant, but he is who he is.

この「but」を見落とすと、妙に「無礼で傲慢」が強調されて、ノーベル賞委員会こそ無礼で傲慢ということになる。
「あなたはとってもいい人です。でも、お友達でいたほうがいいと思います」というラヴ・レターの返事を「いい人って書いてあるからまだ希望はあるよな」としか読めない頭の悪い青年と同じになってしまいますね。

わたしも、最初、この報道に接したとき、そう思いました。
しかし、真相は違ったようで、それで、ディランも、ちょっと安心して受賞オッケーということになったのではあるまいか。
また、賞を拒否するのがディランらしい、という声にウンザリしていたのもあるかもね。
posted by CKP at 19:55| Comment(0) | 雑想・戯言 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年10月18日

読むとためにならんぞ!――カドワキ、ワキコシ痛し!

 10月のはじめ2週間ほどブログをさぼりました。
そのころ世間で「役に立つ」という言葉が取りざたされていたので、柄にもなく、「役に立つ」ということについて「役に立つ」文章を書かねばと思ってしまったのでした。
毎朝わっしぃの『折々のことば』を拝読していると、自分もひと様の生活に役立つような文章をしたためねばと思ってしまうのでした。
身の程知らずのことを考えてしまいすみませんでした。

 そんなわたしが、いま書きたいことと言えば、タヌキから教わった吉行淳之介のくだらないエッセーの話。
ホント、くだらなくてためにならない、間抜けな話。
これを書こうかなと思っていたら、腰の右わきがぎっくり腰みたいに痛くなってきた。
タヌキがわが腰を呪っているのではないか・・・ということで、その話は書くのを止めます。

 で、ど、どんな話?
と興味のある方は直接ワキバラいたいカドワキにお尋ねください。

ね、ためにならんブログだったでしょ!
posted by CKP at 14:00| Comment(0) | 雑想・戯言 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年10月15日

『栄光のランナー 1936ベルリン』――いよいよ京都みなみ会館で公開

 1936年のベルリン・オリンピックに出場したアメリカの黒人陸上選手ジェシー・オーエンスを主人公にした映画『栄光のランナー 1963ベルリン』がいよいよ京都のみなみ会館で公開となりました。
http://kyoto-minamikaikan.jp/

 なぜ、「いよいよ」なのかというと、その映画のパンフレットに「人生こそ本当のオリンピック」という文章を寄せておられる古川哲史先生からそのパンフレットをいただいていたからなのでした。
そのパンフレットを読むと、この映画は貧しい家庭に生まれたオーエンスが人種差別を乗り越えてオリンピックに出場した――という単純なお話ではなく、ナチスのユダヤ人排斥のオリンピックにどう対応するかというところで若き日のブランデージとゲッペルスが裏取引をしたり、差別オリンピックをオーエンスが拒否したり迷ったりとドラマとして面白そうなお話になっているようです。
「お話」といっても基本線は史実に忠実に作られているようです。

 また、オーエンスに関しては『走ることは、生きること』という本が古川先生そして三浦誉史加先生、井上摩紀先生の大谷大学の先生方によって翻訳されて、昇洋書房から刊行されています。
たいへん美しい本ですよ。
posted by CKP at 13:37| Comment(0) | 雑想・戯言 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年10月13日

ね、やっぱり、ボブ・ディランでしょ!――今年は来ると思ってたんだ

 ボブ・ディランに今年のノーベル文学賞が決まりました。
今年は、きっと、ボブ・ディランと思っていたのでした。
ホント、そうおもっていたのですよ、後出しジャンケンみたいですけど。
というのは、イギリスの予想屋のオッズで村上春樹が強く、ボブ・ディランは全然注目されていなかったから。
うん、これは今年はディランに来る、と思ったのです。
と、いまさら言っても遅いけど。

 で、ディランについては、わたくしの『死ぬのは僕らだ!』(角川SSC新書)のカミュを扱った章に引用しているから、お持ちの方は見直してくださいね。
そんな本知らんぞ!という人はぜひお求めになってください。

 カミュの「自殺は認識の不足である」という言葉を、ディランの「Like a rolling Stone」を使って説明しています。
ディランの最高傑作、いやロック史上の最高の名曲です。

 と、何とかディランにあやかってわが本を売ろうとするセコイ門脇でした。
posted by CKP at 22:35| Comment(1) | 雑想・戯言 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年09月28日

自分自身で考え、理解し、全て言葉にできるぐらいの能力――井上康生

昨日に引き続き、昨日の毎日新聞のインタビューから、柔道の井上康生監督の言葉があまりにかっこいいのでご紹介します。
リオ・オリンピックへ向けて今までの稽古とは違う合理的なトレイニングを取り入れて、日本柔道を復活させたことを述べた後、金メダルの二人に共通することは?という問いに対する答え。

「一言で言えば、自立心だと思う。
スタイルはまったく違う2人だが、何をやるべきか、自らの戦いに何が必要か、考えがよくまとまっていたような気がする。
外発的に詰め込まれるのではなく、自分自身で考え、理解し、全て言葉にできるぐらいの能力がないと五輪では勝てない。
そうした能力の根源にあるのは知識だと思う。
読書し、人の話に耳を傾け、自ら経験を積む。
知識が豊富であればあるほど、いろいろな考え方を持てる。
自らをコントロールし、マネジメントする能力がある選手だけが、数々のドラマが起きうる4年に1度のその日を勝ち抜いていける。」

「考えがよくまとまっている」とか「全て言葉にできる能力」が、具体的にどのようなことなのかはわからないけれど、とにかく柔道という格闘技においても考える力、言葉にする力が大切なのだろう。
いや、おそらく命をやり取りしかねない格闘技だからこそ、「考える」が大切なのだろう。
そしてそれを「自立心」と言ってのけるカッコよさ。

 オリンピックの金メダルとは縁のない世界に生息するわたくしではありますが、このことは「よりよく生きる」ために基本的なことではなかろうかと強く思った次第であります。
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2016年09月27日

愛のことはもう仕方がない――オイオイの言葉を枡野浩一の書名からとった

 今朝の毎日新聞の「読書日記」で松尾スズキが枡野浩一という歌人にして芸人の『愛のことはもう仕方がない』という本を紹介していた。
わたしは、その読書日記の本文を読む前に、「愛のことはもう仕方がない」という書名にもうやられていました。
そ、そうなんだ、愛のことは、もう仕方ないんだ!

 読んでみると、松尾氏は
「枡野さんという人の場合、やはり、この本を読んでも、どの本を読んでも、愛がこんがらがってやっかいになっているとしか思えない」
と愛のやっかいさ、仕方なさに共感を示している。

 しかし、私の場合は、それもそうなのだろうけど、それに加えられた、「もう」というなんだか吐き捨てるような、怒りのような、はたまた諦めのような言葉に惹かれる。
「愛のことは仕方がない」
と「愛のことはもう仕方がない」
ではだいぶ違う。
いや、もう全然違う。
ひょっとしたら私のアタマのどこかで、にしきのあきらの「もう恋なのか」(浜口庫之助作)のメロディが共鳴しているのかもしれない。

 とにかく「愛のことはもう仕方がない」という言葉の感覚にグッときましたよ。
きっと購入すると思います。

松尾氏は
「この本には同じぼやきを続けることで「仕方ない」という逆説的な愛のロマンがある意味溢れかえっているのである」
と結んでいます。

 んとに、もう仕方ないですね。
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2016年09月21日

それは言わない約束でしょ?――オイオイの言葉(というより『昭和語広辞苑』かな?)

 世の中には「それは言わない約束」がいっぱいあるようで・・・

 この前の前の記事に書いたボケモンg〇の契約事項「某政府機関が閲覧・・・」について、それから気を付けてさがしてみるが、そんなことを問題視するマスコミはいない。
かろうじて朝日が、オリバー・ストーン監督が「これは監視資本主義の新たな段階」と発言したことを述べているぐらい(ほかにもあるかもしれませんが、私が見つけたのはこれくらい)
https://dot.asahi.com/afp/2016072200158.html
どうもこの問題に関しては「それは言わない約束」が成立しているように見える。
そういう目で見ると、あのボケモンg〇の配信の官民あげてのキャンペーンって、なんだか不気味でした。
ホント、いいのかね。

 あるいは富山市議会の政治資金不正についてはマスコミの皆さんは思いっきりたたいておられます。
が、某大臣稲◎朋見氏の白紙領収証問題はまったく話題にならない。
あれ、問題ないのかねぇ?
ひと昔まえだったら、大騒ぎしたと思うのですが。
うちの県から選出された議員ですけど、ホント、すみません。
でもね、言っとくけど、選挙区は違います!
うちの選挙区はパンツ大臣として有名な高木某氏。
いずれにせよ、トホホな県ですみません。

 しかし、
「おとっつぁん、おかゆができたわよ」
「いつももすまないねぇ。こんなとき、おっかさんが生きていてくれたらなぁ」
「おとっつぁん、それは言わない約束でしょ」
というシャボン玉ホリデーの定番ギャク、いろんな意味で現在ではむずかしくなりましたね。
まずは、おそらく、半身不随で寝たきりの老人をバカにしているという問題が指摘されるだろうということ。
しかし、当時はそのような老人が身近にいたので、それほど「バカにしている」という感じはなかったのではないか?
もちろん、闘病している人の中には、不快に思っていた人はいただろうが、そのころは半身不随で寝たきりというのは普通の老人の「一形態」とみなされていたような気がする。
あの貧乏の描き方も、ついこのあいだまではみんなこうだったよなぁ、という合意があった。
だがら、、そのような家庭での「介護」が一般的でなくなっている現在、あのようなギャグを展開されても親近感がなくなっているだろうということ。
今の子どもにはきっと何のことかわかりません。

 というわけで、ギャグ自体が「お呼びでない」という21世紀の日本なのでした。

【とここに「お呼びでない」が出てきても、これ自体がギャグになっているのが分かりにくいのではというご心配もあるようなので、このギャグコントの一般的なパターンを示しておきます・・・

まず、ザ・ピーナッツが、寝たきりのハナ肇演ずる爺さんに、
「おとっつぁん、おかゆができたわよ」
「いつもすまないねぇ。おめぇたちには苦労ばかりかけて・・・。こんな時、ヒロシがいてくれたらなぁ・・・」
「おとっつぁん、それは言わない約束でしょ」
すると、そこにおどおどキョロキョロした犬塚弘演ずる「ヒロシ」が返ってくる。
「お兄ちゃん!」
「ちょっと、かくまってくれ」
と久しぶり帰ってきたヒロシは警察か何かに追われている様子。
そこへ、植木等が話の筋とは全く関係なく登場。
ボルガの舟歌なんかを唄う。
皆も一緒に歌うが、そのうち植木を睨みつけ、咳ばらいをする。
気持ちよく歌っていた植木もそれに気が付き
「お呼びでない。お呼びじゃないね。こりゃまた失礼いたしました!」
で、みんなズッコケル。

上の文の「お呼びでない」を理解するには以上のようなコントの流れを理解せねばならない。
よろしいでしょうか。】

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2016年09月20日

本日9月20日台風のため休講――新校舎での講義はおあずけ

 本日2016年9月20日は台風接近のため、2限目から休講となりました。

 サンダーバードが運休になるかも知れん、と前日から京都に移動して後期の最初の講義に備えておったのである。
が、ひそかに台風休講を願ってもいたのであろう、京都に「暴風雨警報」が発令される夢を見た。
なんであれ、「休講」はうれしい。
受講する方はもっとうれしいであろうね。
が、目覚めてみれば、京都はまだ穏やか。
で、しょうがないなぁ、と大学に来たら、台風接近のため休講。
ちょっとうれしいが、ちょっと残念。
というのは、このほど完成した新校舎で講義する予定だったのである。

 別に旧校舎でもよかったのであるが、こやつに新校舎での授業をあてがっておかないとブーブー文句垂れるのではないか、という教務の的確なご配慮により新校舎での講義が今日から始まる予定だったのである。
明るい開放的な校舎で講義すれば、あたしの陰気な講義も少しはそれなりに明るいものになりましょう。
が、台風休講ということで来週にお預けとなりました。

 てなことを書いているうちに、外はひどいことになってきております。
posted by CKP at 15:43| Comment(0) | 雑想・戯言 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする