2019年07月22日

「そう。いやなことばっかり・・・」(『東京物語』より)――オイオイの言葉

 小津安二郎監督の『東京物語』の終わり近く。

 急死した母の葬式のあと、形見分けの話だけしてさっさと東京へ帰っていった姉(杉村春子)や兄(山村聡)を「自分勝手」となじる末娘・京子(香川京子)に、そのあとも残っいた、戦死した兄の嫁の紀子(原節子)は、「誰だってみんな自分の生活がいちばん大事になってくるのよ」となだめる。
それに対して京子は、
「いやァねえ、世の中って……。」
と、真面目な顔で応ずる。
それに対し紀子は、
「そう。いやなことばっかり……」
と微笑み返すのでした。

 親子の関係から「世の中」の話に広がってしまっているのに、ちょっと違和感があります(こうやって文字化すると違和感があるのですが、画面ではそんなことは思わない。若き日の香川京子と原節子の会話ですから、それを見ているわたくしはガッテンガッテンガッテンのガッテンかどわきです)。

 いやなことばっかりの今日この頃、「そう。いやなことばっかり……」と微笑む原節子の表情と声が、しきりに思い出されるのでした。

 「いやなこと」は、「自分の生活がいちばん大事」という自己保身から来るということが、改めて確認される昨今の出来事です。

 逆に、「自己保身」よりも事柄そのものにわが身を棄てて向き合う姿が爽快さをもたらすということも確認されます。

 もちろん、「自分の生活がいちばん大事」ということは非難されることではありませんが、その生活が他人を犠牲にして成り立ち、そのことに無自覚になって「自分さえよければいい」となると、それはやはりまずいです。

 なんかまずいことばかりが目につきます。
でもって、「いやなことばっかり」という原節子のせりふがおもいだされるのだなぁ…ということに思い至ったのでした。
posted by CKP at 19:41| Comment(0) | 雑想・戯言 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2019年07月16日

「死者は今や、生きていたときよりも強くなったのである。」――フロイト『トーテムとタブー』より

 7月14日の釈徹宗先生との講演会、無事終了いたしました。
釈先生のご講演を、わたくしカドワキが引き取る形が偶然にも成立し、カドワキとしては機嫌よくお話することができました。
聴いてくださった方々も、釈先生も、そのあとの懇親会でゴキゲンだったので、カドワキの話もそれなりに聴いていただけたのではないかとちょっと安心いたしました。

 「安心した」というのは、話す前に、心のどこかで「上田先生に叱られないようにちゃんとした話をしよう」と思っていたからです。

 わが師である上田閑照先生はこの6月の末に亡くなられました。
なくなる前の2,3年は、研究成果をご報告しても反応がなくなりなんとなく張り合いがなくなっておりました。
しかし、亡くなられた途端、先生の厳しい目に常にさらされているような気がしてきたのです。
「それを言うためには、そのような手続きで十分ですか」
先生はいつも「手続き」ということをおっしゃいました。
わたくしカドワキが大学院のころ、徹夜明けの夜明けに思いついたことをゼミで発表したら「それはヘーゲルがどこで言っていることですか」と質されました。
カドワキは半泣きでした。

「死者は今や、生きていたときよりも強くなったのである。これらすべては、今日でもなお人間の運命に見られることである。以前は父がその現実の存在で妨げていたことを、今や息子たちは「事後的服従」という精神分析では周知の心的情況においてみずから禁止したのである。」(岩波版『フロイト全集』第12巻、184頁)

 そういえば、この翻訳を先生にお届けしたとき「君がフロイトを訳すとはおもいがけないことでした」とビックリされておられました。

 ところで、釈先生のご講演の後、どーっと聴衆がいなくなるということはなかったのですが、でも、やっぱりかなりの人が帰ってしまわれました。
ちょっとしょげますね、やっぱり。
posted by CKP at 13:29| Comment(0) | 雑想・戯言 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2019年07月12日

釈徹宗先生ご講演「現代における老いと真宗」――ガッテン門脇もそのあと話します

 来る巴里祭の7月14日、京都は洛北北大路の大谷大学で釈徹宗先生のご講演があります。
講演タイトルは「現代における老いと真宗――宗教の救いについて考える」

 これは、第26回真宗大谷派教学学会の記念講演としてお話しいただく企画です。
 一般の方々にも無料公開されていますので、どうぞおいでくださいませませ。

 時間は、午後1時15分より2時15分。
 場所は大谷大学の教室棟の大教室(図書館の向いあたり)。

 なお、そのお話のあとにワタクシ門脇も一時間ほど「物語の功徳」というタイトルで一席うかがう予定です。
なんでゲストが先に話し、ホスト側があとなのでしょう?
釈先生のお話が終ったら、聴衆がまるで潮が引くようにサーっといなくなるという光景が浮かんできます。
釈先生を聴きに来られた皆様も、お時間のゆるす限り、わたくしめの話を聴いてやってくださいませ。
posted by CKP at 15:37| Comment(0) | 雑想・戯言 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2019年07月10日

今ごろ告知しても遅いけど――池上哲司先生講演会

 去る6月9日日曜日、京都は東本願寺横のしんらん交流館で池上タヌキ之介哲司先生の講演会がありました。
今ごろお知らせしても遅いのですが、その講演タイトルが興味深いので、遅かりし由良之助カドワキがお知らせします。

 その講演タイトルとはこれ!
「倫理が歩みを止めるところ」

 倫理がその歩みを止めるとはいったいどうゆうことなのでしょう?
良いとか悪いとかもうどうでもいいんだ、バーローっと、池上タヌキ之介はやけを起こしたのでしょうか?
「おうおうおう、ガタガタ言ってんじゃねぇ」とかもろ肌抜いて、タヌキ之介が啖呵をきる!
イヨッ、池上屋!

 しかし、それだったら「倫理が歩みを止めるとき」となりそうなものです。
「歩みを止めるところ」・・・この「ところ」というのは何なのでしょう?
倫理がその意味を消失する特定の場所があるのでしょうか?
あるんでしょうね。
だから、このようなタイトルになっている。
さあ、それはどこでしょう。

 どなたか、その講演を拝聴した方、教えてください。
タヌキ之介本人はきっと教えてくれないでしょうから・・・
posted by CKP at 14:24| Comment(0) | 雑想・戯言 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2019年07月03日

『原爆の子』――最近のいちばんの衝撃


 最近いちばんじぇじぇじぇとびっくりしたは、片山杜秀氏の『線量計と機関銃』(アルテスパブリッシング)の「緊急地震速報と『原爆の子』」というエッセイ(とは言いながら実はラジオ番組を活字化したもの。ちなみにこれは2011年4月29日収録、5月7日放送)。

 まず、緊急地震速報の作曲者が伊福部達(いふくべとおる)、福祉工学という分野の東大の先生だった人物でした、という話から始まります。
で、その伊福部達氏は実は伊福部昭、あの「ゴジラ」の作曲者の伊福部昭の甥御さんであることが述べられて、ここで軽くじぇじぇと驚きます。

 この「ゴジラ音楽」で著名な伊福部昭は、戦時中、作曲家でありつつ、一方で総木製飛行機の研究に従事し多量の放射線を浴び、一年間栄養をとって寝るだけの生活をして奇跡的に回復し、しかし技術者に意欲をなくし、作曲に専念するようになったのでした。
そして、そのような被爆体験が原水爆怪獣ゴジラの音楽を作曲するときに原動力になったというのは、私でも知っていた話ですが、当時、伊福部昭は反原爆三部作とも言うべき映画の音楽を作曲していたのには、じぇじぇじぇとかなり驚きましたよ。

次の三作品。
『原爆の子』1952年、監督:新藤兼人
『ひろしま』1953年、日教組制作、監督:関川秀雄
そして『ゴジラ』1954年、監督:本多猪四郎

このうち前の2作品は、1951年に岩波書店が被ばくした児童・生徒たちの作文を編集して出版した「原爆許すまじ」的な本『原爆の子』を原作としているのだそうです。
そこには、こんな作文が収録されています(小学5年生の若狭育子さんの作文より)。

「半年前(昭和26年1月)に、十になる女の子が急に原子病にかかって、頭のかみの毛がすっかりぬけて、ぼうずあたまになってしまい、日赤の先生がひっ死になって手当てをしましたが、血をはいて二十日ほどでとうとう死んでしまいました。戦争がすんでからもう六年目だというのに、まだこうして、あの日のことを思わせるような死にかたをするのかと思うと、私はぞっとします。」(41〜42)

 原爆投下から5年以上もたっての出来事です。
内部被ばくの恐ろしさ!

 しかし、じぇじぇじぇじぇじぇと驚き衝撃を受けたのはこの事実ではありません。
この『原爆の子』の序文の次の文章です。

「原子力の平和産業への応用は、平和的な意味における、所謂、「原子力時代」を実現して、人類文化の一段と飛躍的な発展をもたらすことは疑う余地がない」(42)

 ホントにぎょっとしました。
ぎょっとして、なんともつらくなりました。

 これは何も、この序文を書いた人が原子力に対して甘い認識をしていたということではないようです。

 原爆で兄と弟を亡くした高校生二年生、原爆が落ちた当時は小学5年生だった伊藤久人さんの作文の結論部分。灯台守の一家の次男。

「私は終りに結論と致しまして、二度と原子爆弾を戦争というものに使わないで、早く朝鮮の戦争を止めていただいて、世界の各国の人々が、平和な笑いに満ち溢れるようにして下さい。そうして原子爆弾を作らず、それを作る元となるものを産業に使ったら、どれだけ産業が進むかということも聞いて知っています。だから、それを産業の方面に使っていただいて、産業を進めていただきたいのです。
 最後に申し遅れましたが、あの元気だった兄さんは、8月6日宿で別れたまま今だに帰ってきません。そして、灯台の若い人は、今までやったすべての病気が出てきて、9月の始めに奇妙なしにかたをされました。」(45~46)

 なんだかとってもつらい気持ちになりました。
が、少し冷静になってみれば、1950年代初頭というのはこのような時代だったのでしょう。
鉄腕アトムが生まれたころです。

 ホントに、なんとも言えない気持ちです。
 私にしても、アトム、ウラン、コバルトという三兄弟の名前になんとなく胸をときめかせた「ららら科学の子」だったのですから。
posted by CKP at 17:16| Comment(0) | 雑想・戯言 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2019年06月26日

ガッテンかどわきと呼んどくれ――ご無沙汰でした

 ブログを長いこと休んでいると、深い感慨とか鋭い洞察を披歴せねば、と思ってしまう。
そう思うってしまうと、そんなものはないから、ますます書きにくくなる。
というわけで、だいぶお休みしてしまいました。
が、誰も深い感慨だの鋭い洞察などをわたくしに期待していないということに気づきましたので、つまんないことですが、書きます。

 あれは2か月前の4月のことじゃった。
新三回生を迎えたゼミの2回目か3回目。
あるワードについて縷々るんるんるん説明して、4回生のアツシ君に
「ガッテンしていただけましたでしょうか?」
と尋ねたのであります。
するとアツシ君は、
「ガッテンは押せません」
と答えたのです。
カドワキのゼミに一年まじめに出席していると、
「ガッテンしていただけたでしょうか?」
に対して
「ガッテンは押せません」
と答えられるようになるのです。

なんという教育効果でありましょうか。

 したがって、新三回生が手を上げて質問するのでした。
「『ガッテンを押せない』とはどういう意味でしょうか?」

 そうか、先生が悪かった。君ら若者はテレビみないもんね。
NHKの「ためしてガッテン」という番組ではね、・・・・

 というわけで、小生のことを「ガッテンかどわき」と呼んでおくれ。
posted by CKP at 16:58| Comment(0) | 雑想・戯言 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2019年04月10日

ボチボチ頑張ります――最後の一年

 わたくしカドワキの大谷大学教員生活の最後の一年が始まりました。

 もはやレームダックではありますが、そこを「死んだ気で頑張る」と、我ながらうまいこと言うなぁ、死んだつもりで最後の一年の授業に臨まねばとは思っておったのです。

 しかし、60も半ばとなると、寒くなると血液の循環が悪くなるのか、「救心」を手放すことができず、四月に入ってからの寒暖の差の激しい気候では、耳がぼーっとして、ついでにアタマもぼーっとして、ここで無理をするとホントに死んでしまいそう。
なので、あんまり頑張らずテキトーに頑張って、ボチボチと最後の一年を過ごそうと思います。

 ブログもボチボチです、たぶん。
posted by CKP at 17:06| Comment(0) | 雑想・戯言 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2019年03月15日

愛をなくし何かを求めるときに――千賀かほる「真夜中のギター」

 本日は、スーツにネクタイというカドワキが登場する大谷大学の卒業式です。
見事に晴れました。
これからの人生もずーっと晴ればっかりだといいですね。

 しかし、雨も降れば嵐も吹く。
にっちもサッチモいかないときもある。
そんな時に、こんな曲をどうぞ。

「そっとしときよ
みんな孤独でつらい
黙って夜明けまで
ギターを奏こうよ」
(吉岡治作詞河村・利夫作曲)




おそらく卒業生諸君は絶対に知らないと思いますが、心のはじっこにちょっとピン止めしておいてください。
じゃ、お元気で。
posted by CKP at 13:26| Comment(2) | 雑想・戯言 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2019年03月12日

折々の新著――鷲田清一『濃霧の中の方向感覚』

 大学に徒歩で向かう道すがら、古紙回収の赤い軽トラックを見かける。
運転席の後ろの窓には「儲けるは欲、儲かるは道」のステッカーが貼ってある。
以前、わっしーの「折々のことば」に紹介されていたことばであり、軽トラックだ。

 わっしーは、この言葉の由来と意味合いを紹介するとともに、これは「道の仕事」ということに「掛けていることば」という洞察を披露されておられた。
慧眼というのでしょうか?
いつも詰まんないダジャレばかりを考えておられるから、こういうことに気が回る、と言うべきか?

 てなことを考えていた日に、この『濃霧の中の方向感覚』が届いた。

 古紙回収の仕事を、淡々とこなしながら軽トラックを運転していたのは、おそらく70過ぎのおじさん。
この人なりの方向感覚が「儲けるは欲、儲かるは道」に表現されている、そんな気がして、なんだかすごく納得しているのは私です。
posted by CKP at 11:15| Comment(0) | 雑想・戯言 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2019年03月06日

いきなり哲学――朴一功『?!哲学の話』

 それはまだ寒かった2月のある日、哲学科教員の会議が終わるとき、朴先生が「帰りにわたしの研究室の寄ってください。お渡ししたいものがあります」と発言されました。
それで哲学科教員一同、ぞろぞろとガン首をそろえて朴研究室の前に列を作るように並ぶと、朴先生からそれぞれに一冊の本が手渡されたのでした。
一同「ははぁー」と押し頂いたご本が、ここにご紹介する朴一功先生の新著『?!哲学の話』(京都大学学術出版会;学術選書)でありました。


 こういう新著は、どういうわけか「いきなり」手渡されるんですね。
予告なしにいきなり出てくる。
今にして思えば、朴先生、冬ごもりするリスのようにせっせ、せっせと何かの準備をなさっていたように思います。
が、あの朴先生が、「です・ます」文体の、イラスト入りのご本を出版するとは思いませんでした(ちなみにそのイラストは、藤色ゆいこさんを名乗る大谷大学哲学科出身の人物)。
そのうえタイトルが「?!哲学の話」であります。
いったいどう音読したらいいのでしょう?
その「?」は青、「」は黒、「!」は赤。
わたしなんぞは、朴先生の次の著書は「『ソクラテスの弁明』註解」というようなゴリゴリの学術書だと思っていたので。「?!」にびっくり。

 しかし、内容が「?!」という調子で書かれているわけではありせん。
たしかに「です・ます」調でやさしく読めるのですが、内容は哲学の基本を今一度キッチリと押さえる、噛めば噛むほど身になる哲学のエッセンスが凝縮されているものです。
それが、1,800円(税別)で手に入るのですから、こんなありがたいことはない(私ら哲学科教員一同は「謹呈」されちゃいましたけど)。
慌てず騒がず、何度もじっくり読めば「?!」を体得できる、そんな本です。

 この本がたくさん売れて、京大学術出版会が朴先生に「『ソクラテスの弁明』註解」も出版しましょう、と願い出ることになったらうれしいです。


 
posted by CKP at 16:07| Comment(0) | 雑想・戯言 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2019年02月07日

CKPは卒論試問活動を2020年で休止します――今年の試問無事終了

 卒論試問、無事終了しました。
 皆さん、力作を提出してくれしました。
が、読むこちらの方が64歳ともなると、なかなかつらいものがありました。
卒論の微妙にぶれる文脈をたどるのが、とてもつらい作業になってきたのです。
やっぱり、65歳定年というのは穏当なところでしょうか。

 しかし、その文脈を確かめながら試問をすると、いろいろ収穫があります。

 何人かの学生が「自殺」の問題を取り上げていたのですが、どれも日本での自殺の位置づけに苦労していました。
キリスト教文化圏では、はっきりと自殺は神に背く罪として位置づけられますが、日本では切腹などがあってどうもはっきりしない。
それでいろいろ試問中に学生諸君と考えたのですが、そこにやはり「恥」という補助線をひくと明確になって来るのではないか、ということに気が付きました。
ま、当たり前といえば当たり前なのですが・・・。

 それと、オタク文化と宗教を論ずる卒論の試問ではっきりしてきたのは、カルト的な宗教やオタクの中でも偏狭なオタクの場合、その世界以外にリアリティを感じないという共通点があるのではないか、ということに気が付きましたよ。

 と、このような口頭試問もいよいよ来年の1月のみ。
嵐は来年いっぱいで活動休止。
あたしは、来年度いっぱいで活動停止であります。
posted by CKP at 12:05| Comment(0) | 雑想・戯言 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2019年01月16日

ゴリラの褌で読書欄――毎日新聞読書欄にカドワキ登場

 この前の日曜日の毎日新聞の読者欄にわたくしカドワキが登場いたしました(と『同朋』編集部から連絡あり)。
それで、新聞を探し出しその記事を探す。
よ〜く探さないとわからない。
1段20行たらずの小さな記事ですが、『同朋』での山極寿一先生との対談相手としてたしかにワタクシ・カドワキの名前が登場しております。

 もちろん山極先生の発言について「面白い」という紹介記事ではありますが、ともかくもその発言を引き出した対談相手として新聞の読書欄に名前が登場するなど、一生に一度あれば、ま、大騒ぎして喜んでもよろしいかと思います。

 時間が一時間しかいただけなくて、とにかくいろんな質問を次から次へと浴びせかけた、対談というよりインタヴューでした。
あのまとまらない流れを、うまくまとめてくれた同朋編集部に改めて感謝です。
posted by CKP at 14:20| Comment(0) | 雑想・戯言 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2019年01月05日

本年もよろしく――楽しい記事を書きたいよ

 2019年ということになりました。
コンピュータの2000年問題で騒いでいたのがついこの間だったと思うのに、もう19年。
4月からの2019年度は、小生カドワキの大谷大学での最後の年度になります。
晩節を汚さぬよう、穏やかに過ごしたいものです。

 というわけで、このブログへのエントリーが少なくなっているわけではございません。
なんだかね、書こうという気がなかなか起こってこない。
世の中を見渡せば、もういやのことばかり。
それを書けば不満ばかりになってちっとも楽しくない。
それと、今書こうとしている論文がなかなかまとまらないということもあるかも知れません。
世の中のことはどうにもなりませんが、論文の方はなんとかできるので、これをさっさと片付けて、最後の年、もっとエントリーを増やしたいと思いますのでよろしくお願いします。

 よろしくお願いついでに、現在絶賛発売中の月刊『同朋』でカドワキが山際寿一先生にインタビューしている記事がなかなか面白いで、どこかで目に止まったらお買い求めください。
山際先生のあまり聞けないお話しを引っ張り出したのがカドワキの手柄です。
また巻頭インタビューはクレイジージャーニーのヨシダナギさん。
それに(藤)こと藤枝真先生も、大谷大学文学部哲学科宗教学・死生学コースの紹介のページに登場しておられます。

 ということでヨロシク。
posted by CKP at 16:05| Comment(0) | 雑想・戯言 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2018年12月30日

連絡しないで、喪中なんだから〜――アメ横女学園的年の暮れ

 今年は、母が亡くなったので「喪中」。
というわけで、アメ横女学園の「暦のうえではディセンバー」が胸を張って唄える年末となりました。

 11月中に「喪中で年賀状ごめん」ハガキを出したので、けっこう余裕のある年の暮れとなりました。
と、油断していたら、この寒さでどうも体調がヘン。
耳鳴りがしたり動悸がしたりしていましたが、昨日あたりからその不調が風邪の症状に収斂してきたようです。
明日の除夜の鐘からお正月三が日のお年始の挨拶(お寺のこれは喪中だからと言って休めない・・・とほほ)に備えて、あったかくして寝ます。

 皆様、ごきげんよう。
よいお年を。
posted by CKP at 19:22| Comment(0) | 雑想・戯言 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2018年12月24日

サンタクロース、おそるべし!――『ヘッドライト』はクリスマス映画だった!

 このあいだ、ジャン・ギャバンとフランソワーズ・アルヌールの『ヘッドライト』を見て驚いた。
この映画は、1955年に制作されているのですが、そこにはすでにサンタクロースが堂々とフランスの市民権を得ているのです。

トラック運転手のジャン・ギャバンと今でいうドライブ・インのウエイトレスのちょっときわどい会話の中に「サンタクロースを信じるほど子供じゃないわ」というセリフが出てきたり、夜が明けて帰ってきたためサンタクロースとして子供にプレゼントを渡せなかったギャバンを奥さんがなじるというのが、けっこう重要な場面になっているのですね、この映画。

 レヴィ=ストロースが「火あぶりにされたサンタクロース」(1952年)で報告しているディジョン大聖堂の前での異教の神としてのサンタクロースの火あぶりが1951年。
それから4年後のこの映画では、そんな火あぶりがあったことなどすっかり忘れられて、フランスでもサンタクロースの爺さんはでかい面をしているのです。

「私たちは、子供らにとってのサンタクロースの権威を傷つけないように、いろいろな犠牲を払って、気を配っている」とレヴィ=ストロースは書いていますが、そのような犠牲を払わせる不思議な力がサンタクロースにはあるということでしょう。

 恐るべし、サンタクロース!

 しかし、太った中年の親父がなんでフランソワーズ・アルヌールと恋に落ちるのか!
これだけは、なんど見ても納得がゆかないぞ!怒るべし、カドワキ!
posted by CKP at 18:03| Comment(0) | 雑想・戯言 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2018年12月12日

「魂の不死について」――朴一功教授ご講演いよいよ明日

 明日12月13日午後6時より、大谷大学西哲・倫理学会の公開講演会が開催されます。
朴一功先生の「魂の不死について」というご講演。
場所は赤レンガの二階の尋源講堂。

 朴先生と言えば、プラトン、アリストテレスなど古代ギリシア哲学の現代における世界的研究者。
その碩学が「魂の不死」というプラトン哲学の核心についてお話してくださいます。

 朴先生は、いよいよこの3月に退任ということで、この講演は「最終講義」の意味合いもかねており、卒業生も参加しやすいように午後6時からの開催だそうです。
いっぱい集まるんだろうな・・・と、ちょっと複雑気持ちでいるのは、来年度に退任するカドワキです。
あたしのばやい、こういう機会があっても卒業生が来ないという事態が想定されて、ちょっとね、複雑なんです。
ま、ほとんどほったらかしでしたから・・・・こんなことになるなら、もうちょっと親切に指導しておくんだった・・・

それはともかく、またとない機会ですから、卒業生でなくてもふるってご参集ください。
posted by CKP at 13:41| Comment(0) | 雑想・戯言 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2018年11月27日

ほぼ、たぶん、完売御礼――『哲学入門 死ぬのは僕らだ!』

 今を去ること5年前の2013年9月に発売された我が拙き著『哲学入門 死ぬのは僕らだ!』が、おそらく完売となった模様です。
と、いやしくも著者のくせにあやふやな情報しかないのが悲しい。
つまり、出版社からは品切れになったから増刷しましょう・・・などという声がかからない。
しかも、編集者が退社してしまっているから、その品切れ状態がいつごろからかもわからない。

 まことにトホホ状態なのですが、ともかくも8000部刷られたあの本が完売したようです。
版元の品切れ状態は一年前からだったのですが、密林の狩猟者はどこからか新品本を集めてきてアマゾンでは最近まで、とぎれとぎれですが売られていました。
手元にほとんど持っていないことに気が付いた著者自身もだいぶ買いましたよ。

 今日見たら、中古本が6,000円ぐらいで売られていましたが、私なら買いません。
6,000円の価値がないというのではなく、そのような形でも金儲けには協力したくない、ということです。
デジタルテキストでも読めますから・・・我ながらセコイ。
もっとも1円という古本もありますけど・・・これは、我が本がちょっとかわいそうです。

 というわけで、拙著をご購入いただきました方々に、心からお礼を申し上げます。
5年もたつともう少しここのところははっきりと書ける…という箇所が目についてきますが、そこは読者の方々独自の読みを展開していただければありがたいです。
posted by CKP at 13:39| Comment(0) | 雑想・戯言 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2018年11月20日

「下品な表現が多い」――オイオイの言葉

 非常勤として講義している某大学で授業アンケートをとりました。
 「要望」を書く欄には「ノートがとりにくい」とか「黒板が見えにくいのでカーテンをひいてください」「どこが大事なのかわからない」という苦言に交じって「下品な表現が多い」というのがあり、目が釘付けになりました。

 下品――はじめて面と向かって言われました。
 相当ショックです。

 ということは、今まで自分は上品な人間と思っていたということでしょうか?
ま、ことさら上品な人間とは思っていたとは自分でも思いませんが、少なくとも「下品」とは思っていなかった。

 なんか、自分の人格を否定するような臭いウンコをしたような気分です――というような表現を授業中発言しているのかもしれん。

 というか、講義を「上品/下品」という評価基準で判断されたことにショックを受けているのかも知れません。

 というわけで、今度からは上品な講義を心がけるカドワキです。
posted by CKP at 13:26| Comment(0) | 雑想・戯言 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2018年11月16日

「冗談じゃねえよ、あんなもん」――オイオイの言葉

 昨日の本家「折々のことば」は、柳家小三治師匠のことばでした。
『別冊 太陽』の小三治師匠と古今亭文菊さんという若い噺家さんの対談からの引用でした。
若かりし小三治師匠が師匠の小さんからバッサリと袈裟切りにされる話も紹介されておりました。

 そして、この対談で小三治師匠、文菊さんにけっこうきつい。
バッサリと袈裟切りという言葉がポンポン飛び出しています。
あのすっとぼけたような高座での小三治師匠からは想像できない厳しい言葉が飛び出すのです。

 その小三治師匠は、高校生のとき「しろうと寄席」というラジオ番組で15週連続出場しているのですが、そのころは圓生の「モノマネか」と言われるくらい圓生を尊敬していたそうです。
しかし、いつしか、何度か聞いているうちに「震えなくなっちゃう」ことになる。

 そんなころ、尾上松緑の「圓生?冗談じゃねえよ、あんなもん」という言葉に出会うのです。
「いいかね、あんなもん、なんだよ。落語じゃねえよ、あんなものは。下手な歌舞伎じゃねえか」

 それを聞いたとき「背中をムチで叩かれたようにビリとして」、震えなくなった「理由に気付かされた」んだそうです。

 小三治師匠のなかの霧が一気に晴れたのでしょう。
こうゆう、何かをズバリと本質を突いてくる言葉、すごいですね。

posted by CKP at 21:08| Comment(0) | 雑想・戯言 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2018年11月14日

ポール・デズモンドの最大の功績は・・・・――オイオイの言葉

 中山康樹&ジャズ・ストリート『読んでから聴け!ジャズ名盤100選』(朝日新書)という2007年の本をペラペラめくっていたら、デイヴ・ブールベックの次のような発言の引用に目が止まりました。

「ポール・デズモンドの最大の功績は、チャーリー・パーカーをコピーしなかったことだろう」

 これを読んだとき、「すべてが氷解」って感じになりました。
つまり、それまでなんとなくポール・デズモンドのサックスに分かりにくいものが霧のように漂っていたのですが、その霧が一瞬でさっと晴れたような気がしたのでした。

 ポール・デズモンドとブルーベックと言えば、「テイク・ファイヴ」。
 1960年代の「素晴らしき世界旅行」という日立提供の旅番組(久米昭さんが「マサイ族は一晩に40キロ歩く」とナレーションを担当していた)のテーマ曲として流れているのを聴いて、「ジャズってカッコいい」と思った曲。

 そのころ来日したアート・ブレイキーとジャズ・メッセンジャーズのテレビ放送では、「ジャズって激しい」と感じました。
以後、ソニー・ロリンズやエリック・ドルフィーなど「激しい系」のジャズを聴いていると、ポール・デズモンドのサックスというのはちょっと違う、でもどこが違うんだろう?ということになってしまっていたのでした。

 そのような霧を、このブルーベックの言葉は一瞬のうちに解決したのでした。

 よかった、よかった。

posted by CKP at 16:55| Comment(0) | 雑想・戯言 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする